カラフルエッセイ 池さんの歴史ナルホド!

2018年8月13日 (月)

歴史の深読みと考察(歴史上の二人の天才兄弟:後編)

~ 池さんの歴史ナルホド! 09 ~

今まで8回にわたって「歴史を学ぶおもしろさ」について語ってきました。今回はその9回目です。

今回も「歴史の深読みと考察」と題して、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなどや自分なりの分析・考察を加えてみると歴史学習はよりおもしろくなるということについて述べます。

今回は「歴史上の二人の天才兄弟」の「後編」として深読みと考察を述べてみたいと思います。

1 前回は「源義経は軍事の天才である」ことを述べた

(1)源義経は「軍事の天才」、源頼朝は「政治・経営の天才」だということ

(2)源義経は平氏追討の「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で、主に奇襲作戦で源氏に勝利をもたらし、軍事の天才ぶりを示した。

(3)「軍事の天才」と言える義経だが、政治や経営の才能においては兄頼朝より遙かに劣る

①策士の後白河上皇にとっては非常に扱いやすく、いいように利用された

②頼朝と対立して頼朝追討の院宣を得たが、ほとんどの武士が義経についてこなかった

2 今回は「源頼朝は政治・経営の天才である」ことを述べる

源頼朝の歴史上の功績と言えば、「鎌倉幕府」というそれまでにない新しい政権・政府を打ち立て、江戸幕府の滅亡までおよそ700年弱続いた武士政権の創設者となったということだと思います。
          
源頼朝が武士政権の創設者になり得たのはなぜか。それは彼の源氏の棟梁としての血筋と才能(政治・経営の天才)のおかげだと私は思います。平安時代末には天皇や貴族の血筋であることは今では考えられない程の意味を持っていたので、頼朝が清和源氏の棟梁としての血筋であったことは多くの人々特に武士にとって極めて大きな意味を持ち尊敬を集めたものと思います。しかしそれだけで頼朝が鎌倉幕府を開き育てることができたわけではありません。やはり頼朝にそれを生かすだけの政治・経営の才能があったからだと思います。

頼朝が「政治・経営の天才」と言えるのは、私は頼朝の行った次の2つ(1)(2)のことがあると思います。

(1)一つは、有力武士たち、特に関東武士を徹底して重視したこと

頼朝は、それまで長い間日本の社会をリードしてきた天皇・貴族ではなく、貴族にはさげすまれていてまだ高い地位を得ていないがやっと実力が認められつつあった武士に着目して、武士に依拠し、武士を組織することに成功し、武士を保護し武士のための政治を行い武士の成長を助けました。これこそ時代を見る目と才能があったということです。

現代の私たちが政治・経営を行う時に(例えば政治家や経営者としてなど)、どんな人々に依拠し、組織し、保護し成長を助ければいいか、判断することは極めて重要ではあるが極めて難しいことだと思います。頼朝がその時の権威である朝廷や天皇・貴族にすり寄らず、未だどうなるか分からない未知数の新興武士勢力に徹底して依拠したことは実はすごいことです。今の私たちは、頼朝の後に鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代と武士の時代が続く歴史を知っているので、このとき頼朝が武士に依拠したことは当然のように考えがちですが、武士がこれから成長するかどうか分からない時点で武士に徹底的に依拠したことは実はすごいことです。まさに頼朝には先見の明があったというべきでしょう。

このことをもっと具体的・分析的に述べていくと
①関東有力武士との間に「御家人制度」を確立したこと

1180年、石橋山の戦いで平氏に対して旗揚げした頼朝はあっけなく敗北して房総に逃れました。そしてその後、房総各地でその地域の地方領主である武士たちの圧倒的な支持を得て、大軍を従えて鎌倉に入って平氏と戦う反撃態勢を整えました。

この時房総の武士を中心に関東の武士たちが頼朝についたのは平氏のライバルの源氏の棟梁としての頼朝の血筋故に頼朝には利用価値があると思ったからなのでしょうが、頼朝はそれで終わらせずに、この機会に、自分に従うそれらの武士たちを家臣にしっかりと組み入れることに成功したのです。つまり、自分を主人としてそれらの武士たちを個別に自分のけにん家人(家来)にすることに成功したのです。

(頼朝が将軍についてからは将軍の「家人」として「御家人」と呼ばれ、将軍と主従関係を結んだこの制度を「御家人制度」と呼んでいます。) つまり、「御家人制度」とは当時の武士間の封建的主従関係の慣わしを取り入れた頼朝独自の確固とした主従関係制度の創設なのです。こうして関東有力武士たちを明確に自己の家来として組織化したことが、頼朝の力の源・基盤となったのです。

②鎌倉を出ずに自己の勢力・政権の基盤固めに専念したこと

よく言われるように、鎌倉は三方を山に囲まれ一方は海で天然の要害の地であるとともに、源氏にとってゆかりの地であったことが、頼朝がここを根拠地に選定した理由といわれています。しかし私は鎌倉を出発点としただけでなく、鎌倉から出ないでここ鎌倉を自己の勢力であり新政権の根拠地として育てたことが重要だと思います。

1) 頼朝は、木曽義仲との戦いや西国の平氏打倒の戦いには、自らは鎌倉に残って、弟の範頼・義経らに兵を与えて戦いに当たらせています。こうした姿勢が総大将としては大切なのです。

2) その間に、頼朝は鎌倉で「侍所」「政所(公文所)」「問注所」などの役所の創設と担当者の任命と軌道に乗せることなど新政府(鎌倉幕府)のしくみづくりを着々と行っています。

3) 京都や畿内に近づかず、当時の鄙の地、「鎌倉」を東国武士に依拠する自らの基盤であり新しい政権づくりの場として育てたことが評価できます。

③鎌倉幕府は御家人支配に必要最小限の仕組みで始めた

頼朝は、鎌倉幕府は、朝廷のように律令に基づいて要不要を問わず網羅的に膨大な官庁を設けるのではなく、御家人支配になくてはならないものを必要最小限設置することから始めた。中央官庁が「侍所」「政所(初めは公文所)」「問注所」しかないのは驚きです。しかもそれにはちゃんと理由がある。まず幕府を支える御家人を統率する役所が必要であるので「侍所」を設け、幕府の政務や幕府財政事務を司るには「政所」、「一所懸命」の武士の最大の関心事である所領の争いなどを裁判する役所が是非とも必要で「問注所」を設けた。いづれも御家人支配にはまずなくてはならないものです。

それにそれらの役所の担当官吏として、主な御家人ばかりでなく、京都の朝廷の下級官吏で実務能力のある大江広元や三善康信などの下級貴族を京都から招いて担当させるなど、実務能力を重視し、仕事が滞らないように配慮したのも流石です。

