カラフルエッセイ  おさむの鳥の目

2019年2月24日 (日)

京都に津波はないと考えてよいか

~ おさむの鳥の目 227 ~

地震、雷、火事、親父、古い言い方ですが、怖いものの筆頭が地震です。地震と聞くと気になるのが津波です。「この地震による津波はありません」というアナウンスがあると安心するのですが、一方で、「京都には津波はないからな」という考えが頭の片隅に出てきます。

しかし、私の場合、本当にそう考えてよいのかなという思いは、いつも付いてきます。ということは、京都にも何時かは津波が襲ってくるかも知れないという心配をしていることになります。

京都は昔の人が、いろいろ考えて、災害が少ないからという判断もあった上で都を定めた。だから、他の土地に比べて災害は少ないのだと教えられてきたように思っています。しかし、そういう漠然とした安易な考えを持ち続けていてよいのかという疑問はありました。一度、自分でよく考えてみようというのが今回のテーマです。

「京都には津波はない」という考えに対して、日本列島の本州は、琵琶湖を境に東西に千切れるという言葉が頭の隅にあるからです。そこで日本列島の成り立ちについて調べると、大きく言えば、日本列島は、ユーラシア大陸の東端の部分が大陸から離れてできたらしいです。約3000万年前のことです。

もう一つ、それより東に別の塊があって、この二つがくっついて一つになった。その場所は、今の地図で言えば、北陸から東海道・関東に亘る地域です。この部分は地図で見ると、細長い日本列島の中では最も太い(幅広い)部分です。

こう見ると、日本列島がちぎれて、東西に分かれるという想定はあまりしなくてよいようです。そして、この日本列島ができたのは非常に古い時代のようです。時間について「非常に長い」というのは日常あまり考えないので、表現として頭に浮かぶのは「神代の時代から」くらいです。

今、たまたま、「神代」が出てきましたが、神様は肉体を持たない存在です。人間でも肉体を持たない存在になれば、長い時間を生きることができます。神様になるということです。私の少ない知識から言えば、「弘法大師空海」とか「天神菅原道真」が考えられます。

歴史上の人物だけでなく、現代人でいえば、「出口なお」、「出口王仁三郎」などの名前が出てきます。数えれば、もっと沢山の名前が挙がるでしょう。私はこの方面のことを語るのは適任ではないのでさし控えますが、地球の歴史を言うには普通の人間の寿命は短過ぎます。

地球は、巨大なマントルの塊の上にある地殻の表面に人間等が住んでいる物体と言えますから、考えればひ弱なものです。しかし、時間の要素を入れると、地球の歴史は長く、変動があるのは極々稀なできごとといえます。人間の寿命はごく短いので、あまり気にすることはないと言えるのかも知れないと、今は考えています。

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2019年1月24日 (木)

頭に浮かんだアイデアをメモするか

~ おさむの鳥の目 226

一般に、頭に浮かんだアイデアはすぐにメモするのがよいと推奨されているように私は考えています。しかし、これは私の思い込みであって、それが正しいかどうかは分かりません。

一般論は別にして、このような考え方があることは間違いありません。そこで、自分はどうであったかとふり返って考えると、私はこの考えに反対でした。新商品開発に関係していた経歴からすると、常にメモ帳を用意していて、思いついたアイデアは即座に書き留めるようにしていたと言ってもおかしくな状況だったのですが、事実はその反対でした。

やや不遜な言い方になりますが、私は自分の考えに自信をもっていて、考えれば、考えは次々出てくると思っていたようです。これは考えることの内容にもよるとも言えます。新製品の内部の構造などを、あれこれ考えるので、考えれば次々案が出てくると思っていたのです。

しかし、残念ながら案は次々出てくるが内容は同じようなもので、進歩がありません。毎晩、同じことを同じように考えて、画期的なものは出てこないという状態だったのです。これに対抗して、「途中からは考えない。ものごとの最初から手を抜かずに一つ一つを真面目に考えて行くようにする」のですが、画期的なものは滅多に出てこないのです。

