カラフルエッセイ  sojiの今日もワクワク

2018年12月30日 (日)

一年の計は元旦の前にあり

~ soji の今日もワクワク 246  ~

人気番組「笑点」で、三遊亭小遊三師匠がよくやる時候のあいさつ。最後に笑いながら「さて、今はいつでしょう」。そうです。笑点は特別番組を除きすべて録画。ですからあいさつしている時点では放送日よりずっと前なのです。それを知っていてのボケですから、きっと会場ではじわっと受けているんでしょうね。

実はこの原稿を書いているのは12月30日。だからまだ明けていません。でも私の締切日は毎月30日。無理を言って締切をずらしてもらい、きちんと年明けのごあいさつをした年もありましたが、特に今年(いや来年?)は敢えてネタばらしをさせていただきます。

もう業界のウラ事情はすっかり知られてしまったようで、正月のテレビの特別番組は生中継や再放送以外、すべて年内に録画しています。姿の見えないラジオ番組でも「これは録音です」と言ってしまっている。つい時候の話をしてしまい、矛盾を指摘されるのを恐れてのことだと思いますが、とにかくこのころはどんどん季節感が無くなってきているのが実情でしょう。

最近は「年賀状を止めます」という人が増えました。「元旦に着くためには、年賀状の投かんは12月25日まで」と言ってしまっている段階で、もはや正月の特別感は薄れてしまっています。昔、年賀状は元旦に書くものだとおっしゃった方がいらっしゃいました。でもそうして投かんすると、3が日を過ぎてしまう。逆に、年賀状を書くのをサボったな、などと勘繰られてしまいそうです。それならリアルタイムのメールやラインでのあいさつの方がよっぽどいいと判断するのも仕方ないことなんでしょうね。

私は再来年、いよいよ還暦。会社も定年となります。嘱託雇用の道はありますが、給料がガクッと減ってしまうのが実際のところ。それよりも後進に道を譲れというのが会社の本音かと思います。シニアの熟練よりジュニアの新鮮。時候のあいさつにこだわる世代よりも、時代を先取りする世代を優遇していこうとするのは止むを得ないことかと存じます。

ですから私も、座して定年を待つよりも、自分にとって新たな時代の幕開けにすべく、いろいろ準備を始めました。無趣味で無粋な自分を反省して川柳を始め、自分の強みを見つけるべくセミナーや勉強会にも通いました。そして様々な人に会い、多くの貴重なアドバイスを受けて、少しずつではありますが、あらたな人生の目標を見つけるにいたりました。それは、90歳まで働こうというものです。

川柳の句会で発表された一句。

アラ古希もこき使われる高齢化  齋藤和恵

70歳=古希でこき使われるというのが面白い。人生100年の時代を迎えようとしている現代。70歳はまだハナタレ、なんでしょう。こき使われたくないなら自主的に働くべき。それも100まで生きるなら90歳まで働こう。ということで、こんなスローガンを作ってみました。

元気だから働くんじゃない

働くから元気なんだ

よし決めた!90歳まで働こう

まずは90歳まで働く気力、知力、体力を養う、ということで、2019年の目標を3つ立ててみました。

1)毎日新聞万能川柳に月2回。年24回の掲載目指そう

2017年12月から始めた川柳。2018年3月に初掲載され、12月30日現在で合計14回を重ねました。月1回ほどのペースです。2019年は、その倍を狙います。

2)男子厨房に入ろう

結婚後、料理はいっさいしなかった私。だからキッチンはまるで知りません。2019年は食生活の見直しを図るため、キッチン=厨房に入って料理をしようと思います。学生時代はアルバイトでフライパンを振っていたころもあるんです。包丁さばきも思い出せば何とかこなせるはずです。

3)かたづけ、終活を始めよう

定年後の就職活動だけではなく、終末に向けた活動も。人生100年の逆と言えるかもしれませんが、いつ何時何があるか分からない現在。死後に恥ずかしいものは見せられません。一方で、見せたくないものがあるから長生きする、そんな考え方もあるのですけどね。けれども2019年、いよいよスタートいたします。

新年にあたって毎年言って来たこと。それは、

一年の計は元旦にあり

です。一年のやることは、すべて元旦に決めるべきとのありがたいことわざ。でも先ほどからも言っている通り、時代は先行しているのです。新年のことは、元旦の前にやることが賢明かと。いや、決して生き急いでいるわけではありません。ただ普通にしているだけで「ボーっと生きているんじゃないよ!」とチコちゃんに叱られそうですから。90歳までどうやって働くか、これはまた別の機会に。ということで、

明けましておめでとうございます 今年もよろしくお願いいたします

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2018年11月30日 (金)

「書けない」を考える

~ soji の今日もワクワク 245  ~

先日、ツイッターで面白い記事が話題になっていると聞いて、早速検索してみました。ある人の中学校での卒業文集だそうです。

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1811/12/news104.html#l_kutsu_181112sakubun01.jpg

原稿用紙一枚を必死に埋めた結果、まさかの名(迷?)文。うん、読んでいて確かに面白い。だけど、内容がいっさい無い文章。本当にこれが卒業文集に掲載されたのでしょうか。ちょっと心配になるくらい。

