弓月国(ゆずきのくに)という地域
~ おさむの鳥の目218 ~
先日、京都市埋蔵文化財研究所の人の「埋蔵文化財から見える廣隆寺の姿」という講演を聴く機会がありました。造営当初の廣隆寺境内は今よりはるかに広大で、このあたりを発掘調査すると、古墳時代後期から飛鳥時代前期の竪穴住居が多く見つかるということでした。
廣隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれており、私の家の北東400メートルのところに「蜂岡中学」という学校がありますので、親近感を持ってしまいます。「竪穴住居があったのか」と思うと同時に、発掘現場跡が現在の生活道路ですから、昔と今を重ねて認識することが出来、昔の時代を詳細に知ることができる発掘調査とは面白いものだと改めて思いました。
そして、現在の姿で言って、廣隆寺の200メートル東にある大酒神社、これについては前にも触れましたが、その祭神の一人に、「秦始皇帝」に並んで「弓月君(ゆんずのきみ)」の名が出てきます。日本書紀には、秦氏渡来について弓月君が百済より127県の人々を率いてやってきたと記載があるそうです。
グーグルで検索すると、「弓月君」という名前は、シルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えた「弓月国」と関連しているのではないだろうかという記載があり、「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったとあります。
さらに、「この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹の貿易を独占していたのである。秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。」とも書かれています。
弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)については、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。伝説上の人物であり、実在は不明であるとあり、明確に歴史に名を残している人物ではありません。
このように、弓月君は明確な歴史上の人物とは言い切れないのですが、伝えられるように、中国の西外側にあった弓月国という地域に住んでいた人々を束ねて、朝鮮半島経由で日本に来た渡来人の首領であったと考えられます。
その後、秦氏は日本の社会に大きい貢献をしたことは広く知られたところです。その力の源泉は、治水工事などの突出した技術力や生活用品の生産技術など秦氏が備えている知的能力です。そして、これらの知的財産は、西方の先進民族から伝わったものと考えられます。
ところで、弓月国の地域では、この地域は「月」の地であり、西のローマは「星」の地、東の地(日本)は「太陽」の地だと考えられていたと言います。ほかの話ですが、天啓を受けて東の地(日本)へ行こうという考えを持った人がいたという話を聞いたことがあります。
この二つの話を結びつけたのは私であり、何の根拠もありません。しかし、上記秦氏の「弓月国から来た」という話は事実であるようであり、これとは別に、中国には「開封」という都市があって、昔からユダヤ人が住み続けているという実例があります。(「開封のユダヤ人」で検索できます。)
また、ユダヤの失われた十部族が住むと言われている地域が、シルクロードに沿っていくつもあるという事実も知られていますので、上記弓月君のように「西方から東の国(日本)へやって来た」例は、ほかにもあるという考えは、簡単には否定できないと思っています。
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コメント
ロマンあふれるお話、ありがとうございます。
「廣隆寺」も「弓月君」も初めて聞く名前で、歴史の奥深さを感じます。まだ日本の歴史が確立されてないころ、大陸から多くの渡来人がやって来ていたのですねえ。
しかし日本は東の果て。あとは太平洋が広がるだけです。
♪ここは地の果てアルジェリア~
「カスバの女」の詞のような感覚にならなかったことを祈るばかりです。
機会があったら廣隆寺にも行ってみたくなりました。
投稿: soji | 2018年5月25日 (金) 23時00分