近頃、テレビドラマで新製品開発の話がよく出てくるように思います。以前に自分がしていたことに似た状況が現れますので、それに関連してあれこれ考えます。それに引っ張られて、自分がしていたことも思い出すのですが、今や、すべて遠い昔のことです。

私が発明をしていたのは35歳くらいの時です。もう50年くらいも前のことになります。その後、商品開発のために身につけた「特許に関する知識」を使って仕事をしていた時もありますので、新製品開発には今も興味があります。

興味はありますが、自分自身が商品開発から離れたのは何十年も前のことです。どのような離れ方をしたか。これは重要なことです。個人の興味ということからすると、新しい「もの」や「事」を考えるのはたいへん面白い仕事です。普通は自分から離れていくのは難しいことです

そこで、私が採った方法は、自分一人の判断では事業を進めないことです。誰か自分が費用負担してこの開発を進めるという人がいない限り前に進めないことでした。これは 正しい方法であったと考えてよいようです。結果がよかったと言えると思うからです。

しかし、まだ現在進行中です。こうであったと言うのは控えたほうがよいようです。いろいろ経験を積んできましたが、まだ未熟な存在であると言うべきだと考えています。したがって、自分一人の判断では前に進めないという考え方が正しいのかどうか、分からないと思っています。

ただ、言えることは、このようにしてきたから大きい失敗はしなかったようです。その代わり、大きい成功も少ないです。自分が費用負担をして、全責任を負ってこの開発を進めるという強力な人が居られた時にだけ、前に進み、それなりの成果が残っているというのが実情です。

商品開発は好きだったが、そして、熱心に取り組んだ時もあったが、発明にこだわらず「発明以外のこと」も考える生活をしてきて、それはそれでよかったと言うのが現在の心境です。

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2018年12月26日 (水)

戦時少年の考え方

~ おさむの鳥の目 225

「神武、綏靖、安寧、懿徳、考昭、考安、考霊、考元、開化、崇神・・・」は歴代天皇の名前で、われわれが小学生の時代は、神武天皇以降の天皇の名前を暗唱している人が大勢いました。そして、それぞれの天皇陵では、参拝者が求めれば御朱印帳に印を押してもらえる仕組になっていました。

私も御朱印帳を買ってもらって、1冊持っていましたが、その御朱印帳には不完全なところが1箇所ありました。その御朱印帳は、各ページの上半分にそれぞれの御陵の写真が印刷されていて、下半分が白紙になっており、そこに印を押すようになっています。

ところが、ひとつのページには御陵の写真が印刷されておらず白紙のままになっていました。これは大変奇異に感じられ、なぜそのような形になっているのか気になります。

実はそのページは「第98代長慶天皇」の御陵で、何故写真がないかと言いますと、簡単明瞭、御陵がなかったからです。皇室崇拝が盛んであった当時のことです。御陵のない天皇が存在するとは、少年の頭で理解できないことでした。

そこで、真面目な軍国少年であった私が考えたことは、天皇陵がないままというのはおかしい。何らかの縁をたどって御陵の場所を特定し、その場所に御陵を建てればよいと考えました。これは、真実を追究しないで安直に形だけを作ってしまう遣り方です。

純粋に真面目なはずの少年が、簡単にこのような考え方をしたことについて、「いい加減な考え方」をしたものだと、当時は大いに気になっていました。

ところが、事実は私が考えた通りになりました。自宅近くの「京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町」に御陵ができたのです。JR嵯峨嵐山駅の南300メートルの所にある京福電鉄「嵐電嵯峨駅」のすぐ近くです。自宅から歩いて行ける場所です。

戦後何十年経って、変わらず今も御陵はあります。先日、近くまで行く機会がありましたので、久しぶりに御陵に行ってみました。御陵の佇まいはかわらず、事務所建物もありましたが、人は居られません。したがって、当然のことながら、御朱印を押してもらえる形にはなっておりません。

先に、「真実を追求しないで」という言葉を使いましたが、これは、私の考えの中での話であって、国はいろいろと調べた結果、このような結論に達したようで、調査のための組織も作られた経緯が読み取れます。

