カラフルエッセイ 池さんの歴史ナルホド!

2018年4月14日 (土)

歴史的事実の背景を考える(源氏物語の誕生)

~ 池さんの歴史ナルホド! 05 ~ 
                                   
今まで4回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきた。今回はその5回目である。今回は、歴史的事実はなぜそれが起こったのか、当時の歴史的背景を考えてみるとおもしろいということである。

例えば、『源氏物語』について考えてみる

「いづれの御時にか女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給うありけり」で始まる『源氏物語』は、平安時代の中頃、紫式部によって書かれた54帖にもわたる長編小説の大作であることはよく知られている。

この小説は日本ばかりでなく世界的にも評価が高い。考えてみれば不思議である。今から千年近くも前になぜこれほどの作品が生み出されたのだろうか? 今回はその歴史的な背景を考えてみる。

1 当時は教養の高い宮中女官がたくさん出た

源氏物語の作者は紫式部という女性だと言われている。なぜ彼女は『源氏物語』が書けるほどの高い教養を持ち得たのだろうか?

彼女は平安時代の藤原氏による摂関政治全盛期の時代に、摂政藤原道長に高い教養を見込まれ、道長の娘、中宮彰子にいわば家庭教師のようなものとして仕えた女官である。

当時の貴族の婚姻は男性が女性の家を訪問する「妻問婚」であり、貴族の出世や勢力拡大に娘の嫁ぎ先が大きな関わりをもった。

出世を願う貴族にとって、その手段として娘の教養が重視され、そのためすぐれた才能を持つ家庭教師としての女官(女房・侍女)が必要とされた。

そこで、紫式部の父も娘をそのような高い教養を持つように育てたのである。同時期に紫式部のライバルとされる清少納言は皇后定子に仕え、『枕草子』という高い教養を必要とする随筆を著した。

2 当時は「平仮名」が生まれ、宮中女官は「平仮名」を使って表現できた

当時の文学には、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』以外に、藤原道綱の母の『蜻蛉日記』や和泉式部の『和泉式部日記』や菅原孝標の娘の『更級日記』など女性の手によるものが多い。

これはなぜだろうか?それは、当時の宮廷女官が高い教養を持っていた他に、平安時代初期に生まれた「平仮名」との関わりが深い。

「平仮名」は漢字の草書から生まれた日本独特の文字である。筆記が容易な平易な文字であるばかりでなく、一音ずつに対応するので、難しい漢文ではなく普段彼らが使っている日本語の文で表現する時にも大変便利であった。

しかしながら「平仮名」は、当時の正式の文字である「漢字=真名」に対し、一段低い「仮の文字=仮名」と考えられていたために、男性より一段低く考えられた女性だけが用いるものとされたということが深く関わっている。

そのため、情景描写や当時の人々が自分の思ったことや感じたことなどを豊かに表現することは、「平仮名」を使用する女性の得意とするところとなったのであり、当然『源氏物語』にも「平仮名」が多用されている。

つまり紫式部が「平仮名」が使えたことが、『源氏物語』の優れた情景描写や感情や思いの豊かな表現を可能にしたのである。
 
3 当時は、宮中は華やかな生活と男女の交流の場であった

『源氏物語』には、貴族たちの宮中での華やかな生活と男女の交流が盛んに描かれている。

当時の平安貴族の生活は経済的にも恵まれ、文化も成熟して国風化し、華やかな宮中生活が営まれた。

また、当時は娘の嫁ぎ先が男性貴族の出世と深く関わりがあったために、宮中での男女の交流は盛んであった。

そのような中で暮らしていた紫式部や『源氏物語』の読者である貴族たちにとって、華やかな宮中生活と男女の交流は大きな関心事であり、『源氏物語』の執筆に強く影響を与えたのであろう。

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2018年3月16日 (金)

歴史の謎から

~ 池さんの歴史ナルホド! 04 ~

今まで3回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきた。今回はその4回目である。今回は、かつて歴史を学んだ時に自分にとって「謎」だったことが、改めて学びなおしてみると、その謎が解けることがある、それがまた面白いということである。

