カラフルエッセイ 池さんの歴史ナルホド!

2018年1月13日 (土)

今に続く歴史

~ 池さんの歴史ナルホド! 02 ~

前回、私はかなりの歴史好きであることは述べた。

今でも地元の3つの歴史勉強会に参加し、その他にも歴史に関わる講座を受講したり、テレビ番組も結構歴史にかかわる番組を見る機会が多い。そのため歴史に関するいろんなことを学ぶことも多い。

それらの楽しさを伝えたいと思い、前回は「歴史も変わる」というテーマで「縄文時代」の変化や今は使わない「大和朝廷」という言葉や「聖徳太子」の変化を紹介した。

今回は歴史の面白さの一つとして、過去の歴史が今に続くことを見つけた時の嬉しさを述べてみたい。歴史はけっして終わってしまったことではないのである。

今回紹介するのは、日本の地名と苗字になぜ漢字2文字が多いのか、ということ。

例えば、地名を見てみよう。都道府県名もそのほとんどが漢字2文字で、3文字が少数。1文字や4文字はない。その他の身近な地名を見ても同じ。自分の市町村やその付近の地名にも恐らく漢字2文字の地名が多いだろう。

苗字にしても、私の池田やその他にもやはり漢字2文字の苗字が圧倒的に多い。

これはなぜだろう?実はこのことと、奈良時代に出された法令とが深い関係があるのだ。

1 日本の地名に漢字2文字が多いのはなぜか?

(1)漢字が伝わる前の日本の地名はヤマト言葉であり、音だけがあった。

(2)その音に漢字が当てはめられた時には、漢字で1文字や3・4文字などのいろいろな文字数の地名があった。

(3)ところが奈良時代の元明天皇の治世の713年に「諸国郡郷名著好字令(略称は好字令・好字二字令)」という勅令が発布された。これよって地名は漢字2字、しかも好字に変更されたのである。

◎内容
国・郡・郷などの地名を好字(良い意味の字)の漢字2文字にすること(国名については好字令以前にも2字にしようとする動きもあったようである)

◎狙い
①律令制度の行政事務(戸籍作成など)に全地名が漢字2文字にそろうと便利。

②中国(唐)の地名は2文字が多いので、それにならう(当時の日本では中国のまねはいいことだった)。

③変更の実際
[1文字から] 倭→大倭→大和、泉→和泉、津→摂津、沖→隠岐、木→紀伊、火→肥前・肥後、粟→阿波、車→群馬、中→那珂・那賀、北→喜多、など

[3文字から] 上毛野→上野、下毛野→下野、近淡海→近江、遠淡海→遠江、多遅麻→但馬、明日香→飛鳥、など

[2文字から] 胸刺など→武蔵、針間→播磨、三野→美野、など

2 日本人の苗字に2文字が多いのはなぜか?

 苗字は地名が由来するものが多かったためと考えられる。

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2017年12月13日 (水)

歴史は不変か! 

~ 池さんの歴史ナルホド! 01 ~

私はかつて千葉県に住んでいたが、仕事が終わったのを機に、妻の実家のある長野県安曇野市に転居して、およそ1年半を迎えた。

今では、テニス・トレーニングジム・歌声喫茶・カラオケ教室など様々な活動に参加している。特に歴史は好きで、「安曇氏族の興亡」「信州中世山城」「近代自由主義者清沢洌研究」という3つの勉強会に参加し、他にも安曇野検定講座・安曇野百姓一揆古文書講座などにも参加している。

歴史は学生の頃から好きな勉強だった。昔の人がどんなふうに生きたのか、知るのが楽しかった。かなり夢中で勉強した。でもその頃の私は、歴史というのは過去のことなので確定したことであり、当然変わらないものだと漠然と信じ込んでいたのだと思う。

それが何年かして中学生に教える立場になったために、自分でももう一度歴史の勉強をし直して驚いた。かつて自分が学んだことと教科書に違うことが書いてある。それが幾つもある。

中でも衝撃的だったのは、「源頼朝像」「足利尊氏像」として教科書に載っていた絵が実は頼朝や尊氏ではなかったと言う話。そのため「伝源頼朝像」と書いてあったり、掲載もされていないのだ。もっと驚いたのは、「慶安の御触書」が実はなかった!というのだ。教科書のそれらの変化は調べれば続々と出てきた。

つまり、歴史的事実や考察の多くは決して確定したものではなかったのだ。かつて私たちが知っていた歴史的出来事や考察も新しい史料や遺物などの発見や研究の進展によって変わり、教科書が書き換えられるということも多々あるのだ。

今回は、この一文を読んでくださった方のために、参考までに原始時代や古代史の中から教科書が書き換えられた例をいくつか紹介する。さてあなたは幾つご存じでしょうか?

1.「縄文時代」のイメージは変わった!

かつての教科書では「縄文時代の人々は、採集・狩猟の貧しい生活で移住をして暮らしていた」と書かれていたが、今では、「本格的な農耕の段階まではいかないが栽培も開始しされ、人々の生活は安定して定住も始まった」と変更された。

また、稲作の開始についても「縄文時代には陸稲の栽培が始まった」こと、水稲稲作の開始もかつては弥生時代からと書かれていたが、今では「縄文時代の終わり頃に九州北部で水田による米作りが開始された」と記述されている。

2.「大和朝廷」とは言わない!

かつての教科書では、古代日本を統一したのは「大和朝廷」と書かれていたが、今は「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と書かれている。

「大和」というのは奈良時代以後の呼称であり、7世紀までは様々な漢字が当てられていたので漢字ではなく音だけの「ヤマト」が適切であると考えられている。

また、「朝廷」は天皇の下での中央集権的な官僚制機構を持つ政府・政権のこととして、天皇号もなく律令制でもない連合国家のこの時代に当てはまるのは適切でないと考えられるようになった。

ちなみに、古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀のことを、かつては、政権の中心が「大和」にあったということで「大和時代」と呼んでいたが、今は「古墳時代」としか言わないようである。

3.「聖徳太子」もこんなに変わった!

①「聖徳太子」という呼び名は後代の呼称でこの時代には使われていなかったというので、現在の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」または「厩戸王(聖徳太子)」と記述されている。

②彼が就任したという「摂政」という役職も実はこの時代にはなかったようである。

③また、推古朝の国政をリードしたのが聖徳太子だとかつては言われてきたが、今では推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の3人の共同政治と考えられている。

④それに推古朝に行われた十七条の憲法・冠位十二階・遣隋使派遣・法隆寺建立もどれも聖徳太子の施策であるとの確証がないので、教科書では誰がやったと書かずに推古朝の施策として記述しているものがある。

⑤さらに、お札の似顔絵になった聖徳太子像は、8世紀半ばに描かれたもので聖徳太子と似ているという根拠がないと考えられている。

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