内容は細かい話で、二つの有力な考えがあったが、それではなく、上記に決まった。私の頭に残っているのは、長慶天皇に関係深いお寺がその場所にあったからというものです。

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2018年11月25日 (日)

京都市内から京都市内への学童疎開

~ おさむの鳥の目 224

平成も今年で終わることが決まっています。昭和はますます昔になりますから、今の内に昭和の時代の出来事を書き残したいと思います。

太平洋戦争当時には、いろいろと珍しい出来事がありました。学童疎開もその一つだと思っています。私は疎開には行かなかったのですが、1年年下の妹が学童疎開に行きました。学童疎開は、次世代を担う子供たちを空襲の心配のない、過疎地に移住させて将来に備えるという政策です。

これが理屈に合っているのがどうか、分かりませんが、単純に言えば、間違った考えとは言えないでしょう。そして、具体的には、都会の小学校から集団で田舎に移住したのです。

ここで珍しいのは、標記した私の妹の学童疎開です。私たちの小学校の所在地は、京都市右京区です。そして、疎開先は京都市左京区鞍馬貴船町でした。貴船は京都の観光地として知られた所ですが、戦争中のことですから、観光は関係ありません。

そして、貴船町は鞍馬山の麓の山間の場所ですから、空襲の心配はなかったでしょう。と言っても、京都市から京都市への疎開とは誠に考え難いところです。だが、実際にこういう形が出現し、一定期間継続したのです。

私はと言いますと、この形は一つの勉強になりました。1年しか違わないと言いながら、父兄ですから、疎開先に面会に行きました。同級生の弟さんが同じ形で疎開していましたので、二人一緒に何回も行きました。

学校との付き合いは、中学生とは言いながら、父兄であるのでそういう立場で学校からの頼まれごとを処理することもありました。中にはその立場の違いを認識しない先生がいるようなケースもあり、ものごとを正確に考える機会にもなりました。

8月15日の終戦で事態は変化したはずなのに、実際には終戦後も、しばらく同じ形が続きました。したがって、疎開先への面会も同じように続け、「京都へも進駐軍が入ってきて、街で米兵を見かけるようになった」などとも話したことを覚えています。

何十年も経って、このようなことを正確に覚えているのも、学童疎開が終戦後も続いていたという特殊事情の結果です。全国的な規模で考えると、戦災に遭った地域からの疎開者の扱いは大変だっただろうと考えると、嵯峨野小学校(当時は国民学校)から疎開していた人達が、直ぐに帰還しなかったのも頷けます。当時は、何故すぐに帰って来ないのかと疑問に思っていました。

妹の学童疎開という現実を実際に経験したのは、終戦(正しくは敗戦)当時の実際を理解するのに、私には大いに役立ったと考えています。

「疎開」という言葉も、テレビドラマの中に、「大阪に住でいた人が兵庫県の田舎に疎開した」という話が出てくるなど、珍しいことではなく、「集団疎開」、「学童疎開」という言葉も一般に使われていますので、それほど気にしなくてよいのですが、本来はたいへん珍しい言葉です。

「疎開」は軍隊用語で、「兵員をまばらに配置することにより、敵からの攻撃による被害を少なくする」というものだそうです。戦場での用語が一般社会の中に取り入れられた特異な状態です。今から考えると、当時は、国全体が特異な状態だったことを物語っていると思います。

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2018年10月24日 (水)

「右京区嵯峨野」という所

~ おさむの鳥の目 223

何故このような表題の文章を書く気になったのか。まず、そのところから申し上げる必要があると思います。「どちらにお住みですか」、「京都の嵯峨野です」、これに対して「よいところにお住みですね」という返事が返ってきて、それで話が終われば、何の問題もないのですが、実はそうはいかないのです。

この時の「よい所」という言葉の内容に違いがあるのです。そう言った人は、多分、雑誌の「嵯峨野特集」などに出てくる場所を頭に置いておられると思うのですが、上記「右京区嵯峨野」はそういう場所ではないのです。