④朝廷や天皇・貴族にすり寄らず、利用されなかったこと

朝廷や天皇・貴族は古くからの権威であり当時は絶大の魅力を持っているので、ともするとそれらに近づきすり寄りたくなるところですが、頼朝は、自分の依拠するのは有力武士特に関東武士と決めていて、決して朝廷や天皇・貴族にすり寄らなかったので、利用されることもありませんでした。さらに配下の御家人にまで、自分の許可なく朝廷の官職を受けないように命じて徹底しています。だから義経が自分の許可なく朝廷の官職を受けたことを許すことはできなかったのです。

特に頼朝が「大天狗」と呼んだ後白河上皇は稀代の策士であり、義仲や義経などが次々にいいように利用されましたが、頼朝は後白河上皇にはできるだけ近づかずに利用されないようにしました。

頼朝は単なる権威付けのための無用の官職は受けませんでした。頼朝が受けた「征夷大将軍」は本来は朝廷に従わない蝦夷などの征伐に向かう朝廷軍の司令官としての役割を持っていましたが、頼朝はこれは軍人・武人としての性格を強く持つ「武士」たちを指揮するのにふさわしい官職と考えたようで、これは自ら求めて任官されたようです。(こうして源頼朝以後江戸時代まで、「征夷大将軍(将軍)」は武士の棟梁を指す地位となります)しかも、頼朝が「征夷大将軍」に任じられたのは後白河上皇の死後です)

⑤この御家人重視の政治と経営がいかに功を奏したかは次の2つのことから明らかでしょう

1)後白河上皇が義経に出した「頼朝追討の院宣」に従う武士がほとんどいなかったこと。これは頼朝の御家人重視の政治・経営が効果を挙げ、御家人たちにとって、平家を破った功労者で軍事の天才の義経に付き従うことより、鎌倉新政権の領袖たる頼朝の方が遙かに信頼が厚かったことを物語るでしょう。

2)1221年の「承久の乱」の時に、御家人たちに対し尼将軍北条時子が行った演説で、頼朝様のご恩を強調すると御家人どもが涙を流し幕府への忠誠を誓ったとの話によれば、頼朝の「御家人重視の政治と経営」がいかに効果があったかは明らかでしょう。

(2)二つは、幕府勢力の拡大と将来の布石を打ったこと
頼朝の政治・経営の天才ぶりを物語る二つ目は、自己の現在の勢力・権力の基盤固めをしながら、同時に勢力・権力の拡充と将来の布石を打ったことです。

①次々と対抗勢力を打倒・壊滅した

頼朝はまず木曽義仲の勢力を打倒・壊滅すると、続いて平氏勢力を一の谷・屋島と打倒しながら壇ノ浦での壊滅まで戦いを続け、続いて軍事の天才として台頭した義経の勢力はほとんど問題なく壊滅に追い込みました(直接手を下したのは奥州藤原氏ですが)。ここで終わらないのが頼朝のすごいところで、さらに、義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏まで攻めて壊滅させています。こうして当時の頼朝勢力に武力で対抗できる勢力が全くなくなるまで徹底的に戦い、後顧の憂いをなくしたのです。

②御家人を次々と拡充した

頼朝は最初の関東の武士を御家人にしただけでなく、戦いに勝利するとともに次々に御家人を拡充し、美濃以東の東国・東北一帯と西国の一部に勢力を拡大しています。こうして頼朝の勢力・権力と鎌倉幕府は関東だけのものではなくなったのです。

③守護・地頭を設置した

頼朝は、義経追討の院宣を得た時に、義経が隠れて全国のどこに潜んでいるのか分からない状況を利用して、全国に「守護・地頭」を置く権限を獲得して、御家人を「守護・地頭」任命しました。これは「守護・地頭」に任命された御家人にとって利益であって幕府への忠誠心が増すとともに、「守護・地頭」を利用して幕府の将来の勢力拡大の布石となるものでした。こういうことを機に乗じて抜け目なく行うのが頼朝が「政治・経営の天才」という証拠です。

こうした「政治・経営の天才」源頼朝によって、新興の武士の政権・政府である「鎌倉幕府」が設立され育成され、新しい時代が切り開かれていったのです。

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2018年7月13日 (金)

歴史の深読みと考察(歴史上の二人の天才兄弟)

~ 池さんの歴史ナルホド! 08 ~

今まで7回にわたって「歴史を学ぶおもしろさ」について語ってきました。今回はその8回目です。今回も「歴史の深読みと考察」と題して、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなどや自分なりの分析・考察を加えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて述べます。今回は「歴史上の二人の天才兄弟」を例に、深読みと考察を述べてみたいと思います。

1 歴史上の二人の天才兄弟とは?

こう言われて、あなたは誰と誰を思い浮かべますか?考えようによってはいろんな兄弟を思い浮かべることができるかもしれませんが、私としては「源頼朝と源義経の二人の兄弟」を取り上げたいと思います。

それでは、この二人それぞれどんな天才だと言うのでしょう。私は「源義経」は「軍事の天才」、「源頼朝」は「政治・経営の天才」だと思うのです。以下その深読みと考察について説明していきたいと思います。

2 源義経は軍事の天才

(1)平氏追討の戦いでの義経の軍事の才能

源義経は兄頼朝の命で、兄範頼とともに平家を追討し、摂津一の谷の戦い・讃岐屋島の戦いで勝利し、長門壇ノ浦で平家を滅亡させたことで知られています。これらの戦いの源氏方の主な勝因として、源義経の軍事的な才能が上げられます。特に摂津一の谷戦いと讃岐屋島の戦いは義経の奇襲作戦の勝利と言われています。

一つ目は1184年2月の一の谷の戦い。西国で勢力を回復した平氏は摂津福原に集合し、近くの一の谷に陣を構えました。一の谷は、前は瀬戸内海、後ろは険しい鵯越(ひよどりごえ)という絶好の地形でした。これと対峙した源氏の軍は、源範頼を大将とする大軍が浜を通る狭い道を進軍しました。平氏は全軍がそこから来ると信じていたと思います。ところが突然鵯越を下ってくる義経軍の奇襲に遭い、驚いた平氏は総崩れになって敗走することになりました。ここに義経の真骨頂の「奇襲攻撃」があるのです。奇襲攻撃は文字通り「奇襲」であって、敵が予想もしない「奇策」であるからこそ成功するのです。鵯越の坂は急坂であって、到底馬で進撃するとは敵も味方も一般に思わない状況であったから成功したのです。しかし義経からみたら鵯越の坂は降りられない坂ではないし、日頃関東の台地と低地の起伏の多い土地を駆け回っている当時の板東の馬を使えば大部隊で駆け下りられないことはないと構想したのでしょう。こうして義経の奇襲は大成功しました。

