カラフルエッセイ  sojiの今日もワクワク

2018年7月 1日 (日)

本来の姿、本来の味

~ soji の今日もワクワク 240  ~

東京ドームのすぐそばに建つ文京シビックセンター。25階には、無料の展望台があります。

眼下を見下ろすと、都内の街並みが。でもこの高さまで上ると、人の姿はほとんど識別出来ません。動いているのは車と電車ばかり。展望台に上るたび、私はこんな妄想を抱きます。

地球に宇宙人到来。彼らは都市部の上空から地表を探索し、蠢く知的生命体を発見した。それらは甲虫のような生物で、線上に等間隔に並び、地上を滑るように這い回っていた・・・

そうです。おそらく宇宙人は、生命体として認識するのは、まず車ではなかろうかと。しかしその正体は、車を運転する人間。だがその人間たちも、色とりどりの服を着ています。生命体本来の姿は、服を脱がせて裸にしなければ分かりません。

また別の話。

定食屋で冷やっこを食べた時のこと。昔入った高級料理屋を思い出しました。そこでは、豆腐に醤油をかけるなと言うのです。本来の豆の味がしないからと。

そう言えば、私たちは様々な食べ物に調味料を付けて食べています。刺身には醤油、とんかつにはソース、サラダにはドレッシング・・・別に何の疑問も持たず、日常的に行っていることです。しかしあらためて考えました。ひょっとすると調味料をかけることで、本来の味を消してしまっているのではなかろうかと。

つゆを付けて食べる蕎麦もその一つでしょう。特に打立て。そばツウはまずつゆを付けずに食べるとか。先日、私もやってみました。確かに蕎麦の風味が豊かで、淡白な中に深い味わいがあります。しかし何口がすすると物足りなくなり、つゆを少しだけ付けました。そうです。つゆって、あくまでも物足りなさを補うためにあるわけで、べちゃべちゃと付けてはいけなかったのですね。

古代、人間は肉や野菜を食べる際、調味料などは使わなかったことでしょう。推測ですが、本来の味で十分満足していたはずです。一方現代人は、もはや調味料無しで食べることはまず出来ません。どちらがいいとか悪いのとかの比較論ではありません。が、せめて最初の一口だけでも、調味料を付けないで食べてみると、本来の味に対する新しい発見があるように思います。

元に戻します。車の中から出て来た人間の話。

服などの装飾品を取り去り、裸にすれば本来の姿が分かると書きました。が、一部のケースを除き、それが正しいとは言えないでしょう。なぜなら、本来の姿とは、その人間の思考に大きく影響されるからです。服や装飾品、場合によっては乗る車までもが、その人間本来の姿を現している、と言っていいのではないでしょうか。

もちろん、肉体美を追及している人はいますし、この肉体こそが自分本来の姿と言うでしょう。が、大半の人は、服や装飾品に自分の姿を託しています。敢えて乱暴な言い方をすれば、その人間の本来の姿を見るためには、裸にするよりも、その人の思考、嗜好に基づいた服や装飾品に判断材料を求めた方が確かな気がします。

当然、無頓着な人もいます。また、一見ずぼらそうで意外なところにその人のこだわりや価値観が見え隠れする人も。そんな中にもまた、人間本来の姿が現れ出るのです。

さらに、現状だけでは本来の姿は見えて来ません。事件を犯した容疑者に対し、まさかそんな人には見えなかったとの話をよく聞きます。その人の過去はもちろん、将来何をしたいのか、前後まで探らないと見えて来ないでしょう

自分の本来の姿を一番知らないのは、その人本人かも知れません。自分の配偶者や親、身近な友人の講評が、意外と的を射たりする。あの人は、明るい、優しい、人に親切。一方、暗い、冷たい、自己中心などなど。高評価はいいけれど、仮に低い評価が出た際、それを治そうと前向きになるのか、どうせいいやと開き直ってしまうのか。これも本来の姿の一部と言っていいと思います。

今はそうでなくても、一生懸命美しくなろうと努力している人。今は美しいが、何もしていない人。おそらく将来は大きく差がつくことでしょう。

本来の味は、いかに調味料をマイナスして味わうか。一方、本来の姿は、いかにプラスされた服や装飾品から探求していくのか。

今年は早くも梅雨が明けてしまいました。わずかな雨の中で、濡れていたアジサイ。七変化と称される花の色は、吸い上げた養分による酸性度によって変わるのだとか。ではアジサイの本来の色は何だろう。ふつうそんなことは考えませんね。花びらが七色に変わるのが、本来のアジサイなのですから。