京都市の西の地域の地名を挙げますと、東から「右京区太秦」、「右京区嵯峨野」、「右京区嵯峨」と並びます。そして、主題の「右京区嵯峨野」は「右京区嵯峨」と並んでいるのであって、「嵯峨」には含まれていません。観光地として有名な「嵐山」は「右京区嵯峨」の一部であり、皆さんが「よいところ」と考えられる風光明媚な場所はそちらなのです。

ということは、端的に言えば、「右京区嵯峨野」は「よいところ」ではないのです。そこで、この事実を指摘しないで、冒頭の会話を終わっては、私としては意図的に他人に嘘を言っていることになり、良心の呵責に耐えられない。これがこのような文章を書く理由です。

そこで、「右京区嵯峨野」はどういう所かと言いますと、「右京区嵯峨野○○町」と標記する地域というのが正しい説明です。京都市右京区の中にこのように標記される町が数個あるのです。そしてこれらの町は南北に長く、くっついて存在します。多分、その地域には特定の情報が多いと考えられている事情があるのだと推定できます。

何に関する情報かと言いますと、それは平安時代から続く嵯峨という地域の人の動きに関する情報です。嵐山を含む右京区嵯峨は、政治の面で重要な所であったからです。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住されて以後、天皇や大宮人たちの好む行楽の地となった。それが後に大覚寺を新たな御所とする(「嵯峨御所」)など政治の面で意味を持つようになったのです。

「右京区嵯峨野○○町」の中の一つに「嵯峨野高田町」というのがあります。この「高田」という名前は、昔、嵐山の川の堤防を作る作業をした時の首領の名前で、後にそれが地名に変わったというのです。この高田町は、以前は高田村であった時もあり、纏まりがよく、有力な地域でした。その存在が後の世にも影響していて、それが後に「嵯峨野○○町」という少し纏まりのある名前が付くようになった理由ではないかと推定できます。

何百年にも及ぶ昔のことを、実際には80年余りしか見ていない私が自分の考えで推定するというのは乱暴な話ですが、村という形が続いてきた姿を見聞してきた者として、少々の乱暴を許していただきたいような気がしています。

ところで、このように高田村などをよく見てきたように書いていますが、私は土着の者でなく、昭和の始めに京都の街の中から移住して来た者の子供ですから偉そうなことは言えません。しかし、大覚寺や天竜寺という有力寺院を眺めながら育った者として、少し背伸びして昔の様子を振り返って語ることをお許しいただきたいと願っています。

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2018年9月25日 (火)

戦時中の教育と戦後の学校

~ おさむの鳥の目 222

先日、テレビから、「われわれは中学校の時、1学期と全然違うことを、2学期には学校から言われた」という言葉が聞こえてきました。誰かの意見なのか、ドラマのセリフなのか分かりません。終戦の時のことだなと思いました。私も全くその通りだったからです。

中学1年生の時に終戦を迎えた人は全員そうだったのです。小学校では完全に戦時教育で、私も中学校に入れば、陸軍幼年学校に行こうと決めており、中学校では「幼年学校受験クラス」に所属していました。夏休みも普段と変わらず、そのクラスに登校していました。

幼年学校を受験できるのは、中学1年生と2年生でしたから、そのクラスでは選抜された二つの学年の者が一緒に勉強していました。学校の一部が軍需工場になり、3年生以上は、動員されて、その工場で働き、2年生以下は、農業動員と称して農家の手伝いに行きました。

幼年学校受験組は農業動員にも行かず、教室で勉強していたのですが、ある時、空襲警報が発令され、先生の指示で、全員が防空壕に入ったのですが、この時、一つの事件がありました。学校の校旗を防空壕の一番奥に置くか、入り口近くに置くかという議論です。生徒たちの総意は、人が奥で旗は入り口近くという考えで、実際にもそうしました。

この判断に対し、後刻、校長先生から注意がありました。「校旗を奥に」でなければならないと言うのです。私は、訓練でなく本当の空襲警報だから、「人が奥」という生徒の判断の方が正しいと考え、戦時下の小学校教育を受けているにも関らず、子供の判断は歪んでいないと安心したことを思い出します。

これは8月夏休みに入った頃のことですが、その直後に8月15日の終戦の日がやってきます。この時はすでに幼年学校の受験番号も届いていて、8月23日に身体検査という日程も決まっていました。が、すべて何もかも無くなっていまいました。