二つ目は1185年2月の讃岐屋島の戦い。平氏一門は、1年前に一ノ谷の戦いで敗れはしたが、なお瀬戸内一帯の制海権を温存し、屋島に本営を置いていました。屋島も瀬戸内海に面しており、平氏は海戦に備えていました。2月18日は暴風雨になりとても戦いどころではないと平氏は考えていたのだと思います。義経はこれこそが襲撃の機会だと考えたようです。今なら無理をしてでも四国に渡れば敵は油断しているに違いない。そこで遭難の危険を心配する部下が反対するにもかかわらず、強行して暴風雨の中をわずかの兵で四国の阿波に渡ることに成功します。義経軍は上陸後すぐさま屋島の裏に回り、奇襲攻撃をかけます。平氏は大軍が奇襲してきたと勘違いして敗走し、海上を一路長門に向かうのです。これもまさかこんな時に攻撃してこないだろう。しかも少数で攻撃しては来ないだろうと相手が思ったから成功したのです。これを契機として、熊野・河野などの有力水軍の参加を得た源氏軍は、平氏方と瀬戸内の制海権を争い、きたるべき壇ノ浦の海上決戦に備えることとなりました。

三つ目は1185年3月の長門壇ノ浦の戦い。この戦いは奇襲作戦とは言えないかもしれません。当時の瀬戸内海に於ける平氏の拠点は讃岐の屋島と長門の彦島の二つでした。そのうち屋島で敗北した平氏は彦島に全軍を集結。義経軍は瀬戸内海の東から下関の彦島に迫ります。彦島の背後の九州は源範頼軍が制圧し、陸に陣取っています。これで前後を追い詰められた平氏は関門海峡の壇ノ浦に出て義経軍を待ちます。平氏軍船500艘、義経軍船840艘だったといいます。3月24日正午開戦、初めは海戦に慣れ、東進する潮流にのった平氏方が有利だったが途中から逆潮となり、午後4時ごろ平氏軍の敗北・滅亡が決定、と解するのが通説です。

この壇ノ浦の戦いの源氏の勝因としていくつか挙げられていますが、平氏軍船500艘、義経軍船840艘と戦力差があるようですが、義経軍は寄せ集めでばらばらの小舟ばかりで決して有利ではなかったようです。それ以外の勝因として以下のことが挙げられます。

①本来は平氏軍は水軍を持ち海戦に慣れていて、板東武者中心の源氏軍は陸での戦いしか経験がないので、平氏有利と言われていたが、源氏も屋島の戦いの後、水軍を味方につけていたから戦力差はかなり縮まっていたようです。

②最も大きな勝因と言われるのが「潮流説」で、これが通説です。すなわち関門海峡は潮の流れが激しい地域でしかも一定時間ごとに流れが逆流する。壇ノ浦の戦い当日は最初西の平氏側から激しい流れがあったので平氏が優勢に軍を進めたが、潮流が逆転することを知っていた義経軍は深入りせずそれをそれをしのぎ、潮流が逆転してから猛攻撃をしかけたというものです。

③海戦では当時は船をこぐ水夫は「非戦闘員」として切りつけたり矢を射てはならないという暗黙のしきたりがあったが、義経はむしろ積極的に水夫を矢で射させて相手の船の操縦を奪った。これはある意味「奇襲」と言えるかもしれませんし、これが最も効果があったとも言われています。
(先日のNHK「風雲!大歴史実験」で実験をしてみて、②は疑わしいが③が最もあり得るという結果でした。)

以上のことから、源義経は「軍事、特に戦術(しかも奇襲作戦)の天才」と言えるでしょう。

(2)軍事の天才の義経だが、政治や経営の才能は劣る

「軍事の天才」と言える義経ですが、政治や経営においては兄頼朝より遙かに劣ると思われます。その根拠として

①策士の後白河上皇に言いように利用されている

後白河上皇は自らの願い・希望を誰かを利用して実現させようと策を巡らす策士です。まず平氏の横暴が目に余りさらに自らも平氏により幽閉されてしまうという目に遭わされてると、この平氏の力をそぐのが後白河上皇の願いになります。そのため最初に有力だった木曽の源義仲に平氏を京都から追放させました。その後、京都に入った源義仲の横暴が目につくと今度は源頼朝(義経)に義仲を討たせ、さらには頼朝(義経)に平氏を討たせました。

そういう策士が後白河上皇なのです。その後後白河上皇は義経に兄頼朝に図らず官位を与えるなど、頼朝・義経の対立を利用し、軍事の天才義経に頼朝を討たせようと頼朝追討の院宣を出します。後白河上皇は頼朝は扱いにくいが、義経は扱いやすいと考えたのでしょう。しかし義経にほとんどの武士が付いてこないことを知ると、頼朝の圧迫で簡単に義経を裏切り、逆に義経追討の院宣を出します。これは義経に政治の才能がなく、策士後白河上皇にいいように利用されていることを意味しませんか。

②頼朝追討の院宣にほとんどの武士が義経についてこない

兄頼朝と対立した義経は、自分には当時最も重要だった軍事の才能があるので多くの武士が自分についてくるはずだと思ったのでしょう、後白河上皇に頼朝追討の院宣を貰って頼朝を討とうとしました。しかし多くの武士は義経についてきません。これは義経にとって大きな誤算だったと思います。

ではなぜ多くの武士は、軍事の天才義経ではなく、軍事は大した才能がない頼朝を選んだのでしょう。

1)多くの武士にとって、頼朝は、朝廷・貴族や平氏に対抗し自分たちの所領を安堵し、自分たちに利益を与えてくれる大将だが、義経はそういったことがなかったのでしょう。義経には経営の観念がなかったのでしょう。

2)確かに義経の軍事の才能はすごいが、大将としてはどうかと思われていたのでしょう。義経の戦術は奇策なのでその策は一見無謀に見えるものだから義経に従った武将の内にはその策に反対するものが多かったのですが、そうした者たちに丁寧に説明し納得させることはせず強引に押し切ったようです。また配下の中には梶原景時のように大将である義経が先陣を切ることに反対した武将もいましたが、それも受け入れませんでした。そのため梶原景時は義経に恨みを抱いたようです。当時の戦いから言えば大将が敗れたら軍全体の敗北につながるので、大将は危なくないところにいて命令を出すのが当たり前と考えられていたのです。

義経に頼朝ほどではなくてももう少し政治と経営の才能があれば、後白河上皇に振り回されることもなく、頼朝ともそれなりに旨くやって鎌倉幕府の高官ぐらいにはなれたかもしれないなと思うのです。
                                         
今回は「軍事の天才」源義経について考察してきました。次回は「政治・経営の天才」源頼朝について考察したいと思います。

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2018年6月13日 (水)

歴史の深読み(長篠の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 07 ~

今まで6回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその7回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、それはなぜそれが起こったのであろうかとか歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、前回の「桶狭間の戦い」に続いて「長篠の戦い」を例に、述べてみたいと思います。

1 歴史上の「長篠の戦い」とは?