変化の激しい現代だからこそ、目標に向かって変わって行こうとする姿が本来の姿なのではないか。そんなことを色とりどりのアジサイたちに教えられた六月でした。

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2018年5月30日 (水)

安かろう、良かろう、を考える  

~ soji の今日もワクワク 239  ~

JR東北本線「栗橋」駅は埼玉県久喜市にあります。縁があり、初めて降り立ちました。埼玉県の北のはずれ。利根川をはさんで向こうは茨城県です。

降りてびっくり。商店街も無く、駅前に飲食店が数店。あとはタクシー乗り場だけ、田舎の風情満載です。昼食時、何を食べようかと言っても選択肢はほとんどない。仕方なく日本そば屋に入りました。「十割そば850円」を頼むことに。

私は立ち食いそばが好きで、週に2~3度は食べています。天ぷらを乗せても400円程度。最近駅前でよく見るようになった「富士そば」のもりはなんと330円です。だから850円はいかにも高い。しかし一口食べて思い出しました。打ち立ての香り。しこしことした歯触り、そしてのど越し。しょっちゅう食べているのに、本来のそばの味を忘れていることを。

ただ私は立ち食いそばを悪く言うつもりはありません。店によっては24時間、いつでも手ごろな価格で美味しく食べさせてくれます。「安かろう、悪かろう」ではない、まさに「安かろう、良かろう」の定番です。

そばだけではありません。私たちの周りには安くて良いものがあふれています。例えばコーヒー。マクドナルドのSサイズのホットは何と100円。それで店内で結構粘れます。

回転寿司は休日になると、どこの店も家族連れで一杯。最近はラーメンやうどん、うな丼やケーキも提供されています。それも専門の店よりも安い価格で。

スーパーマーケットや衣料商品、100円ショップなどの流通業。宅配などのサービス業も、まさに良心的。本当にありがたいことです。

しかし安いものはなぜなのか。そばにしろ、コーヒーや寿司にしろ、ちゃんと人手を介したものは、それなりの価格がすることを再確認するべきでしょう。

一方、ネットでこんなコラムがありました。入社一年目の女子社員。仕事で頑張ったと言うので廻らない寿司屋に連れて行ってご馳走した上司。ところが、彼女、浮かない顔をしています。せっかくのにぎりも手を出さず、せいぜい刺身数切れに箸を付ける程度。店を出て、何が気に入らなかったのか聞いてみると、なんと驚くべき答えが。

「だってあの板前さん、寿司を素手て握っているから」

だそうです。不潔で食べる気にならなかったとか。確かに廻る寿司屋ではシャリは機械が型にご飯を押し込んで吐き出すだけ。仮に人が握ったとしても使い捨てのビニール手袋をはめている。

寿司は素手で握るから美味しいのだと知らぬまま、大人になってしまった彼女はなんと可哀想なことか。ネット上での話ですから、どこまで真実か分かりませんが、廻る寿司屋で喜んでいる子供たちを見ていると、きっと本当のことだと思います。

またこんな話もあります。

横浜から田舎暮らしを始めたくて岡山に引っ越した方。年に10度ほど仕事で東京に出てくるのですが、とにかく野菜が不味いのだそうです。驚いたのは、この野菜を食べていると口内炎が出来てくる。そして岡山に帰るとすぐに治ってしまうのだとか。私たちの食べている物は、本当に安全なのか。心配になって来ます。

栗橋で十割そばを食べてから、私はたまには「良いから高い」ものを経験しようと努めています。と言っても大したことではありませんが。

例えばコーヒー。専門店で500円近いお金を払い、一杯ずつサイホンで淹れてくれるコロンビア。当然ブラックで。100円では味わえない酸味とコクがそこにはあります。

例えば寿司。店にもよりますが、ランチのにぎりなら1,000円程度で食べられます。米と米の間に微妙なすき間があるシャリは、まさに職人技。有名店に行かなくても、回転寿司との違いは充分分かります。

野菜は生産現場まで行かないと難しいかもしれません。久しぶりに採れたての甘いトマトなんか食べてみたいですね。

先人の血がにじむ努力の結果、私たち現代人は安くて良いものを手に入れられるようになりました。だから時にはこうして「良いから高い」を振り返らないといけないと思います。