しかし、筆者の苦悩の様、他人事ではありません。私も月一回とは言いながら、拙いエッセイを続けるにあたり、どうしても書くことが見つからない時が何度もありました。掲載仲間、わさくさんや、さかもっちゃん、おさむさんの名文(こちらは紛れもなく)を読みながら、どうしたものかと悶々としたことも。

今月は忙しかった。ヤバい!気がつけば締切間近。この時ばかりは「マジか」とシャレなんか言ってみたりして。自分の拙文を読んでくれる方が一人でもいらっしゃるならば、トバしてはいけない。そんな義務感にかられてひねり出しているのです。

もし自分が中学生に戻って文章を書くネタを探すとしたら、どうするでしょう。私だったらまず一日を縦軸に置きます。朝起きて学校へ行く準備。朝ごはん。通学の道すがら。学校について授業を受ける準備。午前の授業。給食。午後の授業。クラブ活動。友だちと遊びに行く。そして家に帰ってお風呂、夕食。テレビを観て、時には勉強をして寝る。

次は横軸。自分以外の友だちの一日はどうでしょう。先生やちょっと気になる女の子は。また違うバリエーション。日常ではなく、運動会、文化祭、修学旅行の日だったらどうだったか。さらにバリエーションを変えて、当時のニュースは。流行っていたヒット曲は。また野球、サッカー、アイドルなどなど。そうやって中学の3年間を振り返れば、何かしらネタは見つかるのではないでしょうか。

では現在の自分の場合はどうでしょう。書けない時を振り返ってその理由を考えてみました。

まず考えられるのは、忙しさで自分が流されている時。すべてが受け身で、自主的に活動できていないと、書くテーマが見つかりません。この筆者も、中学時代はおそらく受け身の毎日を過ごしていたのではないでしょうか。

次に、自分を第三者的に見られない時。世の中の関わりもまた見えて来ない。先ほどの縦軸横軸はまさに自分を第三者的に見るためのテクニックです。こうした考え方が出来ない時は、苦しみますね。

しかし書けなくなる最大のポイントは、読者を意識しなくなった時かもしれません。このエッセイは少なくともサイト運営者のさとうさんと掲載仲間は読んでくれています。だから最後は何としてもひねり出そうとする。読者を意識しなくなったら、ペン、もといマウスを置くこととなるでしょう。書くことの最大の目標は、自分のエッセイを読んでくれる人を喜ばせたい、その一心ですから。

ブログやツイッターなどのSNSで、毎日のように文章をアップしている人がいます。忙しいとか全然関係なく。きっとそういう人は、自主的に行動をし、自分を第三者的に見て社会との関わりを常に意識し、さらに読者やフォロアーを大切に考えられる人なのでしょう。ひと月に一度のエッセイで、ヒイコラ苦しんでいる私にはとても真似出来ません。

2018年ももうすぐ終わります。思えば今年はエッセイのネタをひねり出すために、自主的にいろいろと工夫をした年でした。少なくても、ネタがなくて困った月はなかったと思います。

無理やり原稿用紙を埋めた、かの筆者。中学時代の自分の文集を見て、何を思ったことでしょう。まあ何も考えなかったかもしれません。若いうちはそんなもの。時間が有限だと気づいて初めて分かるものですから。ただ少なくても、振り返って何も思い浮かばない人生は送りたくないものです。

今年一年、お読みいただきありがとうございました。来年も頑張ってエッセイをお贈りいたします。皆さま、良いお年をお迎えください。

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2018年10月30日 (火)

百人一首の暗記に挑戦してみた 

~ soji の今日もワクワク 244  ~

だいぶ弱くなった記憶力を鍛えるために、百人一首の暗記を始めました。

実は高校時代に挫折した、苦い思い出があります。そこで今回は、自分なりに覚え方をいろいろと工夫してみました。

まずは、1番の天智天皇からではなく、今回は100番の順徳院からスタート。そして有名な歌人をマークして覚えることに。

例えば90番台ですと、97番の権中納言定家と93番の鎌倉右大臣。百人一首を選んだ藤原定家と鎌倉幕府第三代将軍の源実朝ですね。

さらに一工夫。比較的記憶の残っている1番と100番、2番の持統天皇と99番の後鳥羽院、3番の柿本人麻呂と98番の従二位家隆というようにペアで覚えるようにしたのです。

また、私にとって覚えられず苦しんだ歌、というのがあります。例えば34番、藤原興風(ふじわらのおきかぜ)の歌。

誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

「高砂の~」以下のフレーズは昔の記憶がおぼろげながら残っていました。問題は「タレヲカモシルヒトニセム」。全然頭に入って来ないのです。仕方ないので「鴨汁のタレを人にあげる」という言葉を充てて頭に叩き込みました。思えば歌人に対して随分失礼なことをしました。