有名な「長篠の戦い」は、高校日本史の教科書:山川出版『詳説日本史B』では、次のように記述されています。

「 1575(天正3)年、三河の長篠で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突した戦い。織田・徳川連合軍は、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝した」

この戦いで、織田・徳川連合軍は約3万人、武田軍は1万5千人だったと言われています。

また、この戦いの意義は極めて大きかったと言えます。

(1)鉄砲が初めて効果的に使われ、以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼしました。

つまり織田・徳川連合軍が新兵器の鉄砲を組織的に使用し騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝したことで、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄砲隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘となったとされています。

(2)この戦いに敗れた武田軍は敗走、勝頼も身一つで信濃へ逃れました。

武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれます。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10)滅亡を招きました。

(3)宿敵を倒したことで、織田信長の勢力は強大化し、以後天下とりに邁進しました。

2 この戦いから様々なことが深読みできます

(1)武田勝頼はなぜ野戦で大軍と激突したのか?

この戦いで、織田・徳川連合軍は約3万人、武田軍はその半分の1万5千人だったと言われています。それなのに、武田勝頼は長篠城西方の設楽が原での野戦を選び、しかも自ら進んで織田・徳川連合軍に正面から激突しています。

その理由は、武田軍にとって、二倍程度の織田・徳川連合軍には「十分勝てる」との思いがあったのだと考えます。

①武田軍が勝てると思った理由の一つには、目の前の織田・徳川連合軍が大量の鉄砲(火縄銃)を持参していることは、武田軍も承知していましたが、当時の鉄砲(火縄銃)は、1)火縄銃なので雨では使えない 2)命中率が悪い 3)玉込めして打つまでに時間がかかり過ぎる などの欠点を幾つも持っており、実戦ではほとんど役に立たないと考えられていたことです。事実、武田軍もこの戦いにわずかながら鉄砲(火縄銃)を持参していましたが、ほとんど使っていません。

②武田軍が勝てると思った理由の二つには、織田・徳川連合軍の主力は足軽兵であり、武田軍は騎馬部隊、しかも戦国時代最強とも言われ「武田の騎馬部隊」として名を馳せた優れた騎馬部隊を持っていたことです。これは騎馬部隊にするには長期間の専門的な軍事訓練が必要で、鎌倉時代の守護出身の武田氏には代々武士の家のたくさんの騎馬武者が従っていたが、新興の織田氏には昔から使える騎馬武者が少なかったようです。当時の騎馬武者は、推定ですが、5倍の足軽兵・歩兵に勝てると思われていたそうですので、1万5千人の騎馬部隊なら7万5千人の歩兵部隊に勝てる計算になります。
                     
(2)ではなぜ織田信長は、鉄砲(火縄銃)を用いたのか?

①織田信長にはぜひ鉄砲(火縄銃)を使いたい理由がありました

1.信長は、鉄砲(火縄銃)は欠点も多いが、当たればすごい殺傷能力を発揮できることは、若い頃から鉄砲(火縄銃)を扱っていて知り尽くしていました。

2.織田軍が農民上がりの足軽中心で弱兵であることは織田信長にとっても重々分かっていました。しかしそれらの足軽兵に馬を与えて短期間で騎馬兵に養成することは、極めて困難です。しかし、鉄砲なら大した軍事訓練をしなくても打つことだけは割に簡単にできます。そのため自軍の主力の足軽部隊の強化のためには鉄砲は欠かせない武器だと考えたのでしょう。

②織田信長は、鉄砲(火縄銃)の欠点克服を懸命に考えて、実戦に効果的に使用しました

織田信長は、若い頃から鉄砲(火縄銃)に着目し、500丁を仕入れるなどしており、鉄砲(火縄銃)の良い点と弱点を知り尽くしていました。そうした中で欠点を克服し、いつか実戦で本格的に使用することを考えていたようです。

1.火縄銃なので雨では使えない

この「設楽が原での戦い(長篠の戦い)」に先駆けて「長篠城」の防衛戦があったのですが、ここを武田軍に攻められて守る徳川勢が旗色が悪くなり、何度も信長に援軍を依頼しましたがなかなか軍を送りませんでした。これを知った武田勝頼は、信長は武田軍を恐れて兵を出せないのだと理解したと言われています。しかし実は信長は武田軍を恐れたのではなく、天候が回復し雨が降らなくなる時期を待っていたようなのです。事実、「設楽が原での戦い(長篠の戦い)」当日には雨は降っていません。

もう一つ。信長は小雨程度なら鉄砲(火縄銃)が使えるように、火縄の改良も成し遂げていたようです。

2.命中率が悪い 

鉄砲には火薬の爆発による反動もありますし、相当訓練しないと、極めて命中率が悪くて、どこに飛んでいくか分からないということがあったようです。大した訓練時間がない足軽に持たせるには、命中率は期待できません。そこで考えたのが、大量の鉄砲による一斉射撃です。それなら眼前の集団の敵に対し、狙いは外れても、誰かが打った玉が当たるという考えで行けます。実際、これで名だたる武田武将が弱兵である足軽鉄砲隊の玉に当たって次々と戦死したのです。「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍は3000丁の鉄砲を使用したと言われています。

3.玉込めして打つまでに時間がかかり過ぎる

これについては、従来、織田の「鉄砲三段撃ち戦法」として語られてきましたが、最近の研究では、三段撃ちしたかどうかは、疑わしいとされています。しかし、いずれにしても大量の鉄砲を集団で撃つのですから、誰かが玉込めしている間に別人が打つという具合に間断なく撃たれたものと思われます。従って、武田軍にしてみれば、玉込めしている隙をついて攻撃を仕掛けることはできなかったものと思われます。

(3)織田信長は、どのようにして大量の鉄砲(火縄銃)を用意したのか?