ひょっとすると、素手で握った寿司の食べられない女性のように、本来の良さを識別する能力を無くしているかもしれません。それが安心安全に関するものだとしたら、実に怖いことですね。

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2018年4月30日 (月)

挨拶の功罪

~ soji の今日もワクワク 238  ~

4月。私の勤める会社も新しい期を迎えました。事業本部長の方針発表。内容に、サプライズがありました。なんとわざわざ時間を割いて「きちんと挨拶をしろ」と話したのです。

これが入社式のスピーチや、新任監督職向けの講話ならまだ分かります。しかし今回は役員を含めた一般管理職に対してです。私は入社して30年以上になりますが、こんな話を聞かされたのは正直初めてでした。

以前、ネットで目にした話。以下、「マンション内で挨拶禁止。あなたはどう思う?」より。

マンションに住む主婦から理事会への提案。子供には知らない人に挨拶をするなと教えているので、マンション内でも挨拶禁止のルールを設けてほしいとのこと。なんとこの提案、理事会で通ってしまったのだと。

確かに昨今、子供を襲ったのは身近にいる大人だったというニュースはしばしば耳にします。学校としても親としても、かなりナーバスになっているのはよく分かります。

私のマンション近くの交差点に立つ“緑のおじさん”のこと。(二人のおじさんを思う ~sojiの今日もワクワク210より~)

今では別のおじさんが勤めています。この人たちは対子供以外は何もしません。毎朝通勤で交差点を渡る私を認識しているだろうに、こちらを見ても知らんぷり。当然挨拶なんかまったくしません。知らぬ人とは接点を持つなと学校から教え込まれているのでしょうか。いつも無愛想に立っています。

子供たちも大人を敵視しているかのようです。これまた以前書いたネタ。(小さな一言で ~sojiの今日もワクワク219より~)。

見知らぬ大人への挨拶はもってのほか。だからこそマンション内でもそのルールを徹底して欲しい。理屈はわかりますがモヤモヤは消えません。

そんな中、先日、仕事の関係でとある大学に行った時嬉しい経験をしました。そこは東京都下、駅から徒歩15分の閑静な住宅街にあるこじんまりとしたキャンパス。すれ違う学生たちは、一様にこちらに挨拶してくるのです。随分と礼儀正しいな。

学生支援センターの方と話で理由が分かりました。周辺の住人がクレーマー化しているとのだそうです。見ると、キャンパスと隣接する住宅との境に高い塀が無い。大学の方が歴史が古いのに、後から家を建ててクレームを言うのもいかがなものかとは思います。が、大学としてはトラブルを避けるため学生に徹底指導しているのでしょう。

とは言え、挨拶をされてイヤな気はしません。日ごろ無愛想っぽい男子学生からも「こんにちは」と明るく言われ、実に気持ちいいのです。

悪いこと出来ぬ挨拶されるから (soji)

やましいことがあれば、まともに挨拶が出来なくなります。ましては相手の目を見ることなどもってのほか。コンプライアンスの徹底が叫ばれている昨今。不正防止のひとつとして挨拶の励行があるのでしょう。

しかし、挨拶は踏絵ではありません。相手を気持ちよくさせる。思いやり、おもてなしの精神が込められています。犯罪防止のため幼い子供には仕方ないかもしれませんが、挨拶に込められた良き精神だけはきちんと教えてあげて欲しいものです。

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2018年3月27日 (火)

感動力を養う  

~ soji の今日もワクワク 237  ~

2017年10月の衆議院選挙。私の住む和光市がある埼玉四区ではスターが生まれました。

豊田真由子元代議士です。 「このハゲー!」で物議を醸すも無所属で再出馬し、華々しく散って行きました。彼女を見て一句。

四区ではハゲの候補者いなかった

結局どこにも発表せずお蔵入りにしましたが、これをきっかけに本格的に川柳を始めました。

発想多彩ひろばの主催者、さとうさんが活躍する毎日新聞、万能川柳に私も投稿することに。

ハガキ一通に3句書き、週に4回を目標に投稿し続けました。

しかし3カ月続けても何の音さたも無し。一方、さとうさんの柳名「ひねのり」は紙面にしばしば登場するではないですか。

思った以上のハードルの高さに、ついさとうさんにメールで弱音を吐いてしまいました。すると、こんなお返事が。

・・・(前文略)・・・

目標が辛いものだと、確かに続きません。
川柳も、載ることが目標では辛くなります。

川柳においては「うがち」が命です。
うがちとは「見過しがちな事実に気づく」ことです。

なので、気づく(そして句ができる)ことに川柳の喜びがあります。
ここを目標にできればいいですね。

「水平線こんな小さなグラスにも」(山上秋恵)