そして、夏休みは終わり、普通に学校に行くのですが、冒頭に書きましたように、「1学期と全然違うことを、2学期には学校から言われた」のです。

呆然としたという言葉は全くその通りで、クラスの者と一緒に道を歩いている時、ふと「自分は今、何をしているのかと」思い、「待てよ」と考えてから、現在の状況を把握し直したことがあるのを鮮明に思い出します。

その後の学校の状態を書きますと次のようです。時の流れと共に、2学期、3学期は終わり。何事も無かったように2年生になり、3年生も終わって、旧制中学は全部の学校が新制高校に変わり、京都では半年後に、高校再編成というのがあって、旧制中学は多くが男女共学の新制高校になりました。

私は、通っていた旧制中学が新制高校にならなかったので、学区制で、住所によって決められた新制高校に編入されました。小学校6年、中学3年、高校3年(6、3、3制)の大きい変革に遭遇したのでした。

そして、戦時中の教育との関係という点からすると、ちょっとした出来事が一つありました。それは、「きけわだつみのこえ」という映画が作られたことです。

「きけわだつみのこえ」は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集で、類似した名前の映画が何本か製作されているそうです。街で上映されていたそれらの映画の中の一つを、学校から生徒がまとまって見に行くという行事がありました。

話の内容からして、国の戦時中の教育に関し、何かの考え方を示唆する部分があったようです。その映画鑑賞から帰った後、われわれのクラスでは教室で担任の先生から話がありました。話の詳細は記憶していませんが、戦前の教育に関係する、何らかの重要な意味を含むものでした。

終戦後、日が経っていましたが、学校や公的機関からは、戦時中と戦後の考え方の変化について、特に説明はなかったと記憶しています。この時の映画鑑賞後の担任の先生の話は、そういう意味でたいへん珍しいものでした。「指導者として謝るべきところがある」という意味を含んでいると思いました。敢えて、自分からそういう場を作って、そのような話をされたことに対し、その先生は勇気があると思いました。

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2018年8月25日 (土)

京都五山の送り火

~ おさむの鳥の目 221

今年の8月16日は、送り火の準備に支障があるかもとも思われる天気予報でしたから、家でテレビで見ることにしました。例年はと言うと、始めはテレビで見、終わり頃に外に出て家の近くから、直接見ることの出来る「鳥居形」を見るというのが例になっていました。

テレビ放送の内容は、冒頭にドローンも使うなど内容豊富な前評判でしたが、映像上での見所とは別に話の筋はオーソドックスで、たいへん勉強になりました。

順番は当然のことながら、東山如意ヶ嶽の「大」が最初で、これは内容豊富、仮に時間の関係で一部を見るとすると、この「大」の部分を説明してもらえば、「大文字」についてのおおよそが分かるというものです。

次は位置的に半時計回りで2番目に当たる「妙法」です。「妙」は松ヶ崎西山にあり、「法」はその右の松ヶ崎東山にあります。この文字の位置について、日本語は古来、横書きは右から左へ書くのですが、この「妙法}はその反対になっています。これについて、「妙」が先に出来ていて、後に「法」を造る時に、左側に山がなかったためのこうなったなど、いろいろ説があるのだそうですが、結果は現代風になっています。

そして次が「舟形」。所在地は京都市北区西賀茂船山で、舟の絵です。この舟は西を向いているのだそうです。若い時、この絵の麓でゴルフをした記憶があり、懐かしい場所です。

「舟形」の次が「左大文字」。字形は「右大文字」に酷似していますが規模は小さく、点火手法その他すべての面で、「大文字」とは異なると言われています。

ここまで四つの送り火を挙げましたが、これらは京都市の市街地の北の地域に横に並ぶ形になっていて、一望することが出来ます。ところが、これらから大きく西に離れたところに最後のひとつ、「鳥居形」があります。