かつて歴史の授業で、大政奉還で江戸幕府が終わり、新政府誕生のときに、「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、これをきっかけに旧幕府方と新政府方の2年間の内戦(戊辰戦争)があって、新政府方がこの2年間の戦いに勝利したことで新政府による新しい政治(明治維新)が行われるようになったと学んだ。

そのかつて「鳥羽・伏見の戦い」を学んだ時に不思議に思ったのは、江戸時代あれほど他藩に対して圧倒的な軍事的な強さを持った旧徳川幕府方が、たかだか薩長2藩を中心とした新政府軍に、なぜもろくも敗北したのかということであった。しかもこの戦いでは、旧幕府軍の方が新政府軍より人数が多かったらしいというのでますます分からない。

そのとき教えてもらったのは、旧幕府方の武器が旧式で新政府軍より劣っていたとか、旧幕府軍は戦い方においても旧式であったということなどである。それで一応はそんなものかとおさまっていたら、後に、旧幕府軍の武器は決して新政府軍の武器より時代遅れでなく、しかも旧幕府軍はフランス式の軍事調練を受けていたということを知った。それでますますわからなくなった。

そして最近、次のようなことを知った。

< 旧幕府軍の敗因は? >

(1)従来言われてきたのは、幕府軍の装備が薩長の新政府軍に比べて時代遅れで劣っていたという説だが、これは当たらない。親幕府勢力の会津藩・桑名藩・新撰組などは刀や槍及び旧式銃の装備だったが、旧幕府軍歩兵部隊はフランス式調練を受けており、装備も薩長並みまたはそれ以上の銃と大砲を持っていた。

(2)それよりも、旧幕府軍が1万5000人という新政府軍5000人の3倍の兵を有しながら、それを狭い鳥羽伏見に集中し、しかも縦隊にぎゅうぎゅう詰めで進撃させたために、大軍の利を生かせなかったことなど、軍事作戦を立案・指示する幹部に有能な人材が不足したことが大きい。

(3)さらに、旧幕府軍は大軍であったことと旧幕府軍という今までの圧倒的な権威と強いだろうというイメージがあるので、できたばかりで得体の知れない新政府軍はおそれをなし、簡単に京都に入れるだろうと油断したきらいがある。

(4)また、岩倉具視が薩長に作らせた「錦の御旗」の登場の効果も大きかった。この旗の登場で新政府軍は「官軍」、旧幕府軍は「賊軍」というイメージが作られ、「錦の御旗」の登場した1月5日に戦況は一気に新政府軍有利に転じた。

(5)この時の徳川慶喜の責任を問う声も大きい。慶喜は1月3日の戦いの開始日に感冒で(仮病?)で大阪城に引っ込んでいたこと、4日の両軍は一進一退を続けたにもかかわらず、5日に「錦の御旗」が登場すると、慶喜は多くの兵を置き去りにしてわずかな取り巻きとともに大阪城を脱出して江戸に逃げ帰ってしまった。これが総大将では勝てない。

しかし、慶喜にすれば、この時は恭順して京都から大坂に退出したのであって、まわりに総大将として担ぎ出されてはいても、最初から新政府軍と戦う意志はなかったとも言われる。
 
こうして新たなことが分かって、かつての謎が解けてみると、歴史はさらにおもしろい。

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2018年2月14日 (水)

歴史の謎から

~ 池さんの歴史ナルホド! 03 ~

歴史には、まだ分かっていないことがたくさんある。それらは「歴史の謎」と呼ばれ、いつの日か謎解きの時が待たれている。これもまた歴史のおもしろさである。

(1)邪馬台国はどこにあったのか?

その中でも有名な謎をいくつか挙げると、一つは、「邪馬台国論争」と呼ばれるもの。

邪馬台国がどこにあったのかについては、いわゆる『魏志倭人伝』の記述の読み取り方から、北九州説と近畿説を中心に、出雲説・吉備説・阿波説など多数の説が挙げられているが、どれももっともらしくておもしろい。

私が最近注目したのは『誤読だらけの邪馬台国』。著者は台湾人の張明澄さんで、『魏志倭人伝』の記述を三国時代の中国語で理解しないから謎になる、『魏志倭人伝』が書かれた三国時代の中国語で理解すれば、邪馬台国の場所は自ずからわかると言う。

特に重要なのは「至」と「到」の違いをきちんと理解することだという。つまり「到」は「〇〇へいたる」の意味で、到着地で最終目的地であり、あらたな出発点にならない。「至」は「〇〇まで」の意味で、通過点であり、新たな出発点になるのだそうだ。

そんな簡単なことで邪馬台国の場所がわかるのだそうだ。これにはびっくり。その読み方で読み解くと、邪馬台国は鹿児島県北西部の「阿久根市」になるのだそうだ。
 
(2)本能寺の変はなぜ起こったのか?