織田信長は、若い頃から鉄砲(火縄銃)に着目していました。鉄砲(火縄銃)は欠点も多いが、当たればすごい殺傷能力を発揮できることは、若い頃から鉄砲(火縄銃)を扱っていて知り尽くしていました。そうした中で欠点を克服し、いつか実戦で本格的に使用することを考えていたようです。実戦使用のためには、鉄砲の大量調達が必要です。「長篠の戦い」で3000丁の鉄砲を用意したという説は、現在の研究では疑問も投げかけられていますが、いずれにしても、間断なく効果ある一斉射撃ができるほどの大量の鉄砲が用意されたことは確実でしょう。

①信長は「堺」の町を支配下におさめることに力を注いだ

1.堺の町は貿易港で、鉄砲の火薬に使用する「硝石」の輸入港でした。当時の日本では「硝石」はほとんど生産できず、輸入に頼っていました。従って「硝石」を牛耳ることは「鉄砲」を牛耳ることにつながったのです。

2.「堺」は有名な刀鍛冶の町でもありました。この刀鍛冶の技術の上に鉄砲を生産させ、しかも分業を取り入れて大量生産を試みさせました。種子島で日本人が初めて鉄砲を2丁手に入れた頃(1543年、長篠の戦いの32年前)は1丁1~2億円ほどもした鉄砲が、大量生産によって1丁数十万円程度で手に入るようになってきました。こうして信長は、堺から大量の鉄砲を調達したのです。

②信長は、「長篠の戦い」には鉄砲をレンタルで手に入れた

鉄砲は高価な武器でしたので、何千丁と大量に調達するのはいささか困難でした。そこで信長は「長篠の戦い」に当たって、戦いに参加しない家臣から、少しずつレンタルで手に入れて、堺調達分に併せて家臣からのレンタル分も長篠・設楽が原に持参したようです。

(4)織田信長が行った鉄砲(火縄銃)を効果的に用いる工夫は?

信長は、鉄砲(火縄銃)を効果的に使用するために、「長篠の戦い」では様々な工夫をしました。

①なぜ長大な「馬防柵」を築いたのか

信長は、足軽兵に大量の丸太を運搬させて、長篠・設楽が原に長大な「馬防柵」を築かせました。それはなぜか?「馬防柵」とは、名前のとおり馬を防ぐ柵です。馬というのは賢い動物で、目の前に障害物を見るとそれにぶつからないように自分からブレーキをかけて立ち止まってしまうのだそうです。だから今でも馬の障害物走は高い乗馬技術がいるのだそうです。信長は武田騎馬軍を「馬防柵」の前で馬をストップさせてそこを鉄砲で一斉射撃することを企画したのでしょう。

②信長は、戦闘場所の地形も有利になるように選んだ

長篠・設楽が原の織田軍の馬防柵の前は川と湿地帯です。信長はそこで武田騎馬部隊が脚をとられて動きが鈍くなるとことを予想し、動きが鈍くなった軍団に一斉射撃することを企画したのでしょう。

また、長篠・設楽が原の織田軍の位置に対し、武田軍はやや小高い丘の上です。信長は、武田騎馬部隊が一斉に勢いよく自軍に向けて攻めかかってきて、しかも川と湿地帯で脚をとられて動きが鈍くなることを考えて、そこに馬防柵を築いたのでしょう。

こうして、織田信長は、長い時間をかけて様々な工夫と準備をしてこの「長篠の戦い」に臨んだと深読みすると、今まで知っていた歴史もさらに面白くなりませんか?
                                         

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2018年5月14日 (月)

歴史の深読み(桶狭間の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 06 ~

今まで5回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその6回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、「桶狭間の戦い」を例に、述べてみたい。

1 歴史上の「桶狭間の戦い」とは?

有名な「桶狭間の戦い」は次のように歴史的事実が捉えられています。

「桶狭間の戦い」とは、1560(永禄3)年5月、尾張をようやく統一したばかりの新興の戦国大名織田信長25歳とすでに駿河・遠江・三河の三国を領する戦国の大大名今川義元との間におこった戦いであることは、皆さんご存じのことと思います。

この時尾張に攻め込んだ今川軍は約2万5千の兵、これを迎えた織田軍は約5千と言われています。約5分の1の兵力差です。しかも今川氏は、関東の北条氏や、甲斐の武田氏との間に同盟を締結しており、後顧の憂いのない状況を作り上げていました。その戦力差は圧倒的です。この時の今川氏の尾張侵攻の狙いは、上洛説と勢力拡大説と両説があります。

今川軍約2万5千は尾張に侵攻すると織田方の各地の砦を次々に襲撃し、前衛の丸根砦,鷲津砦は5月19日までに陥落してしまいました。この時織田方の軍議では、家臣の間には籠城すべしとの意見が強かったのですが、18日夜半、信長は少数で清洲城を出て出撃しました。

しかし信長はどの砦の支援にも向かわず、熱田神宮で戦勝祈願し、家臣が集結するのを待ちました。約2千の兵が集結した頃、今川義元が桶狭間村の田楽狭間で休憩をとっているとの情報を得た信長は、直ちに2千の全軍で田楽狭間に向かい、今川義元の本陣約5千を急襲しました。

折しも雨が激しくて今川軍は織田軍の急襲に気づくのが遅れたと言います。これが「桶狭間の戦い」です。この戦いで織田軍はついに今川義元の首を上げました。義元が討ち死にしたことで今川軍は総崩れとなり、敗走しました。そして、信長はこの勝利によって勢力を急速に増大させたのです。

2 この戦いから様々なことが深読みできる

(1)織田信長はなぜ籠城策をとらなかったのか?

尾張に侵攻した今川軍は約2万5千であり、対する織田軍は約5千に過ぎません。こうした圧倒的戦力差の戦いでは劣勢の軍にとって野戦は不利であり、籠城策をとるのが通常です。事実織田家臣団も軍議では籠城策を主張したそうです。しかし信長はこうした状況にもかかわらず、籠城策をとらず出撃しました。

<では、信長はなぜ籠城策をとらなかったのでしょうか?>

私は信長はこの時既に「天下布武」を夢見ていたのではないかと考えます。一般には信長が「天下布武」を考えたのは、後に美濃の斎藤氏を倒して岐阜城に入城して「天下布武」の印判を使った時からだと言われていますが、私はもっと前、尾張を統一したあたりから末は「天下布武」を夢見ていたのではないかと推測します。

だから信長は、今川軍の尾張侵攻に対し、降参もせず、籠城もしなかったのではないでしょうか。籠城策は負けるのを遅らし、できるだけ負けないことを狙う策ですが、籠城策では勝ち目は薄い。このとき信長は、将来の「天下布武」のためにこの戦いの勝ちを狙って、あえて野戦を選択したのではないか、と私は推測します。

(2)織田信長はこの戦いで何をめざしたのか?