という名句(万能川柳・秀逸句)がありますが、素晴らしい気づきですね。

「毎日が初体験」でも書いたように、私は厳しい目標を立てたがる癖があります。楽しむために始めた川柳についても、知らず知らずのうちに自分を責めていたようです。

「見過しがちな事実に気づく」「気づくことに喜びがある」これらの言葉で随分楽になりました。

そして3月12日月曜日の朝、さとうさんからのお祝いメールが。あらためて紙面を確認すると・・・ ありました!

和便器じゃたせぬ身体になりました (和光 soji)

ちょっとレトロな喫茶店のトイレにはいったところ、あるのは和便器だけ。しゃがむのがこんなに苦痛になってしまったことに気づいて詠んだ一句です。「たせぬ」は足せぬ。排泄だけでなく、満足感にもひっかけてみたのが評価されたのかもしれません。

東京地方はサクラが開花。あちこちで花見が行われています。しかし道端に目を転じれば、名もない雑草でさえ小さな花を咲かせています。

気づきは感動する力。どんな些細な発見にも動く心を持ちたいものです。

川柳は私にとって、感動力を養ういい訓練になってきました。決して力まず、楽しさを忘れず続けて行きたいと思っています。

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2018年3月 1日 (木)

続・得をするクセ、損をするクセ

~ soji の今日もワクワク 236  ~

前回、「得をするクセ」と書きながら、何となく違和感を感じてい ました。

手癖、悪癖、女癖・・・

クセとはもともと悪いもの。「得をするクセ」 という表現は正しくないのではないか。そこで「クセ」 について広辞苑で調べてみると、

偏った嗜好または習慣。欠点、非難すべきこと

と書かれていました。思った通りです。ちなみに「習慣」は、

日常の決まりきった行い。しきたり、ならわし、慣習。後天的に習得し、比較的固定して、少ない努力で反復出来る行動様式

ですので、本来の言葉の意味を正確に反映すると、「得をする習慣 、損をするクセ」と言い換えた方がよかったのかもしれません。 そして、「損をするクセ」を矯正するのがまさに「得をする習慣」と言えるのではないでしょうか。ここでは、 私が現在取り組んでいる習慣づけへの工夫について、2点ご紹介いたします。

まず一点目は、「これまで行っている習慣に相乗りする」

私は高血圧で、定期的に通院して薬をもらっております。先日、かかりつけの先生から、朝晩2回づつ、血圧を測って記録するように 、と言われました。1回では値がばらつくので2回計測して平均をとるようにとのこと。2か月後の診察には、血圧記録シートを提出しなければなりません。ずぼらな私には、酷な宿題です。

通常、朝起きたら歯磨きと洗顔を行いますね。 私も子供のころからの習慣で、やらないと気持ちが悪くなります。 この習慣に血圧測定を紐付けることにしました。つまり、血圧を測 らないと、歯が磨けないルールを自分に課してみたのです。これは 効果てき面。朝の習慣づけは比較的すんなり行ってます。

問題は夜。飲酒の好きな私は、外でも家でも、酔ったらそのまます ぐに寝てしまうのが悪いクセでした。そのため、 何度測定をすっぽかしたか。そこで考えました。 夜の歯磨きと紐付けしようと。起き抜けの儀式と同様のものを、 就寝時にも出来ないかと。血圧を測る前に眠るべからず。 しかしこれは定着まで少しかかりそうです。 昨夜も忘れてしまったし。

二点目は、「アプリを活用する」

私は、土日の休日はついグダグダしてしまう悪いクセがあります。 部屋に閉じこり、ラジオを聴きながらネットサーフィンに明け暮れて しまいます。そこで活用しているのは、健康増進の無料アプリ「 aruku&」(あるくと)。その名の通り、 歩数を記録するアプリです。