そうして徐々に歌を覚えて行くにつれ、色々なことに気づきました。

まず百人一首は歌人がほぼ時系列で並んでいる、壮大な歴史物語だということ。大化の改新。藤原氏の台頭。やがて他家を振るい落とし、天皇家と血縁関係を結んで栄華を極めます。そして天皇家や武士団を巻き込んだ保元の乱。やがて貴族が没落、武士が勃興して鎌倉幕府が成立。その後承久の乱で終わる約600年間のまさに絵巻物だったのです。

また歌人の中には、天皇家はもちろんのこと、血縁関係が多いのも特徴です。例えば36番清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫が42番の清原元輔であり、またその娘が62番の清少納言といったように。特に、藤原氏は本流傍流と人間関係が実に複雑怪奇。

さらに、歌の背景で繰り広げられるエピソードも興味深いものがありました。例えば歌会で40番の平兼盛に負けた41番の壬生忠見は口惜しさのあまり衰弱死したという言い伝えがあるとか。思えば当時は、優秀な歌を集め、歌集に編纂することは立派な国家事業だったのですね。だからこそ宮廷内で競い合うように詠まれたわけです。

高校時代、百人一首は主に古典文法の教材として教えられました。やれ「けり」の品詞はどうだとか「ちはやぶる」とは「神」にかかる枕詞とか、「こそ」が付いたら係り結びになるとか・・・どうしてあんなにつまらない教え方になってしまったんでしょう。

確かにこれでもかと技巧を凝らした歌もあります。その素晴らしさは、古典文法を理解しないと分からないかもしれません。しかしこうして自分の心情を吐露し、花鳥風月や各地の名所旧跡などを織り込んで僅か三十一文字にまとめきって詠まれた和歌たちをもっと素直に、読み解くが大事だったのではないでしょうか。

中には自分の心情だけでない。例えば天皇が農民になってみたり、法師が愛しい男性を待つ若い女性になるなど、第三者の気持ちを想定して詠んだ歌も散見されます。また、自分では行ったことの無い土地を詠んでみたりと、歌人たちの想像力は、意外なほどの広がりを見せています。

先ほど紹介した34番の藤原興風の歌。老いて友がどんどん亡くなる孤独を詠んだとあります。そんなヒネくれた歌を詠む前に、自分の重ねた経験を後年に伝えるよう頑張れば、若い友人もどんどん出来て寂しくならないよと突っ込みたくなります。

いや、ひょっとすると興風は若者に人気があり「オキちゃん」などと慕われていたかもしれません。そして故郷の高砂(現在の兵庫県高砂市)にふと立ち寄った時に旧友の訃報を伝え聞き、日ごろ抑えていた心情を敢えて歌にして「へーあのオキちゃんがねえ」と言われたかもしれないのです。こうして自由に詠み手への想像を膨らますことはとても大事だと、今さらながら気づかされました。高校時代は、こんな授業はありませんでしたねえ。

文学的な位置付けに留まらず、美術的、歴史的、そして心理的な研究素材として素晴らしい百人一首。それを遊具として幼少から学べるようにした先人の知恵に感心せざるを得ません。やれ春は花見だ、秋は紅葉だと誰もがはしゃぐ。そして満月ならお月見、冬の露天風呂には雪見酒など、日本人のDNAの中には、古来からある美意識が脈々と引き継がれている。百人一首の貢献はとても大きなものだったのではないでしょうか。

学生時代、いやいや机に向かわされた辛い思い出ばかりの勉強も、大人になって見返してみて、全然違う魅力を再確認した次第です。百人一首を全部覚えろとは言いませんが、皆さんもお気に入りの歌を見付けてみてはいかがでしょうか。

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2018年9月29日 (土)

「ディスる」をちょっと考えた  

~ soji の今日もワクワク 243  ~

「大坂なおみ 全米オープンテニス優勝!!」

男女合わせて日本では、4大大会シングルでタイトルを獲得した初の快挙だそうです。にわかに盛り上がる中、私が着目したのは、彼女の名字「大坂」でした。

エッセイ仲間、さかもっちゃんと、とあるセミナーに出席した時のこと。30人ほどいる参加者が一人一人自己紹介することになりました。

「サカモト」と名乗る若い男性。まだ大学生だそうです。

「えーっと、サカモトのサカは、こざとへんのサカです。つちへんのサカは、土に反(かえ)るといって縁起が悪いので、こざとへんにしたそうです」

その後に回ってきたのが、我らがさかもっちゃん。

「えー、縁起の悪い方のサカモトです」

阪本君の言う理由で、明治維新後に大阪府が出来る際、「大坂」は「大阪」に変更されたとか。おそらく彼が得意にしていた自己紹介の決まり文句だったのでしょう。

さかもっちゃんの自己紹介で場内大爆笑。バツの悪そうな阪本君。まさか縁起の悪い坂本さんがいるとは思わなかったに違いありません。まだ大学生だからよかったものの、社会人だったら、大変なひんしゅくものです。