今川義元の尾張侵攻に際して、普通の人なら5倍の戦力を持つ今川軍を何とかやり過ごすことを考えるでしょうが、信長はそうではなく、初めから5倍の今川軍を倒し勝利をおさめることをめざしたのではないかと私は考えます。

信長は(もしかしたら信長だけは)勝利をめざしたからこそ、籠城策をとらなかったのであり、今川軍に勝つためのチャンスは野戦にあると考えて清洲城を出ることを選んだのでしょう。

そして5倍の戦力の今川軍に勝つためは、多勢の今川全軍との戦いに勝つことははなから諦め、大将の今川義元さえ倒せば敵が混乱し味方の勝利になることを見越し、今川義元の首を上げることだけに全力を傾注したのではないかと私は推測します。

(3)織田軍はなぜ今川軍に勝てたのか?

織田軍は今川義元の首を上げることで今川軍を混乱に陥れ敗走させることに成功しましたが、なぜそれができたのでしょう。私は以下のように幾つもの勝因があると考えます。

①信長は初めから今川軍に勝つことを狙っていた

 だから勝てたのです。これが一番大切な勝因だと思います。
   
②信長(大将)の勝利の戦略がしっかりしていた

たとえ勝つことを狙っていても戦略がしっかりしていなければ勝てません。信長は劣勢の自軍にとって勝利の条件は敵の大将を倒すことしかないと見切っていたことが大事な勝因です。そのために自軍の砦が攻撃されついには占領されてもそれらを支援することよりも義元を倒すことを優先しました。

③信長は勝利の条件である義元の首を上げることに全力を傾注した

信長は「桶狭間の戦い」の事後の恩賞を決める際に、大将首を上げた武将よりも、義元が桶狭間村の田楽狭間にいることを知らせた武将を一番手柄としています。ここにも義元の首を上げるためには義元のありかを知ることがなによりも大切であり、義元本体の襲撃こそ信長の狙いであったことが示されています。

また信長は、劣勢の自軍の砦の支援には兵を送らず、集結した2千の兵全軍を義元本体の攻撃に使いました。義元本隊がどこにいるかの情報を得て迷わずすぐに全軍で急襲したことがおおきな勝因でしょう。田楽狭間の義元本体は約5千の兵だったと言われています。義元本体約5000対信長率いる織田軍約2000だったので勝負になったのです。

④今川義元には油断があったのでは

今川義元はなぜ田楽狭間という攻撃されやすい場所にいたのでしょう?砦を占拠したなら今川本体も砦に入るかそれでなくても田楽狭間よりもっと防御しやすい場所にいるべきではなかったでしょうか?しかも戦いの最中に戦場でのんびり休憩して昼食をとっていたとはなぜでしょう?

私はそこに義元の油断を感じます。義元側から言えば、最初から兵力に大きな差があって敵を見くびっていた上に、織田方の丸根・鷲津などの砦が簡単に落とせたことでさらに油断が生じたのでしょう。

また、今川軍は約2万5千もいたのにそれを分散し、義元本隊は5千だったのも油断かまたは戦術のミスでしょう。さらに織田方が丸根・鷲津などの砦の守兵にわずか500程の兵士しか割いていないのももしかしたら、砦は捨て駒として簡単に負けて今川軍の油断を誘う手段だとしたら恐ろしいことです。

⑤雨も幸いした

信長軍が田楽狭間を急襲する時に折しも雨が激しくなり、雨音で信長軍の接近に義元軍が気付くのが遅れたそうです。こうした運も信長軍に幸いしたのでしょう。

⑥信長には地の利があった
                                                      
信長は幼少の頃より戦争ごっこが好きであって、近習と地元を駆け回っていたと伝えられています。そのため信長は戦場となった桶狭間の地域は知り尽くしていたので有利であったと考えられます。
 

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2018年4月14日 (土)

歴史的事実の背景を考える(源氏物語の誕生)

~ 池さんの歴史ナルホド! 05 ~ 
                                   
今まで4回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきた。今回はその5回目である。今回は、歴史的事実はなぜそれが起こったのか、当時の歴史的背景を考えてみるとおもしろいということである。

例えば、『源氏物語』について考えてみる

「いづれの御時にか女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給うありけり」で始まる『源氏物語』は、平安時代の中頃、紫式部によって書かれた54帖にもわたる長編小説の大作であることはよく知られている。

この小説は日本ばかりでなく世界的にも評価が高い。考えてみれば不思議である。今から千年近くも前になぜこれほどの作品が生み出されたのだろうか? 今回はその歴史的な背景を考えてみる。

1 当時は教養の高い宮中女官がたくさん出た

源氏物語の作者は紫式部という女性だと言われている。なぜ彼女は『源氏物語』が書けるほどの高い教養を持ち得たのだろうか?

彼女は平安時代の藤原氏による摂関政治全盛期の時代に、摂政藤原道長に高い教養を見込まれ、道長の娘、中宮彰子にいわば家庭教師のようなものとして仕えた女官である。

当時の貴族の婚姻は男性が女性の家を訪問する「妻問婚」であり、貴族の出世や勢力拡大に娘の嫁ぎ先が大きな関わりをもった。

出世を願う貴族にとって、その手段として娘の教養が重視され、そのためすぐれた才能を持つ家庭教師としての女官(女房・侍女)が必要とされた。

そこで、紫式部の父も娘をそのような高い教養を持つように育てたのである。同時期に紫式部のライバルとされる清少納言は皇后定子に仕え、『枕草子』という高い教養を必要とする随筆を著した。

2 当時は「平仮名」が生まれ、宮中女官は「平仮名」を使って表現できた

当時の文学には、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』以外に、藤原道綱の母の『蜻蛉日記』や和泉式部の『和泉式部日記』や菅原孝標の娘の『更級日記』など女性の手によるものが多い。

これはなぜだろうか?それは、当時の宮廷女官が高い教養を持っていた他に、平安時代初期に生まれた「平仮名」との関わりが深い。

「平仮名」は漢字の草書から生まれた日本独特の文字である。筆記が容易な平易な文字であるばかりでなく、一音ずつに対応するので、難しい漢文ではなく普段彼らが使っている日本語の文で表現する時にも大変便利であった。

しかしながら「平仮名」は、当時の正式の文字である「漢字=真名」に対し、一段低い「仮の文字=仮名」と考えられていたために、男性より一段低く考えられた女性だけが用いるものとされたということが深く関わっている。

そのため、情景描写や当時の人々が自分の思ったことや感じたことなどを豊かに表現することは、「平仮名」を使用する女性の得意とするところとなったのであり、当然『源氏物語』にも「平仮名」が多用されている。