ユニークなのは道路地図上の現在地に、自分を示すイラスト(男性、 女性のどちらかを選定)が表示されること。地図上には様々なイラ ストによる“住人”が現れ、彼ら、彼女らの指示する歩数を歩くとポイントがもらえ、協賛会社のプレゼント懸賞に申し込むことが出来ます。上手く当選すれば歩くだけで景品ゲット、 となるわけです。

特に私が気に入ったのは、一日一万歩の目標達成を何日連続したか で、ポイントがもらえるというもの。このため、これまで外出したくなか った休日も散歩にだけは出るようになりました。 一度面倒臭くなって記録が途絶えてしまったのですが、 そのときの悔しかったこと。アプリに躍らせれていると言えばそれ までです。が、いい動機づけになっています。

「aruku&」のいいところは、とにかく歩く目標に向けて、楽しく、苦しまずに達成させようと工夫していること。前回私は、「 最初は頭もカラダも抵抗を示すでしょう。でも続ける。辛くても続 ける。やがてそれをしていないと気分が悪くなるまで」と書きましたが、もはや根性もへったくれもないオヤジの私。楽しくなけれ ば継続しないことを実感しています。「少ない努力で反復出来る」 これが本当に大事だと思います。

例えば無駄遣いのクセを治してくれる「家計簿」作成アプリや、楽 しく出来る「ダイエット」支援アプリなど、探せば今の自分にぴっ たりのものが見つけられるでしょう。こうした最新テクは、 自堕落な自分を監視し、得する習慣づけをサポートしてくれる、力強い味方となってくれるはずです。

もうすぐ春がやってくるこの時期。皆さんも新しい習慣づけを始めてみてはいかがでしょうか。

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2018年1月31日 (水)

得をするクセ、損をするクセ  

~ soji の今日もワクワク 235  ~

1月22日月曜日。都心でも20センチを超える大雪が降りました。雪で思いだすのは、ツアーで行った冬の北海道。もう20年以上前のことです。

千歳空港から札幌まで。バスの中でツアコンのお姉さんが言います。

「雪道は気をつけてくださいね。転ばないコツは、歩幅を短くして足を高めに上げ、真上から雪を踏みしめるように歩くことですよ」

市街が見えてくると、ツアー客たちは興奮。せっかくのアドバイスも真剣に聴いていません。目的地に着き、すぐに降り立った3人組のおばさんたち。そして5メートルも行かないうちに、一人が派手にスッテンコロリンと、したたかに尻もちをついたのです。さぞかし尾てい骨が痛かっただろうに。ところがにこやかに立ち上がり「やだー、転んじゃった~」と一言。どれだけたくましいお尻なのでしょうか。

今年、久しぶりの雪。お姉さんのアドバイスどおりに歩く自分。当時の衝撃でびしっと覚えてからもうクセになっているのですね。おかげで雪道で転んだことはほとんどありません。

自慢のクセをもう一つ。それは、本や雑誌を読むとき、目から30センチ離すことです。一般的にはよく見えるように、近眼なら近くに、老眼なら遠くに対象物を離します。しかし私は違います。30センチで一番見えるように目の方を調節するのです。思えばこのクセは、小学校のころから。

具体的には、まず最初、一番見える位置を見つけます。その後、その位置が30センチになるように少しずつずらして行く。時間をかけてゆっくりと行います。

ただ私も半世紀以上生きて来て、さすがにかすみ目が始まりました。しかし昨年の秋、会社で行われる健康診断。出社する電車の中で、30分ほど30センチの焦点合わせをやったところ、視力検査ではなんと両目とも1.2以上。一昨年よりもよくなって、検査員がびっくりしていました。おかげ様で、今でもメガネ要らずです。

しかし、いいクセばかりではありません。私の悪いクセは人の名前や顔を覚えないこと。縁ある人はイヤでも覚えるのだからとついなめ切ってしまう。だからどこかで見たことがあるな、程度の人がとても多い。向こうから挨拶されても、どこで会ったのだろうと首をかしげるばかり。随分失礼をしてきました。

また、ポケットについ手を突っ込んでしまうのもいけないクセ。特に寒い冬はなおさらです。ズボンのポケットに手を突っ込んで歩くと、背筋が丸くなり姿勢が悪くなる。これはいけません。

初詣。皆さんはいろいろと願をかけたかと思います。でも幸せへの一番の近道は、自分のクセを棚卸しすることではないでしょうか。いいクセは定着させ、悪いクセは矯正する。小さなことでもコツコツ続けられれば、やがて生き方が変わり人生全体も変わります。