同じような失敗は私にもあります。

「sojiさんは、あまり白髪が目立たないですね」と言われ、

「おかげさまで。でもだいぶ薄くなっちゃって」

答えた瞬間、同席者の中に若ハゲの姿が。その方が私の言葉にカチンと来たかは定かではありません。しかしその後私は、実に居心地の悪い時間を過ごすこととなりました。

「ディスる」という言葉をよく耳にします。否定する、反対する、の意味ですが、最近は小ばかにする意味で使われることが多いようです。

漫才でボケに対するツッコミが、小ばかにしているように聞こえるせいか、普通の人でもディスっているような会話をよく聞くようになりました。

中には過剰反応をする人がいます。こちらに悪意がないにも関わらず、その言葉尻をとらえて怒る人。ディスられていると被害妄想的に考え、敵意をむき出しにする人です。

「今日は雨か。いやだなあ」⇒「雨の中で仕事をする俺をバカにしているのか」

「一時間に二本しか電車が無いのか」⇒「こんな田舎で悪かったね」

「もうこんな時間になっちゃった」⇒「すいませんね、仕事が遅くて」

ひどいのは、コンビニでの話。

「お箸をお付けしますか」⇒「俺に手で食えっていうのかよ」

ここまで来ると病んでいるようにしか思えません。まあ本当に心が弱っている時は、知らぬうちに世の中のみんなが自分をディスっている気になるものですが。

最近は特に、言葉には気を付けなければいけないと感じます。言葉には霊が宿る「言霊」があると、昔から言われてきました。ですからネガティブな言葉は出来るだけ使わない。無理をしてでもこじつけでもポジティブな言葉に置き換えるべきでしょう。

かの阪本君も、まず自己紹介の前に「坂本」さんがその場にいないか確認するべきでした。「坂」に対するディスりネタですから、もしいたとしたら、速やかに内容を変える。それが社会人のマナーです。大学生のうちに補正しないとトラブルのもとになりかねません。

私の場合も、身体的なことは、極力触れないようにすればよかったのです。「ハゲ」はもちろん、「デブ」「チビ」「ブス」などなど、ディスる言葉はまさに豊富。これらは封印すべきでしょう。

でももし言ってしまった場合は、このことは一切触れずに、別の話題で盛り上げるなど、フォローを心がけるべきでした。

「今日は雨か」⇒「のどに優しいんだよね」

「一時間に電車が二本か」⇒「待っている間ゆっくり考え事が出来るな」

「もうこんな時間」⇒「まずはここまではかどったことに感謝しよう」

コミュニケーションの中にネットの比重がますます増加している現在、しゃべり言葉はおろそかになりがち。それだけに、言葉選びは慎重にしないといけません。たとえ独り言でもネガティブなのは極力控え、ポジティブな言葉で置き換えるのを習慣にするべきです。

優勝した大坂なおみ(敬称略)のスピーチ。ネガティブな言葉は発しないよう、相当気を使っているのがこちらにも伝わって来ます。だからこその優勝でしょうか。

まだ二十歳でも、すごいことをやり遂げる人の言葉は味がありますね。若いからと言って失言は許されませんよ、阪本君!

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2018年8月30日 (木)

本来の姿、本来の味(3) 第三の価値

~ soji の今日もワクワク 242  ~

前回のエッセイにも書いたように、私は最近、出来るだけ醤油やドレッシングをかけないで食べています。

先日、家人と定食屋に入り、冷や奴を前にこの話をしたところ、興味深いことを言われました。

「醤油じゃなくて塩をかけても美味しいんじゃない?」

なるほど、私は醤油をかける、かけないのニ択で考えている中で、第三の選択肢を提示された訳です。

自販機の世界じゃコインは長方形  soji

最近詠んだ私の一句です。コインは大抵円形で、普通は表か裏を思い浮かべるものです。しかし長方形の側面もある。意外と気づかないが、自販機業界では常識なのだと。

コインの例にあるように、私たちはつい物事をニ択で考えがちです。

表か裏か。イエスかノーか。良いか悪いか、1か0か…しかし現実的にはスパッと割り切れないことが多い。実のところ、独りよがりに選択肢を2つに絞り、どちらか一方だけを選ばなくてはいけないと勝手に思い込んでいるのではないでしょうか。

身の回りを眺めて見ると、AでもBでもない、第三の価値を生み出した例を意外と数多く発見できます。例えば、

1.AにBを組合せる代わりにCを付ける。

上に挙げた冷や奴に醤油の組合せ。醤油の代わりに塩を付けてみる。その他、ラー油やオリーブオイルもいいかもしれません。「この組合せしかない」という既成概念を破った例です。

2.Aを選んだが、ちょっとだけBも付ける。

これの代表格は、半チャンラーメンでしょう。ラーメンにチャーハンも食べたいけど、2食分は多いしお金もかかる。そんなジレンマを解決した見事な例でしょう。

今は晴れているけど雨も心配。邪魔にならない傘はないのか。で、作られたのが折り畳み傘。そう考えると、全天候を想定した登山グッズはアイデアの宝庫かもしれません。

3.二者択一ではなく、AとBを組合わせて一つにしてしまう。

カレーうどんがいい例でしょうか。同じくカツカレーも。現在はそれぞれ立派な一品です。

また食事をするか、カードゲームをするか。どちらをとるかではなく組合わせて作ってしまったのがサンドイッチ。我がままを我慢するのではなく、両方いっぺんにかなえる方法はないか。そんな考え方も時にはいいかもしれませんね。