「本能寺の変」の原因も諸説があっておもしろい。

明智光秀の<単独説>に、かつて有力だった「光秀の怨恨説」と「光秀の野望説」がある。その他に光秀に影響を与えたなんらかの別の人物または勢力の関与があったとする<黒幕説>に「朝廷関与説」「羽柴秀吉関与説」「黒田官兵衛関与説」「足利義昭関与説」「徳川家康関与説」「四国説」などがある。どれもそれぞれにありそうなのでおもしろい。

この「本能寺の変」の原因に関して、昨年2017年9月に、明智光秀が書いた手紙というのが見つかって新聞報道などで注目をあびた。これは光秀が本能寺の変の直後に、近畿地方の一侍大将である土橋重治宛に書いた手紙だそう。

手紙の主旨は、「明智光秀が織田信長を倒して足利義昭を迎える用意があるので足利義昭に伝えてほしい」というもの。これは信長を倒して、光秀のかつての主人であった足利義昭の将軍復活を実現するねらいという「足利義昭関与説」を裏付けるものになるいう。これでこの説が最有力になったのだろうか?

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2018年1月13日 (土)

今に続く歴史

~ 池さんの歴史ナルホド! 02 ~

前回、私はかなりの歴史好きであることは述べた。

今でも地元の3つの歴史勉強会に参加し、その他にも歴史に関わる講座を受講したり、テレビ番組も結構歴史にかかわる番組を見る機会が多い。そのため歴史に関するいろんなことを学ぶことも多い。

それらの楽しさを伝えたいと思い、前回は「歴史も変わる」というテーマで「縄文時代」の変化や今は使わない「大和朝廷」という言葉や「聖徳太子」の変化を紹介した。

今回は歴史の面白さの一つとして、過去の歴史が今に続くことを見つけた時の嬉しさを述べてみたい。歴史はけっして終わってしまったことではないのである。

今回紹介するのは、日本の地名と苗字になぜ漢字2文字が多いのか、ということ。

例えば、地名を見てみよう。都道府県名もそのほとんどが漢字2文字で、3文字が少数。1文字や4文字はない。その他の身近な地名を見ても同じ。自分の市町村やその付近の地名にも恐らく漢字2文字の地名が多いだろう。

苗字にしても、私の池田やその他にもやはり漢字2文字の苗字が圧倒的に多い。

これはなぜだろう?実はこのことと、奈良時代に出された法令とが深い関係があるのだ。

1 日本の地名に漢字2文字が多いのはなぜか?

(1)漢字が伝わる前の日本の地名はヤマト言葉であり、音だけがあった。

(2)その音に漢字が当てはめられた時には、漢字で1文字や3・4文字などのいろいろな文字数の地名があった。

(3)ところが奈良時代の元明天皇の治世の713年に「諸国郡郷名著好字令(略称は好字令・好字二字令)」という勅令が発布された。これよって地名は漢字2字、しかも好字に変更されたのである。

◎内容
国・郡・郷などの地名を好字(良い意味の字)の漢字2文字にすること(国名については好字令以前にも2字にしようとする動きもあったようである)

◎狙い
①律令制度の行政事務(戸籍作成など)に全地名が漢字2文字にそろうと便利。

②中国(唐)の地名は2文字が多いので、それにならう(当時の日本では中国のまねはいいことだった)。

③変更の実際
[1文字から] 倭→大倭→大和、泉→和泉、津→摂津、沖→隠岐、木→紀伊、火→肥前・肥後、粟→阿波、車→群馬、中→那珂・那賀、北→喜多、など

[3文字から] 上毛野→上野、下毛野→下野、近淡海→近江、遠淡海→遠江、多遅麻→但馬、明日香→飛鳥、など

[2文字から] 胸刺など→武蔵、針間→播磨、三野→美野、など

2 日本人の苗字に2文字が多いのはなぜか?