最初は頭もカラダも抵抗を示すでしょう。でも続ける。辛くても続ける。やがてそれをしていないと気分が悪くなるまで。自分の都合のいいようにクセをコントロール出来れば、これは大きな財産になるはずです。得するクセづくり。私も頑張ります。

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2018年1月 1日 (月)

心のゆとりをプレゼントされた

~ soji の今日もワクワク 234  ~

新年、明けましておめでとうございます。

クリスマスイブのことです。

ロマンチストな私は、毎年寝る前にサンタさんにプレゼントをお願いしています。

最近、つとモノに対する執着が無くなった私。最後にはゴミになる。それならば、モノではなくコトがいい。ふと思いつきました。

「心のゆとりをプレゼントしてください」

翌朝、当然枕元には何もありませんでしたが、すっきりと目覚めることが出来ました。

年も押し詰まった、ある日の朝のことです。職場に行くため家の近くを歩いていた私。歩道は3mほどの幅があり、人通りもさほどありません。

それで私はイヤホンでラジオを聴きながら、 スマホを見て歩いていました。

すると、私の横を自転車がゆっくりと走り抜けて行くではありませんか。運転していたのは作業着を着た小太りのおじいさんです。

追い抜きざま、私に訛りのある怒声を投げかけてきました。

「まっすぐ歩けよ!」

どうも私は無意識に歩道を斜めに歩いていたようです。

「なに!」

一瞬、カッとなった私。相手の自転車、注意喚起のベルも鳴らさない。ましてここは歩道じゃないか。

しかしその一方で、「待てよ」と自分を諭す声。熱した気持ちがゆっくりと冷めて行きました。

イヤホンでラジオを聴きながら歩きスマホをしていた私。 考えてみれば非常に危険でした。

これがゆっくり走るおじいさんでなかったらどうだっただろう。あの怒声は、危険を知らせるメッセージではなかっただろうか。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」

幸せと不幸は交互にやってくる。そんな意味です。

しかし私は思うのです。縄は縄。幸せか不幸かは人間の決めること。 たとえ不幸が訪れたとしても、それは幸せを呼ぶための必然、 と考えられれば不幸はもはや不幸でなくなるのではないか、と。

今の世の中、いいことを願ってもなかなかありません。逆に不愉快で、 腹立たしいことは日常生活に満ちています。

寒くて起きるのがツライ。満員電車はキツイ。仕事がツライ。 仕事が無いのはもっとツライ。食べた昼食がマズイ・・・

ひとつひとつは小さなことかもしれないけれど、積み重なればまさに不幸です。

朝の寒さは気持ちを引き締めてくれる。満員電車、乗客の服装を見て流行を占おうか。仕事のツラさは課題の宝庫、一度整理してみよう・・・

こんな風に考えられるゆとりを持ちたいものです。

私はサンタさんをはじめ、神様、仏様の存在を信じています。彼らは、私の心の中にあって、その都度私にメッセージを発してくれます。

しかし心にゆとりが無い時や、やましい気持ちでいる時は、そのメッセージは私に届きません。

自転車のおじいさんに怒鳴られたことはとても不愉快なことでした。しかし、おかげで危険を冒していた自分を反省することが出来た。

たくさんある嫌なことは、すべて幸せを呼ぶための種。それを理解するのに必要なのが心のゆとり。

あらためて思います。

「まっすぐ歩けよ!」は、ポリシーを持って突き進めという、サンタさんからのメッセージではなかろうかと。

こんなお目出度い話、1月ですからご容赦ください。今年一年も引き続きお付き合いをよろしくお願いします。

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2017年11月30日 (木)

見たくないものは見えない

~ soji の今日もワクワク 233  ~

JR新橋駅近くで立ち食いのうどん屋を見つけました。看板には大きく「うどん230円」と書かれています。なかなか魅力的な価格です。

小腹を空かした私は、とろろ昆布を乗せたうどん、290円也を頼みました。レジで300円を出すと「これでは足りません」と言うではありませんか。そうです。290円は税抜きの価格だったのです。