AにBを加えるのではなく、マイナスするのもまたありです。例えばノンアルコールビール。酒好きの私には、酔えないビールに何の意味があるだろうと思っていましたが、飲酒運転の罰則強化に伴い、一気に普及しました。現在では大きな市場になっています。

その先輩格がウーロン茶。お酒の弱いバーのホステスさんが、ウイスキーを飲んでいるように見えるから、との理由で爆発的に需要が伸びたのだとか。お酒は楽しく酔うもの、という既成概念を破り、楽しく飲めるお酒に見えて酔わなくて済むという第三の価値を生んだいい例だと思います。

「冷や奴」に塩で話が変な方向に膨らんでしまいました。塩や醤油といった調味料、よくよく字を見てみると、「味を調べる材料」とも読めます。これこそ調味料、本来の意味なのかもしれません(実際は、調べるではなく調(ととの)える、でしょうが)

第三の価値はいたるところにあるはずです。見慣れた日常の中に探していくだけで、ワクワクしては来ませんか。

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2018年7月30日 (月)

本来の姿、本来の味(2)

soji の今日もワクワク 241 

7月の3連休、ランチ時に都内を歩いた時のことです。

今年は6月末に梅雨が明けてしまい、その日も炎天下。少し歩くだけで汗びっしょりの暑さです。家人と入った洋食屋。そこで飲んだ味噌汁の美味しかったこと。「本当に体がこのしょっぱさを欲しがっていたんだね」と家人。私も同じ思いでした。

そうです。私はここで「体」という、もう一人の自分を発見したのです。目や口、手足など、自分が意識して動かすのとは別の体。例えば心臓や肝臓などの臓器。胃や腸の消化器。血管やリンパ管。疲れたからといって自分の意志では休ませられない。生きるために大切なものなのに、意外なほど無頓着。先日の洋食屋で、その「体」の声を聞いたような気がしたのでした。

前回は、人間の本来の姿を見るためには「裸にするよりも、その人の思考、嗜好に基づいた服や装飾品に判断材料を求めた方が確かな気がします」と書きました。それはあくまでも他人を判断するための考え方です。今回は自分の本来の姿に重点を置き、意識下で動くものとは別の体が大きく影響しているのでは。こんな仮説を立ててみました。

日本の平均寿命は、香港に次いで世界2位だそうです。男性は80.98歳。そして女性はなんと87.14歳。しかし支援や介護の要らない健康寿命は、男性で9年、女性で12年も短いんだとか。これが高齢社会となってしまった、現代日本の現実でしょう。寝たきり、要介護。人に迷惑をかけなければ生きられない。これが自分本来の姿とはなりたくないものです。

貝原益軒の「養生訓」には、長生きの秘訣が書かれています。その主たる内容が食べ物。医食同源の言葉があるように、食に注意することで、医者いらずの元気な体が作られるとか。その中で、体調が悪いと言ってすぐに薬や鍼灸に頼るな。旬の時に、旬の食べ物をよく味わって食べよ、とありました。

最近は私も、醤油やドレッシングをかけないで、食べ物本来の味を味わうように心がけています。といってもすぐに物足りなくなり醤油をつけますが、極力少なくしようと考えています。刺身の盛り合わせ。 魚の種類によって味わいが大きく違うものですね。これまで、全部醤油の味にしてしまったような気がします。それが刺身の美味しさだとも。

アジのたたきは醤油を付けないと、混ぜ込まれた刻みネギの辛味が途端に主張をし始めます。そして刺身のつま。これは何もつけないで食べると、ほんのりと大根の甘味が感じられます。 でも大体が無味無臭。シャキシャキとした歯触り感ばかり立ってきます。 そして気づいたのです。これは、別の刺身を味わう時に、口の中に残った魚の油を取り去るためにあるのではなかろうかと。 だからほとんど味がしないのだ。 私はわざわざ醤油に付けて食べていました。なにか、今さらながら気が付いた感じです。

現代人は、醤油やドレッシングをかけることで、塩分をはじめとした栄養分を過剰に摂りすぎるのではないでしょうか。それを私たちは無条件に美味しいと考えている。しかし消化器系の内臓たちは大忙し。何とか余分の栄養素は体外に排出しているけれど、さすがに疲弊してくる。そのうち排出しきれなくなり、毒素も含めて体内に蓄積されてしまう。すると調子が悪くなり、やがて何とか不全という病気になります。血管がつまったりしたら、すぐに死につながってしまう。一方で日本の医学は発達しているから、薬や手術で延命策が講じられます。そのあげくに、要支援、要介護。結果、生きているだけの不健康な老人が量産されるわけです。