「鳥居形」は、京都盆地の西の地域、嵐山の北の方にあります。ただ一つ、自宅近くから直接見ることが出来る位置にあり、私にとっては特別に近しく感じられます。私が子供の時には、家の二階の窓から見えていました。その後、手前に新しく家が建ち、窓からは見えなくなっていますが、家の近くの小高い所、例えばJR山陰線の横断歩道のところまで3分ほど歩けば、今も直接見ることが出来ます。

このように、「鳥居形」は身近な存在であり、運営の実際も聞き知っていますが、他の大文字と比べて最も違っている点を一つ挙げますと、松明に火をつけてから、所定の位置へ人が運ぶ点です。普通は決められた場所に薪を設置し、それに火を点けるのですが、「鳥居形」は火の点いた松明を人が背負って走り、決められた場所に置いていくのです。

前に一度、渡月端の上から、点火の様子を見たことがありますが、暗くなってからのことですから、人は見えず、松明が自分で動いて、鳥居の形に並ぶように見えます。そのような点火のしかたはほかの大文字には見られないので、大変珍しいと思いました。

ここまで、五山の送り火について書きましたが、これらは以前からよく知られている部分についてのことです。京都での有名な伝統行事ですから、「送り火」については、その全体が世間でよく知られていると思われやすいのですが、実際はそうではありません。現在では、上記五山として確定していますが、明治以前はもう少し流動的であったようです。

明治時代の前には、上記五山の他に、「い」、「一」、「竹の先に鈴(竿に鈴)」、「蛇」、「長刀」の合わせて十山で行われていたと言われています。そして、その詳細は明確でなく、今でもテレビ番組で、上記「い」が点されていた場所を探すという取り組みが放映されていたりもします。

以上、五山の送り火について、確定的な行事としてよく知られている部分と、それ以前の時代に実際に行われていたと言われているが、その詳細が残されていない部分について、私が見聞きした話を出来るだけたくさん書かせていただきました。

(参考 京都五山送り火 https://www.kyokanko.or.jp/okuribi/ )

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2018年7月25日 (水)

ネアンデルタール人の遺伝子

~ おさむの鳥の目 220

「人類の起源でいつも気になるのは、ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人など旧人類の運命です。心情的には現生人類ホモサピエンスと混血したと信じたいのです。しかしこれまでの解説は混血否定論ばかりでした。可哀想です。」

以上は学生時代の友人が以前に書いた文章です。彼は、「人類の誕生」などの問題の研究に詳しく、客観的な知識も豊富な人なのですが、人情家でもありますので、特別の思い入れがあったのだと思います。

私も、ネイティブアメリカンに伝わる口承を書籍にした「一万年の旅路」という本を読むなど、古い時代の人類について、情報を集めていましたので、彼の考えには強い関心を持っていました。そして、「一万年の旅路」の中に出てくる昔話、人類がアフリカを出てユーラシア大陸を東へ進む話の中に出てくる旧人類との混血の可能性を示す話を紹介したこともありました。

しかし、それらは十分に説得力のあるものではなく、実際にはどうなのか判断することの出来るものではありませんでした。

ところが、今年の5月に放映されたNHKスペシャル「人類誕生」2、「ネアンデルタール人謎の絶滅人類」の中に、「5万5000年前にヨーロッパに住んでいた、ネアンデルタール人とアフリカに住んでいた現生人(ホモ・サピエンス)が中東のエルサレム付近で出会った。共存期間は1万年余りとみられる。」という文章を見つけました。

これは興味深い情報だと思って見ていきますと、われわれの疑問を明らかにする貴重なものでした。古い時代の人類についての研究は、思いのほか進んでいて、現代人が持っているネアンデルタール人由来の遺伝子は、2.3パーセントから2.4パーセントといわれています。確かに伝わっていたのです。

そして、この値はアフリカを除く全人類に関するもので、人類がアフリカを出て、早い段階でネアンタール人と接触し、その後に全世界に進出した事実と合致します。最古の人類がアフリカを北上し、アフリカを出てから全世界に拡がったとが知られていますが、アフリカ大陸に住み続けている人は、当然のことながら、ネアンデルタール人由来の遺伝子を持っていないのです。