立ち食い屋はスピード優先。ですから注文前に自販機でチケットを買わせるか、税込金額が普通と思っていただけにちょっとムッとした私。

「税抜きならきちんと明記してくださいよ」と抗議をすると、意外にもこんな答えが。「ちゃんと書いてありますよ」

あらためて見ると、看板にもメニューにも、小さな文字ではありますが「(税抜)」と書かれているではありませんか。驚きました。そして私は昔聞いた、ある偉い人の言葉を思い出したのです。

「人間は、自分の見たいものだけ見える。見たくないものは見えない」と。

立ち食い屋はスピード優先。だから税込の金額表示が普通。この私の思い込みが、「(税抜)」の文字自体を見えなくさせていたのかもしれません。

人間、歳をとるにつれ、冒険を排除し、好きなものに囲まれた生活を求めるようになりがちです。そのことに疑問を感じた私は、「毎日が初体験」活動を進めてきました。一日何か一つ新しい体験をし、手帳に書き留めていこうというものです。

しかし正直、億劫になってきました。特に食事。どうしても好きなものだけに偏り、嫌いなものへのチャレンジがなかなか出来なくなりました。嫌いなものは不味い。そんな思い込みがのしかかります。

疲れているときは新しいことはしたくない。今まで培った価値観だけに頼った、だらだらした生き方に憧れてしまう自分がいます。

見たくないものを見る時、嫌な思いをします。だから見ないようにする。結果的に、見えなくなってしまう。同じシーンなのに、実は見ているものは違っていた。世の中のトラブルの大半は、ここに原因を発しているように思います。

きちんと見えるようになるためには、自分の中に芽生えた嫌な感情を排除せず、真摯に受け止めることではないでしょうか。気晴らしは大事ですが、そのことで問題点から目をそらしてしまっては、ことは深刻になるばかりです。

「毎日が初体験」活動の中に、その日体験したネガティブな感情も、敢えて書き留めていこうかと思います。思い込みが激しくなった自分に喝を入れるためにも。

今年一年、私の拙い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。皆さま、よいお年を。

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2017年11月 1日 (水)

郷土の偉人に出会う秋(2) 語り部の力

~ soji の今日もワクワク 232  ~

埼玉の3偉人。最後は渋沢栄一です。 歴史大好きのさかもっちゃんを助手席に乗せ、 秋晴れの体育の日にドライブしてきました。

栄一は、1840年(天保11年)武蔵国血洗島村、 現在の深谷市血洗島に農民の子として生まれました。 生家が今でも残っています。

Photo立派な門構えに池のある庭。養蚕場も兼ねた天井の高い古民家は、 さすが近代日本資本主義の父が生まれた家。500の会社を育成し、600もの 社会事業に携わった大偉人だけあります。

建物の中には入れるものの、玄関の土間止まり。 残念ながらそこからは座敷を覗き込むだけです。 解説員のおじいさん。私たちを含む6名ほどの観客に、座るように促します。

「この家は栄一が出て行ったあと、 妹の『てい』がここまで大きくしたんです。 大黒柱に使われている木材は、固くて有名なタガヤサン。 漢字で書くと鉄刀木。だからテットウボクとも言います。 解説している私はトウヘンボク。覚えて帰ってくださいね」

一同、キョトン。ああ、ここは笑うところでしたか。おじいさん、 ひるむ様子もなく、楽しそうに続けます。

幕末、尊王攘夷の影響を受けた栄一は、 高崎城の襲撃を企てるが未遂。 役人の目を逃れるため、23歳の時生家から京都に出奔、 人づてに一橋家に仕えることになる。

やがて一橋慶喜が将軍になると、慶喜の弟、昭武に従って渡仏。 近代ヨーロッパの知識を吸収して2年後、大政奉還により帰国する 。

蟄居する慶喜とともに静岡に。フランスでの知識を活かし日本初の株式会社、商法会所を設立した。そのことが新政府の目に留まり、 大蔵省にスカウトされる。

目覚ましい業績を残すものの、 予算面で大久保利通と対立、わずか3年あまりで辞職。その後、 第一国立銀行を設立するなど近代日本の発展に貢献し、 農民出身にもかかわらず子爵まで登り詰め、91歳で大往生したと。

笑顔あふれるおじいさん。話があちこち飛ぶのが欠点ですが、かえって面白く、興味は尽きません。

「『てい』の2人の息子、 栄一にとっての甥たちも立派な人だったんですよ」

長男は「元治(もとじ)」。東京帝国大学で電気工学を専攻。 家庭用に電気を供給するにあたり、 人間はどの程度の電圧まで耐えられるかを、自分や自分の妻の体をもって実験したといいます。結果、 100Vまでは大丈夫と結論を出し、 現在でもその値が基準になっているとのこと。