日頃から病院のような食事をしろとは言いませんが、栄養素の過剰摂取は危険だと自覚するべきでしょう。食べ物本来の味は、 往々にして薄味。しかしその中に深い味わいがこめられています。 それを楽しめれば、将来不幸にも入院生活を送ることになったとしても、辛さを減らせるのではないでしょうか。「体」の声に出来るだけ耳を傾け、「体」が喜ぶ食べ物を摂取する。これが大事なことです。

自分を生かしてくれているのは、他ならぬ無意識下にある「体」です。決して敵対してはいけません。暴飲暴食などもってのほか。安易に薬やサプリに依存するのも避けたいですね。お迎えが来るその日まで、元気に動く「体」と共に過ごしていきたい。それを自分本来の姿としたいものです。

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2018年7月 1日 (日)

本来の姿、本来の味

~ soji の今日もワクワク 240  ~

東京ドームのすぐそばに建つ文京シビックセンター。25階には、無料の展望台があります。

眼下を見下ろすと、都内の街並みが。でもこの高さまで上ると、人の姿はほとんど識別出来ません。動いているのは車と電車ばかり。展望台に上るたび、私はこんな妄想を抱きます。

地球に宇宙人到来。彼らは都市部の上空から地表を探索し、蠢く知的生命体を発見した。それらは甲虫のような生物で、線上に等間隔に並び、地上を滑るように這い回っていた・・・

そうです。おそらく宇宙人は、生命体として認識するのは、まず車ではなかろうかと。しかしその正体は、車を運転する人間。だがその人間たちも、色とりどりの服を着ています。生命体本来の姿は、服を脱がせて裸にしなければ分かりません。

また別の話。

定食屋で冷やっこを食べた時のこと。昔入った高級料理屋を思い出しました。そこでは、豆腐に醤油をかけるなと言うのです。本来の豆の味がしないからと。

そう言えば、私たちは様々な食べ物に調味料を付けて食べています。刺身には醤油、とんかつにはソース、サラダにはドレッシング・・・別に何の疑問も持たず、日常的に行っていることです。しかしあらためて考えました。ひょっとすると調味料をかけることで、本来の味を消してしまっているのではなかろうかと。

つゆを付けて食べる蕎麦もその一つでしょう。特に打立て。そばツウはまずつゆを付けずに食べるとか。先日、私もやってみました。確かに蕎麦の風味が豊かで、淡白な中に深い味わいがあります。しかし何口がすすると物足りなくなり、つゆを少しだけ付けました。そうです。つゆって、あくまでも物足りなさを補うためにあるわけで、べちゃべちゃと付けてはいけなかったのですね。

古代、人間は肉や野菜を食べる際、調味料などは使わなかったことでしょう。推測ですが、本来の味で十分満足していたはずです。一方現代人は、もはや調味料無しで食べることはまず出来ません。どちらがいいとか悪いのとかの比較論ではありません。が、せめて最初の一口だけでも、調味料を付けないで食べてみると、本来の味に対する新しい発見があるように思います。

元に戻します。車の中から出て来た人間の話。

服などの装飾品を取り去り、裸にすれば本来の姿が分かると書きました。が、一部のケースを除き、それが正しいとは言えないでしょう。なぜなら、本来の姿とは、その人間の思考に大きく影響されるからです。服や装飾品、場合によっては乗る車までもが、その人間本来の姿を現している、と言っていいのではないでしょうか。

もちろん、肉体美を追及している人はいますし、この肉体こそが自分本来の姿と言うでしょう。が、大半の人は、服や装飾品に自分の姿を託しています。敢えて乱暴な言い方をすれば、その人間の本来の姿を見るためには、裸にするよりも、その人の思考、嗜好に基づいた服や装飾品に判断材料を求めた方が確かな気がします。

当然、無頓着な人もいます。また、一見ずぼらそうで意外なところにその人のこだわりや価値観が見え隠れする人も。そんな中にもまた、人間本来の姿が現れ出るのです。

さらに、現状だけでは本来の姿は見えて来ません。事件を犯した容疑者に対し、まさかそんな人には見えなかったとの話をよく聞きます。その人の過去はもちろん、将来何をしたいのか、前後まで探らないと見えて来ないでしょう

自分の本来の姿を一番知らないのは、その人本人かも知れません。自分の配偶者や親、身近な友人の講評が、意外と的を射たりする。あの人は、明るい、優しい、人に親切。一方、暗い、冷たい、自己中心などなど。高評価はいいけれど、仮に低い評価が出た際、それを治そうと前向きになるのか、どうせいいやと開き直ってしまうのか。これも本来の姿の一部と言っていいと思います。

今はそうでなくても、一生懸命美しくなろうと努力している人。今は美しいが、何もしていない人。おそらく将来は大きく差がつくことでしょう。

本来の味は、いかに調味料をマイナスして味わうか。一方、本来の姿は、いかにプラスされた服や装飾品から探求していくのか。

今年は早くも梅雨が明けてしまいました。わずかな雨の中で、濡れていたアジサイ。七変化と称される花の色は、吸い上げた養分による酸性度によって変わるのだとか。ではアジサイの本来の色は何だろう。ふつうそんなことは考えませんね。花びらが七色に変わるのが、本来のアジサイなのですから。