現代人とネアンデルタール人との接触は、番組では、ネアンデルタール人の少女が山の中で仲間とはぐれて1人になっているのを現代人のグループが見つけて保護し、仲間に入れたのが始まりと想定していて、全く偶然のこととされています。

そしてその後、その少女が成人し、子供を産んだと考えているのですが、自然なことと思われます。そういう機会はごくごく稀なことでしょうが、あっても不思議ではありません。

このように、ネアンデルタール人と現代人は同じ時期に、ごく近い地域に生存していたのですが、一方は絶滅し、他方は存続して、今日の大繁栄を謳歌しているのです。両者を分ける要因は何であったのか。

語られているのは、両者のグループの大きさです。ホモサピエンスは宗教も含めて、繋がりのある人々の集団が大きいのに対し、ネアンデルタール人の場合は、多くても数十人と小さく、新しい知識や工夫が伝わり難かった。

これが進歩発展の速度を遅くする要因となって、ホモサピエンスに及ばなかったというのです。研究の結果、ネアンデルタール人の最後の居住跡というものが残っているのですが、大きいものではありません。

「絶滅最後の一人というのは誠に寂しいものだっただろう」という言葉もあるのですが、私が考えるには、「私がわれわれ同胞の最後の一人」という認識はなかっただろうから、そうは思わなかっただろうと考えています。

それにしても、「アンデルタール人由来の遺伝子は、2.3パーセントから2.4パーセントと率は低いが、われわれ現世人類に間違いなく伝わっている」と言えることがわかりました。上記友人は、もう亡くなっていて、これを伝えることは出来ないのですが、とりあえずここまで分かりましたということは出来ると思っています。

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2018年6月29日 (金)

自宅近くの竪穴住居跡

~ おさむの鳥の目219

先日、自宅近くで京都市埋蔵文化財研究所の人の「発掘調査から見える広隆寺のすがた」という話を聞く機会がありました。「発掘調査」という言葉は聞いて知ってはいましたが、具体的な話を聞くのは初めてでした。

京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺は、聖徳太子ゆかりの、京都でも古いお寺で、知名度は抜群と私は考えています。聖徳太子が百済から入手された仏像を、誰か祀る者はいないかと言われたのに対し、秦河勝が私が祀りましょうと言って、広隆寺を建て、本尊にしたと伝えられています。

この仏像が、国宝第一号と言われている、有名な弥勒菩薩半跏思惟像です。日本で有名な人はというと、聖徳太子は真っ先に挙げられることと思います。その聖徳太子と関係深いということから、秦河勝や広隆寺は有名なのだと思っています。

私にとっては、入学した小学校が広隆寺の近くの太秦小学校でしたから、太秦や広隆寺は身近な存在です。その広隆寺を発掘調査という観点から専門的に調べたという話ですから、上記「発掘調査から見える広隆寺のすがた」の話は真剣に聞きました。

昔の広隆寺は、現在の敷地よりはかなり広かったようで、現在は、広隆寺の敷地の外にある東映太秦映画村も当時は広隆寺の敷地内であったそうです。

そして、発掘調査の結果、意外なことに竪穴住居跡が発見されたのです。しかし、意外と思ったのは、私の知識不足のためです。竪穴式住居は、「竪穴」という言葉に影響されたためか、随分古い時代に使われていたと思ってしまうのですが、実はかなり長い間、使用されていたのだそうです。

土地を掘り下げて、居住スペースを作り、その上に屋根や壁を作ると、使用する建築材料が節約出来、合理的なのだそうです。このため、思いのほか長い期間、この形式の住居は造られていたということです。

ですから、飛鳥時代に竪穴住居があったのかと意外に思ったのは認識不足で、秦氏によって広隆寺が建てられた時代には竪穴住居は普通の存在だったのです。「嵯峨野地域の弥生時代から飛鳥時代の集落跡一覧表」には「○○町遺跡」という、現在でも場所が特定できる遺跡が11か所収録されています。

そして、そのそれぞれに、竪穴住居跡○○棟検出と詳細に記録されています。このエッセイの標題を「自宅近くの竪穴住居跡」としましたから、最も近い所を挙げますと「上ノ段町遺跡」です。ここには、太平洋戦争後に建てられた蜂ケ岡中学があるのですが、その増築工事に伴い「飛鳥時代の竪穴住居10棟、堀立柱建物5棟が検出」という記載があります。