 苗字は地名が由来するものが多かったためと考えられる。

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2017年12月13日 (水)

歴史は不変か! 

~ 池さんの歴史ナルホド! 01 ~

私はかつて千葉県に住んでいたが、仕事が終わったのを機に、妻の実家のある長野県安曇野市に転居して、およそ1年半を迎えた。

今では、テニス・トレーニングジム・歌声喫茶・カラオケ教室など様々な活動に参加している。特に歴史は好きで、「安曇氏族の興亡」「信州中世山城」「近代自由主義者清沢洌研究」という3つの勉強会に参加し、他にも安曇野検定講座・安曇野百姓一揆古文書講座などにも参加している。

歴史は学生の頃から好きな勉強だった。昔の人がどんなふうに生きたのか、知るのが楽しかった。かなり夢中で勉強した。でもその頃の私は、歴史というのは過去のことなので確定したことであり、当然変わらないものだと漠然と信じ込んでいたのだと思う。

それが何年かして中学生に教える立場になったために、自分でももう一度歴史の勉強をし直して驚いた。かつて自分が学んだことと教科書に違うことが書いてある。それが幾つもある。

中でも衝撃的だったのは、「源頼朝像」「足利尊氏像」として教科書に載っていた絵が実は頼朝や尊氏ではなかったと言う話。そのため「伝源頼朝像」と書いてあったり、掲載もされていないのだ。もっと驚いたのは、「慶安の御触書」が実はなかった!というのだ。教科書のそれらの変化は調べれば続々と出てきた。

つまり、歴史的事実や考察の多くは決して確定したものではなかったのだ。かつて私たちが知っていた歴史的出来事や考察も新しい史料や遺物などの発見や研究の進展によって変わり、教科書が書き換えられるということも多々あるのだ。

今回は、この一文を読んでくださった方のために、参考までに原始時代や古代史の中から教科書が書き換えられた例をいくつか紹介する。さてあなたは幾つご存じでしょうか?

1.「縄文時代」のイメージは変わった!

かつての教科書では「縄文時代の人々は、採集・狩猟の貧しい生活で移住をして暮らしていた」と書かれていたが、今では、「本格的な農耕の段階まではいかないが栽培も開始しされ、人々の生活は安定して定住も始まった」と変更された。

また、稲作の開始についても「縄文時代には陸稲の栽培が始まった」こと、水稲稲作の開始もかつては弥生時代からと書かれていたが、今では「縄文時代の終わり頃に九州北部で水田による米作りが開始された」と記述されている。

2.「大和朝廷」とは言わない!

かつての教科書では、古代日本を統一したのは「大和朝廷」と書かれていたが、今は「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と書かれている。

「大和」というのは奈良時代以後の呼称であり、7世紀までは様々な漢字が当てられていたので漢字ではなく音だけの「ヤマト」が適切であると考えられている。

また、「朝廷」は天皇の下での中央集権的な官僚制機構を持つ政府・政権のこととして、天皇号もなく律令制でもない連合国家のこの時代に当てはまるのは適切でないと考えられるようになった。

ちなみに、古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀のことを、かつては、政権の中心が「大和」にあったということで「大和時代」と呼んでいたが、今は「古墳時代」としか言わないようである。

3.「聖徳太子」もこんなに変わった!

①「聖徳太子」という呼び名は後代の呼称でこの時代には使われていなかったというので、現在の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」または「厩戸王(聖徳太子)」と記述されている。

②彼が就任したという「摂政」という役職も実はこの時代にはなかったようである。

③また、推古朝の国政をリードしたのが聖徳太子だとかつては言われてきたが、今では推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の3人の共同政治と考えられている。

④それに推古朝に行われた十七条の憲法・冠位十二階・遣隋使派遣・法隆寺建立もどれも聖徳太子の施策であるとの確証がないので、教科書では誰がやったと書かずに推古朝の施策として記述しているものがある。

⑤さらに、お札の似顔絵になった聖徳太子像は、8世紀半ばに描かれたもので聖徳太子と似ているという根拠がないと考えられている。

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