変化の激しい現代だからこそ、目標に向かって変わって行こうとする姿が本来の姿なのではないか。そんなことを色とりどりのアジサイたちに教えられた六月でした。

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2018年5月30日 (水)

安かろう、良かろう、を考える  

~ soji の今日もワクワク 239  ~

JR東北本線「栗橋」駅は埼玉県久喜市にあります。縁があり、初めて降り立ちました。埼玉県の北のはずれ。利根川をはさんで向こうは茨城県です。

降りてびっくり。商店街も無く、駅前に飲食店が数店。あとはタクシー乗り場だけ、田舎の風情満載です。昼食時、何を食べようかと言っても選択肢はほとんどない。仕方なく日本そば屋に入りました。「十割そば850円」を頼むことに。

私は立ち食いそばが好きで、週に2~3度は食べています。天ぷらを乗せても400円程度。最近駅前でよく見るようになった「富士そば」のもりはなんと330円です。だから850円はいかにも高い。しかし一口食べて思い出しました。打ち立ての香り。しこしことした歯触り、そしてのど越し。しょっちゅう食べているのに、本来のそばの味を忘れていることを。

ただ私は立ち食いそばを悪く言うつもりはありません。店によっては24時間、いつでも手ごろな価格で美味しく食べさせてくれます。「安かろう、悪かろう」ではない、まさに「安かろう、良かろう」の定番です。

そばだけではありません。私たちの周りには安くて良いものがあふれています。例えばコーヒー。マクドナルドのSサイズのホットは何と100円。それで店内で結構粘れます。

回転寿司は休日になると、どこの店も家族連れで一杯。最近はラーメンやうどん、うな丼やケーキも提供されています。それも専門の店よりも安い価格で。

スーパーマーケットや衣料商品、100円ショップなどの流通業。宅配などのサービス業も、まさに良心的。本当にありがたいことです。

しかし安いものはなぜなのか。そばにしろ、コーヒーや寿司にしろ、ちゃんと人手を介したものは、それなりの価格がすることを再確認するべきでしょう。

一方、ネットでこんなコラムがありました。入社一年目の女子社員。仕事で頑張ったと言うので廻らない寿司屋に連れて行ってご馳走した上司。ところが、彼女、浮かない顔をしています。せっかくのにぎりも手を出さず、せいぜい刺身数切れに箸を付ける程度。店を出て、何が気に入らなかったのか聞いてみると、なんと驚くべき答えが。

「だってあの板前さん、寿司を素手て握っているから」

だそうです。不潔で食べる気にならなかったとか。確かに廻る寿司屋ではシャリは機械が型にご飯を押し込んで吐き出すだけ。仮に人が握ったとしても使い捨てのビニール手袋をはめている。

寿司は素手で握るから美味しいのだと知らぬまま、大人になってしまった彼女はなんと可哀想なことか。ネット上での話ですから、どこまで真実か分かりませんが、廻る寿司屋で喜んでいる子供たちを見ていると、きっと本当のことだと思います。

またこんな話もあります。

横浜から田舎暮らしを始めたくて岡山に引っ越した方。年に10度ほど仕事で東京に出てくるのですが、とにかく野菜が不味いのだそうです。驚いたのは、この野菜を食べていると口内炎が出来てくる。そして岡山に帰るとすぐに治ってしまうのだとか。私たちの食べている物は、本当に安全なのか。心配になって来ます。

栗橋で十割そばを食べてから、私はたまには「良いから高い」ものを経験しようと努めています。と言っても大したことではありませんが。

例えばコーヒー。専門店で500円近いお金を払い、一杯ずつサイホンで淹れてくれるコロンビア。当然ブラックで。100円では味わえない酸味とコクがそこにはあります。

例えば寿司。店にもよりますが、ランチのにぎりなら1,000円程度で食べられます。米と米の間に微妙なすき間があるシャリは、まさに職人技。有名店に行かなくても、回転寿司との違いは充分分かります。

野菜は生産現場まで行かないと難しいかもしれません。久しぶりに採れたての甘いトマトなんか食べてみたいですね。

先人の血がにじむ努力の結果、私たち現代人は安くて良いものを手に入れられるようになりました。だから時にはこうして「良いから高い」を振り返らないといけないと思います。

ひょっとすると、素手で握った寿司の食べられない女性のように、本来の良さを識別する能力を無くしているかもしれません。それが安心安全に関するものだとしたら、実に怖いことですね。

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2018年4月30日 (月)

挨拶の功罪

~ soji の今日もワクワク 238  ~

4月。私の勤める会社も新しい期を迎えました。事業本部長の方針発表。内容に、サプライズがありました。なんとわざわざ時間を割いて「きちんと挨拶をしろ」と話したのです。

これが入社式のスピーチや、新任監督職向けの講話ならまだ分かります。しかし今回は役員を含めた一般管理職に対してです。私は入社して30年以上になりますが、こんな話を聞かされたのは正直初めてでした。