つまり紫式部が「平仮名」が使えたことが、『源氏物語』の優れた情景描写や感情や思いの豊かな表現を可能にしたのである。
 
3 当時は、宮中は華やかな生活と男女の交流の場であった

『源氏物語』には、貴族たちの宮中での華やかな生活と男女の交流が盛んに描かれている。

当時の平安貴族の生活は経済的にも恵まれ、文化も成熟して国風化し、華やかな宮中生活が営まれた。

また、当時は娘の嫁ぎ先が男性貴族の出世と深く関わりがあったために、宮中での男女の交流は盛んであった。

そのような中で暮らしていた紫式部や『源氏物語』の読者である貴族たちにとって、華やかな宮中生活と男女の交流は大きな関心事であり、『源氏物語』の執筆に強く影響を与えたのであろう。

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2018年3月16日 (金)

歴史の謎から

~ 池さんの歴史ナルホド! 04 ~

今まで3回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきた。今回はその4回目である。今回は、かつて歴史を学んだ時に自分にとって「謎」だったことが、改めて学びなおしてみると、その謎が解けることがある、それがまた面白いということである。

かつて歴史の授業で、大政奉還で江戸幕府が終わり、新政府誕生のときに、「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、これをきっかけに旧幕府方と新政府方の2年間の内戦(戊辰戦争)があって、新政府方がこの2年間の戦いに勝利したことで新政府による新しい政治(明治維新)が行われるようになったと学んだ。

そのかつて「鳥羽・伏見の戦い」を学んだ時に不思議に思ったのは、江戸時代あれほど他藩に対して圧倒的な軍事的な強さを持った旧徳川幕府方が、たかだか薩長2藩を中心とした新政府軍に、なぜもろくも敗北したのかということであった。しかもこの戦いでは、旧幕府軍の方が新政府軍より人数が多かったらしいというのでますます分からない。

そのとき教えてもらったのは、旧幕府方の武器が旧式で新政府軍より劣っていたとか、旧幕府軍は戦い方においても旧式であったということなどである。それで一応はそんなものかとおさまっていたら、後に、旧幕府軍の武器は決して新政府軍の武器より時代遅れでなく、しかも旧幕府軍はフランス式の軍事調練を受けていたということを知った。それでますますわからなくなった。

そして最近、次のようなことを知った。

< 旧幕府軍の敗因は? >

(1)従来言われてきたのは、幕府軍の装備が薩長の新政府軍に比べて時代遅れで劣っていたという説だが、これは当たらない。親幕府勢力の会津藩・桑名藩・新撰組などは刀や槍及び旧式銃の装備だったが、旧幕府軍歩兵部隊はフランス式調練を受けており、装備も薩長並みまたはそれ以上の銃と大砲を持っていた。

(2)それよりも、旧幕府軍が1万5000人という新政府軍5000人の3倍の兵を有しながら、それを狭い鳥羽伏見に集中し、しかも縦隊にぎゅうぎゅう詰めで進撃させたために、大軍の利を生かせなかったことなど、軍事作戦を立案・指示する幹部に有能な人材が不足したことが大きい。

(3)さらに、旧幕府軍は大軍であったことと旧幕府軍という今までの圧倒的な権威と強いだろうというイメージがあるので、できたばかりで得体の知れない新政府軍はおそれをなし、簡単に京都に入れるだろうと油断したきらいがある。

(4)また、岩倉具視が薩長に作らせた「錦の御旗」の登場の効果も大きかった。この旗の登場で新政府軍は「官軍」、旧幕府軍は「賊軍」というイメージが作られ、「錦の御旗」の登場した1月5日に戦況は一気に新政府軍有利に転じた。

(5)この時の徳川慶喜の責任を問う声も大きい。慶喜は1月3日の戦いの開始日に感冒で(仮病?)で大阪城に引っ込んでいたこと、4日の両軍は一進一退を続けたにもかかわらず、5日に「錦の御旗」が登場すると、慶喜は多くの兵を置き去りにしてわずかな取り巻きとともに大阪城を脱出して江戸に逃げ帰ってしまった。これが総大将では勝てない。

しかし、慶喜にすれば、この時は恭順して京都から大坂に退出したのであって、まわりに総大将として担ぎ出されてはいても、最初から新政府軍と戦う意志はなかったとも言われる。
 
こうして新たなことが分かって、かつての謎が解けてみると、歴史はさらにおもしろい。

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2018年2月14日 (水)

歴史の謎から

~ 池さんの歴史ナルホド! 03 ~

歴史には、まだ分かっていないことがたくさんある。それらは「歴史の謎」と呼ばれ、いつの日か謎解きの時が待たれている。これもまた歴史のおもしろさである。

(1)邪馬台国はどこにあったのか?

その中でも有名な謎をいくつか挙げると、一つは、「邪馬台国論争」と呼ばれるもの。

邪馬台国がどこにあったのかについては、いわゆる『魏志倭人伝』の記述の読み取り方から、北九州説と近畿説を中心に、出雲説・吉備説・阿波説など多数の説が挙げられているが、どれももっともらしくておもしろい。

私が最近注目したのは『誤読だらけの邪馬台国』。著者は台湾人の張明澄さんで、『魏志倭人伝』の記述を三国時代の中国語で理解しないから謎になる、『魏志倭人伝』が書かれた三国時代の中国語で理解すれば、邪馬台国の場所は自ずからわかると言う。

特に重要なのは「至」と「到」の違いをきちんと理解することだという。つまり「到」は「〇〇へいたる」の意味で、到着地で最終目的地であり、あらたな出発点にならない。「至」は「〇〇まで」の意味で、通過点であり、新たな出発点になるのだそうだ。

そんな簡単なことで邪馬台国の場所がわかるのだそうだ。これにはびっくり。その読み方で読み解くと、邪馬台国は鹿児島県北西部の「阿久根市」になるのだそうだ。
 
(2)本能寺の変はなぜ起こったのか?

「本能寺の変」の原因も諸説があっておもしろい。

明智光秀の<単独説>に、かつて有力だった「光秀の怨恨説」と「光秀の野望説」がある。その他に光秀に影響を与えたなんらかの別の人物または勢力の関与があったとする<黒幕説>に「朝廷関与説」「羽柴秀吉関与説」「黒田官兵衛関与説」「足利義昭関与説」「徳川家康関与説」「四国説」などがある。どれもそれぞれにありそうなのでおもしろい。

この「本能寺の変」の原因に関して、昨年2017年9月に、明智光秀が書いた手紙というのが見つかって新聞報道などで注目をあびた。これは光秀が本能寺の変の直後に、近畿地方の一侍大将である土橋重治宛に書いた手紙だそう。

手紙の主旨は、「明智光秀が織田信長を倒して足利義昭を迎える用意があるので足利義昭に伝えてほしい」というもの。これは信長を倒して、光秀のかつての主人であった足利義昭の将軍復活を実現するねらいという「足利義昭関与説」を裏付けるものになるいう。これでこの説が最有力になったのだろうか?