次男は「治太郎(じたろう)」。 勉強のために上京した兄に代わり、 この家に残り郷土の発展に尽くしました。 地元でよく採れるねぎを北海道や東北で販売したところ、 その味が評判になりやがて全国に。 現在「深谷ねぎ」が有名なのは、 治太郎の業績が大きいのだとか。

3偉人の記念館やゆかりの地を回って気が付いたのは、本庄、熊谷、深谷の各市がかなり力を入れていることです。映像で偉人を分かりやすく紹介したり、ゆるキャラを作ったりと展示方法にも工夫が見られます。しかしどんなに力を入れても、人が介在しなければ、単なるハードウエアの陳列で終わってしまいます。

立派な業績や、数々の困難を乗り越えたエピソードを伝えるゆかりの品々。それらに血を通わせて語ろうとする「トウヘンボク」のおじいさんの情熱。「語り部の力」を教えられた、秋の一日でした。

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2017年9月30日 (土)

郷土の偉人に出会う秋

~ soji の今日もワクワク 231  ~

荻野吟子(おぎのぎんこ)。

日本の公認女医第一号で、埼玉の3偉人の一人。長いこと埼玉に住んでいるのについ最近知りました。埼玉県熊谷市に記念館があるとのこと。秋風が吹き始めた9月の土曜日、行って参りました。

JR熊谷駅を降りてバスで30分、バス停から歩いて20分。農道を突き抜けた利根川のほとりに記念館はあります。来訪客は私一人。出来て日が浅いせいか清潔な室内ながら、手狭な印象を受けました。

作家、渡辺淳一が吟子の生涯を取材し、昭和45年に著した小説「花埋み」。そしてこの小説を原作とした舞台「命燃えて」。壁に貼られた年表には、小説の一節と舞台写真がちりばめられ、ゆかりの品々が展示されています。室内中央に展示されたドレスは、吟子役の女優、三田佳子が実際に身に付けた衣裳のようです。

後日、私は図書館で「花埋み」を読んでみました。そこには女医第一号という華やかな名声とは全く違う姿が描かれていたのです。

ペリー来航の2年前。妻沼町(現在の熊谷市)俵瀬に生まれた吟子は、10代で嫁いだ夫から淋病をうつされ、子供の産めない体となって離縁。東京で受けた男性医師からの診察が屈辱的であったため、女医を志し、苦難の末、女性で初めて公認の医師となったとのこと。

女医となった吟子はやがて、江戸時代から色濃く残っていた、男尊女卑の風潮に悩み始めます。婦人開放運動の先駆者として活躍し名声を得ながらも、13も年下の男性に求婚され、周りの反対を押し切って39歳で再婚。そしてすべての名声を捨てて、夫と共に北海道に渡るのです。しかし過酷な労働の中で夫が亡くなった後東京に戻り、医院を開業したものの、もはや彼女の知識は時代遅れ。7年後、養女に見守られ一人63歳の生涯を閉じたのでした。

東京に戻った後の吟子の様子は、小説にも詳しくは書かれていません。一度は諦めた女としての幸せ。そのために血がにじむような努力の末に手に入れた名声を捨て、愛する人を追いかけた。そんな自分を晩年、果たしてどう思ったのか。もし彼女が東京に留まっていたとしたら、どれほどの偉業を成し遂げたでしょう。でも私は思います。明治という女性に過酷な時代にあって、すべてを投げ出して愛の道を選んだ生き方こそ、荻野吟子の偉業ではなかったかと。

Photoちなみに「花埋み」の意味は、棺の中に横たわる故人のまわりを、花で埋めてあげることだそうです。記念館の横には吟子の像が建立されていますが、本当はこうして奉られることなく、静かに眠っていたいのかもしれません。

どんなに日の当たった偉人でも、その生涯の中には必ずどこかに暗い影があるものです。その影を見つけるたび、自分と変わらないじゃないかと共感したり、涙したり。そして一生懸命生きてさえ行けば、たとえ偉業を成し遂げられなくても、ちょっとくらい胸を張ってもいいかなと思ったりするのです。

荻野吟子記念館。物憂い秋に、何かとても大切なことを教えてもらった気がします。

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