その上、住居跡というと、その場所にずっと住み続けていた人の住まいと考えられやすいのですが、これも間違いです。広隆寺建設の工事が終わりに近づくと、このような住居は造られなくなったという事実があり、ここに住んでいた人は工事に携わった人で、その後、他へ移動したようです。

ところで、広隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれてきたのですが、私の家の近くに蜂ケ岡中学という学校があります。お寺とは関係ないのですが、その学校の工事中に飛鳥時代の竪穴住居が検出されたという記録もあるということです。

蜂ケ岡中学は、自宅から北東400メートルの場所にあり、以前は竹薮であったところを切り開いて学校が建てられました。その工事の様子は家の窓から見えましたので、とても身近に感じられます。

工事が行われていた当時は、竪穴住居跡についての知識がありませんでしたが、今、振り返って考えますと、自分は京都嵯峨野の、飛鳥時代から続く土地に生まれ、今も住み続けているという、謂わば特殊な存在なのだと考えなくもありません。ただし、親は私が生まれる前に京都の街中から移住してきたので、土着の人間ではありませんが。

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2018年5月24日 (木)

弓月国(ゆずきのくに)という地域

~ おさむの鳥の目218

先日、京都市埋蔵文化財研究所の人の「埋蔵文化財から見える廣隆寺の姿」という講演を聴く機会がありました。造営当初の廣隆寺境内は今よりはるかに広大で、このあたりを発掘調査すると、古墳時代後期から飛鳥時代前期の竪穴住居が多く見つかるということでした。

廣隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれており、私の家の北東400メートルのところに「蜂岡中学」という学校がありますので、親近感を持ってしまいます。「竪穴住居があったのか」と思うと同時に、発掘現場跡が現在の生活道路ですから、昔と今を重ねて認識することが出来、昔の時代を詳細に知ることができる発掘調査とは面白いものだと改めて思いました。

そして、現在の姿で言って、廣隆寺の200メートル東にある大酒神社、これについては前にも触れましたが、その祭神の一人に、「秦始皇帝」に並んで「弓月君(ゆんずのきみ)」の名が出てきます。日本書紀には、秦氏渡来について弓月君が百済より127県の人々を率いてやってきたと記載があるそうです。

グーグルで検索すると、「弓月君」という名前は、シルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えた「弓月国」と関連しているのではないだろうかという記載があり、「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったとあります。

さらに、「この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹の貿易を独占していたのである。秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。」とも書かれています。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)については、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。伝説上の人物であり、実在は不明であるとあり、明確に歴史に名を残している人物ではありません。

このように、弓月君は明確な歴史上の人物とは言い切れないのですが、伝えられるように、中国の西外側にあった弓月国という地域に住んでいた人々を束ねて、朝鮮半島経由で日本に来た渡来人の首領であったと考えられます。

その後、秦氏は日本の社会に大きい貢献をしたことは広く知られたところです。その力の源泉は、治水工事などの突出した技術力や生活用品の生産技術など秦氏が備えている知的能力です。そして、これらの知的財産は、西方の先進民族から伝わったものと考えられます。

ところで、弓月国の地域では、この地域は「月」の地であり、西のローマは「星」の地、東の地(日本)は「太陽」の地だと考えられていたと言います。ほかの話ですが、天啓を受けて東の地(日本)へ行こうという考えを持った人がいたという話を聞いたことがあります。

この二つの話を結びつけたのは私であり、何の根拠もありません。しかし、上記秦氏の「弓月国から来た」という話は事実であるようであり、これとは別に、中国には「開封」という都市があって、昔からユダヤ人が住み続けているという実例があります。(「開封のユダヤ人」で検索できます。)

また、ユダヤの失われた十部族が住むと言われている地域が、シルクロードに沿っていくつもあるという事実も知られていますので、上記弓月君のように「西方から東の国(日本)へやって来た」例は、ほかにもあるという考えは、簡単には否定できないと思っています。

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