以前、ネットで目にした話。以下、「マンション内で挨拶禁止。あなたはどう思う?」より。

マンションに住む主婦から理事会への提案。子供には知らない人に挨拶をするなと教えているので、マンション内でも挨拶禁止のルールを設けてほしいとのこと。なんとこの提案、理事会で通ってしまったのだと。

確かに昨今、子供を襲ったのは身近にいる大人だったというニュースはしばしば耳にします。学校としても親としても、かなりナーバスになっているのはよく分かります。

私のマンション近くの交差点に立つ“緑のおじさん”のこと。(二人のおじさんを思う ~sojiの今日もワクワク210より~)

今では別のおじさんが勤めています。この人たちは対子供以外は何もしません。毎朝通勤で交差点を渡る私を認識しているだろうに、こちらを見ても知らんぷり。当然挨拶なんかまったくしません。知らぬ人とは接点を持つなと学校から教え込まれているのでしょうか。いつも無愛想に立っています。

子供たちも大人を敵視しているかのようです。これまた以前書いたネタ。(小さな一言で ~sojiの今日もワクワク219より~)。

見知らぬ大人への挨拶はもってのほか。だからこそマンション内でもそのルールを徹底して欲しい。理屈はわかりますがモヤモヤは消えません。

そんな中、先日、仕事の関係でとある大学に行った時嬉しい経験をしました。そこは東京都下、駅から徒歩15分の閑静な住宅街にあるこじんまりとしたキャンパス。すれ違う学生たちは、一様にこちらに挨拶してくるのです。随分と礼儀正しいな。

学生支援センターの方と話で理由が分かりました。周辺の住人がクレーマー化しているとのだそうです。見ると、キャンパスと隣接する住宅との境に高い塀が無い。大学の方が歴史が古いのに、後から家を建ててクレームを言うのもいかがなものかとは思います。が、大学としてはトラブルを避けるため学生に徹底指導しているのでしょう。

とは言え、挨拶をされてイヤな気はしません。日ごろ無愛想っぽい男子学生からも「こんにちは」と明るく言われ、実に気持ちいいのです。

悪いこと出来ぬ挨拶されるから (soji)

やましいことがあれば、まともに挨拶が出来なくなります。ましては相手の目を見ることなどもってのほか。コンプライアンスの徹底が叫ばれている昨今。不正防止のひとつとして挨拶の励行があるのでしょう。

しかし、挨拶は踏絵ではありません。相手を気持ちよくさせる。思いやり、おもてなしの精神が込められています。犯罪防止のため幼い子供には仕方ないかもしれませんが、挨拶に込められた良き精神だけはきちんと教えてあげて欲しいものです。

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2018年3月27日 (火)

感動力を養う  

~ soji の今日もワクワク 237  ~

2017年10月の衆議院選挙。私の住む和光市がある埼玉四区ではスターが生まれました。

豊田真由子元代議士です。 「このハゲー!」で物議を醸すも無所属で再出馬し、華々しく散って行きました。彼女を見て一句。

四区ではハゲの候補者いなかった

結局どこにも発表せずお蔵入りにしましたが、これをきっかけに本格的に川柳を始めました。

発想多彩ひろばの主催者、さとうさんが活躍する毎日新聞、万能川柳に私も投稿することに。

ハガキ一通に3句書き、週に4回を目標に投稿し続けました。

しかし3カ月続けても何の音さたも無し。一方、さとうさんの柳名「ひねのり」は紙面にしばしば登場するではないですか。

思った以上のハードルの高さに、ついさとうさんにメールで弱音を吐いてしまいました。すると、こんなお返事が。

・・・(前文略)・・・

目標が辛いものだと、確かに続きません。
川柳も、載ることが目標では辛くなります。

川柳においては「うがち」が命です。
うがちとは「見過しがちな事実に気づく」ことです。

なので、気づく(そして句ができる)ことに川柳の喜びがあります。
ここを目標にできればいいですね。

「水平線こんな小さなグラスにも」(山上秋恵)

という名句(万能川柳・秀逸句)がありますが、素晴らしい気づきですね。

「毎日が初体験」でも書いたように、私は厳しい目標を立てたがる癖があります。楽しむために始めた川柳についても、知らず知らずのうちに自分を責めていたようです。

「見過しがちな事実に気づく」「気づくことに喜びがある」これらの言葉で随分楽になりました。

そして3月12日月曜日の朝、さとうさんからのお祝いメールが。あらためて紙面を確認すると・・・ ありました!

和便器じゃたせぬ身体になりました (和光 soji)

ちょっとレトロな喫茶店のトイレにはいったところ、あるのは和便器だけ。しゃがむのがこんなに苦痛になってしまったことに気づいて詠んだ一句です。「たせぬ」は足せぬ。排泄だけでなく、満足感にもひっかけてみたのが評価されたのかもしれません。

東京地方はサクラが開花。あちこちで花見が行われています。しかし道端に目を転じれば、名もない雑草でさえ小さな花を咲かせています。

気づきは感動する力。どんな些細な発見にも動く心を持ちたいものです。

川柳は私にとって、感動力を養ういい訓練になってきました。決して力まず、楽しさを忘れず続けて行きたいと思っています。

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