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2018年1月13日 (土)

今に続く歴史

~ 池さんの歴史ナルホド! 02 ~

前回、私はかなりの歴史好きであることは述べた。

今でも地元の3つの歴史勉強会に参加し、その他にも歴史に関わる講座を受講したり、テレビ番組も結構歴史にかかわる番組を見る機会が多い。そのため歴史に関するいろんなことを学ぶことも多い。

それらの楽しさを伝えたいと思い、前回は「歴史も変わる」というテーマで「縄文時代」の変化や今は使わない「大和朝廷」という言葉や「聖徳太子」の変化を紹介した。

今回は歴史の面白さの一つとして、過去の歴史が今に続くことを見つけた時の嬉しさを述べてみたい。歴史はけっして終わってしまったことではないのである。

今回紹介するのは、日本の地名と苗字になぜ漢字2文字が多いのか、ということ。

例えば、地名を見てみよう。都道府県名もそのほとんどが漢字2文字で、3文字が少数。1文字や4文字はない。その他の身近な地名を見ても同じ。自分の市町村やその付近の地名にも恐らく漢字2文字の地名が多いだろう。

苗字にしても、私の池田やその他にもやはり漢字2文字の苗字が圧倒的に多い。

これはなぜだろう?実はこのことと、奈良時代に出された法令とが深い関係があるのだ。

1 日本の地名に漢字2文字が多いのはなぜか?

(1)漢字が伝わる前の日本の地名はヤマト言葉であり、音だけがあった。

(2)その音に漢字が当てはめられた時には、漢字で1文字や3・4文字などのいろいろな文字数の地名があった。

(3)ところが奈良時代の元明天皇の治世の713年に「諸国郡郷名著好字令(略称は好字令・好字二字令)」という勅令が発布された。これよって地名は漢字2字、しかも好字に変更されたのである。

◎内容
国・郡・郷などの地名を好字(良い意味の字)の漢字2文字にすること(国名については好字令以前にも2字にしようとする動きもあったようである)

◎狙い
①律令制度の行政事務(戸籍作成など)に全地名が漢字2文字にそろうと便利。

②中国(唐)の地名は2文字が多いので、それにならう(当時の日本では中国のまねはいいことだった)。

③変更の実際
[1文字から] 倭→大倭→大和、泉→和泉、津→摂津、沖→隠岐、木→紀伊、火→肥前・肥後、粟→阿波、車→群馬、中→那珂・那賀、北→喜多、など

[3文字から] 上毛野→上野、下毛野→下野、近淡海→近江、遠淡海→遠江、多遅麻→但馬、明日香→飛鳥、など

[2文字から] 胸刺など→武蔵、針間→播磨、三野→美野、など

2 日本人の苗字に2文字が多いのはなぜか?

 苗字は地名が由来するものが多かったためと考えられる。

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2017年12月13日 (水)

歴史は不変か! 

~ 池さんの歴史ナルホド! 01 ~

私はかつて千葉県に住んでいたが、仕事が終わったのを機に、妻の実家のある長野県安曇野市に転居して、およそ1年半を迎えた。

今では、テニス・トレーニングジム・歌声喫茶・カラオケ教室など様々な活動に参加している。特に歴史は好きで、「安曇氏族の興亡」「信州中世山城」「近代自由主義者清沢洌研究」という3つの勉強会に参加し、他にも安曇野検定講座・安曇野百姓一揆古文書講座などにも参加している。

歴史は学生の頃から好きな勉強だった。昔の人がどんなふうに生きたのか、知るのが楽しかった。かなり夢中で勉強した。でもその頃の私は、歴史というのは過去のことなので確定したことであり、当然変わらないものだと漠然と信じ込んでいたのだと思う。

それが何年かして中学生に教える立場になったために、自分でももう一度歴史の勉強をし直して驚いた。かつて自分が学んだことと教科書に違うことが書いてある。それが幾つもある。

中でも衝撃的だったのは、「源頼朝像」「足利尊氏像」として教科書に載っていた絵が実は頼朝や尊氏ではなかったと言う話。そのため「伝源頼朝像」と書いてあったり、掲載もされていないのだ。もっと驚いたのは、「慶安の御触書」が実はなかった!というのだ。教科書のそれらの変化は調べれば続々と出てきた。

つまり、歴史的事実や考察の多くは決して確定したものではなかったのだ。かつて私たちが知っていた歴史的出来事や考察も新しい史料や遺物などの発見や研究の進展によって変わり、教科書が書き換えられるということも多々あるのだ。

今回は、この一文を読んでくださった方のために、参考までに原始時代や古代史の中から教科書が書き換えられた例をいくつか紹介する。さてあなたは幾つご存じでしょうか?

1.「縄文時代」のイメージは変わった!

かつての教科書では「縄文時代の人々は、採集・狩猟の貧しい生活で移住をして暮らしていた」と書かれていたが、今では、「本格的な農耕の段階まではいかないが栽培も開始しされ、人々の生活は安定して定住も始まった」と変更された。

また、稲作の開始についても「縄文時代には陸稲の栽培が始まった」こと、水稲稲作の開始もかつては弥生時代からと書かれていたが、今では「縄文時代の終わり頃に九州北部で水田による米作りが開始された」と記述されている。

2.「大和朝廷」とは言わない!

かつての教科書では、古代日本を統一したのは「大和朝廷」と書かれていたが、今は「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と書かれている。

「大和」というのは奈良時代以後の呼称であり、7世紀までは様々な漢字が当てられていたので漢字ではなく音だけの「ヤマト」が適切であると考えられている。

また、「朝廷」は天皇の下での中央集権的な官僚制機構を持つ政府・政権のこととして、天皇号もなく律令制でもない連合国家のこの時代に当てはまるのは適切でないと考えられるようになった。

ちなみに、古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀のことを、かつては、政権の中心が「大和」にあったということで「大和時代」と呼んでいたが、今は「古墳時代」としか言わないようである。

3.「聖徳太子」もこんなに変わった!

①「聖徳太子」という呼び名は後代の呼称でこの時代には使われていなかったというので、現在の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」または「厩戸王(聖徳太子)」と記述されている。

②彼が就任したという「摂政」という役職も実はこの時代にはなかったようである。

③また、推古朝の国政をリードしたのが聖徳太子だとかつては言われてきたが、今では推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の3人の共同政治と考えられている。

④それに推古朝に行われた十七条の憲法・冠位十二階・遣隋使派遣・法隆寺建立もどれも聖徳太子の施策であるとの確証がないので、教科書では誰がやったと書かずに推古朝の施策として記述しているものがある。

⑤さらに、お札の似顔絵になった聖徳太子像は、8世紀半ばに描かれたもので聖徳太子と似ているという根拠がないと考えられている。

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