カラフルエッセイ  おさむの鳥の目

2018年10月24日 (水)

「右京区嵯峨野」という所

~ おさむの鳥の目 223

何故このような表題の文章を書く気になったのか。まず、そのところから申し上げる必要があると思います。「どちらにお住みですか」、「京都の嵯峨野です」、これに対して「よいところにお住みですね」という返事が返ってきて、それで話が終われば、何の問題もないのですが、実はそうはいかないのです。

この時の「よい所」という言葉の内容に違いがあるのです。そう言った人は、多分、雑誌の「嵯峨野特集」などに出てくる場所を頭に置いておられると思うのですが、上記「右京区嵯峨野」はそういう場所ではないのです。

京都市の西の地域の地名を挙げますと、東から「右京区太秦」、「右京区嵯峨野」、「右京区嵯峨」と並びます。そして、主題の「右京区嵯峨野」は「右京区嵯峨」と並んでいるのであって、「嵯峨」には含まれていません。観光地として有名な「嵐山」は「右京区嵯峨」の一部であり、皆さんが「よいところ」と考えられる風光明媚な場所はそちらなのです。

ということは、端的に言えば、「右京区嵯峨野」は「よいところ」ではないのです。そこで、この事実を指摘しないで、冒頭の会話を終わっては、私としては意図的に他人に嘘を言っていることになり、良心の呵責に耐えられない。これがこのような文章を書く理由です。

そこで、「右京区嵯峨野」はどういう所かと言いますと、「右京区嵯峨野○○町」と標記する地域というのが正しい説明です。京都市右京区の中にこのように標記される町が数個あるのです。そしてこれらの町は南北に長く、くっついて存在します。多分、その地域には特定の情報が多いと考えられている事情があるのだと推定できます。

何に関する情報かと言いますと、それは平安時代から続く嵯峨という地域の人の動きに関する情報です。嵐山を含む右京区嵯峨は、政治の面で重要な所であったからです。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住されて以後、天皇や大宮人たちの好む行楽の地となった。それが後に大覚寺を新たな御所とする(「嵯峨御所」)など政治の面で意味を持つようになったのです。

「右京区嵯峨野○○町」の中の一つに「嵯峨野高田町」というのがあります。この「高田」という名前は、昔、嵐山の川の堤防を作る作業をした時の首領の名前で、後にそれが地名に変わったというのです。この高田町は、以前は高田村であった時もあり、纏まりがよく、有力な地域でした。その存在が後の世にも影響していて、それが後に「嵯峨野○○町」という少し纏まりのある名前が付くようになった理由ではないかと推定できます。

何百年にも及ぶ昔のことを、実際には80年余りしか見ていない私が自分の考えで推定するというのは乱暴な話ですが、村という形が続いてきた姿を見聞してきた者として、少々の乱暴を許していただきたいような気がしています。

ところで、このように高田村などをよく見てきたように書いていますが、私は土着の者でなく、昭和の始めに京都の街の中から移住して来た者の子供ですから偉そうなことは言えません。しかし、大覚寺や天竜寺という有力寺院を眺めながら育った者として、少し背伸びして昔の様子を振り返って語ることをお許しいただきたいと願っています。

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2018年9月25日 (火)

戦時中の教育と戦後の学校

~ おさむの鳥の目 222

先日、テレビから、「われわれは中学校の時、1学期と全然違うことを、2学期には学校から言われた」という言葉が聞こえてきました。誰かの意見なのか、ドラマのセリフなのか分かりません。終戦の時のことだなと思いました。私も全くその通りだったからです。

中学1年生の時に終戦を迎えた人は全員そうだったのです。小学校では完全に戦時教育で、私も中学校に入れば、陸軍幼年学校に行こうと決めており、中学校では「幼年学校受験クラス」に所属していました。夏休みも普段と変わらず、そのクラスに登校していました。

幼年学校を受験できるのは、中学1年生と2年生でしたから、そのクラスでは選抜された二つの学年の者が一緒に勉強していました。学校の一部が軍需工場になり、3年生以上は、動員されて、その工場で働き、2年生以下は、農業動員と称して農家の手伝いに行きました。

幼年学校受験組は農業動員にも行かず、教室で勉強していたのですが、ある時、空襲警報が発令され、先生の指示で、全員が防空壕に入ったのですが、この時、一つの事件がありました。学校の校旗を防空壕の一番奥に置くか、入り口近くに置くかという議論です。生徒たちの総意は、人が奥で旗は入り口近くという考えで、実際にもそうしました。

この判断に対し、後刻、校長先生から注意がありました。「校旗を奥に」でなければならないと言うのです。私は、訓練でなく本当の空襲警報だから、「人が奥」という生徒の判断の方が正しいと考え、戦時下の小学校教育を受けているにも関らず、子供の判断は歪んでいないと安心したことを思い出します。

これは8月夏休みに入った頃のことですが、その直後に8月15日の終戦の日がやってきます。この時はすでに幼年学校の受験番号も届いていて、8月23日に身体検査という日程も決まっていました。が、すべて何もかも無くなっていまいました。

そして、夏休みは終わり、普通に学校に行くのですが、冒頭に書きましたように、「1学期と全然違うことを、2学期には学校から言われた」のです。

呆然としたという言葉は全くその通りで、クラスの者と一緒に道を歩いている時、ふと「自分は今、何をしているのかと」思い、「待てよ」と考えてから、現在の状況を把握し直したことがあるのを鮮明に思い出します。

その後の学校の状態を書きますと次のようです。時の流れと共に、2学期、3学期は終わり。何事も無かったように2年生になり、3年生も終わって、旧制中学は全部の学校が新制高校に変わり、京都では半年後に、高校再編成というのがあって、旧制中学は多くが男女共学の新制高校になりました。

私は、通っていた旧制中学が新制高校にならなかったので、学区制で、住所によって決められた新制高校に編入されました。小学校6年、中学3年、高校3年(6、3、3制)の大きい変革に遭遇したのでした。

そして、戦時中の教育との関係という点からすると、ちょっとした出来事が一つありました。それは、「きけわだつみのこえ」という映画が作られたことです。

「きけわだつみのこえ」は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集で、類似した名前の映画が何本か製作されているそうです。街で上映されていたそれらの映画の中の一つを、学校から生徒がまとまって見に行くという行事がありました。

話の内容からして、国の戦時中の教育に関し、何かの考え方を示唆する部分があったようです。その映画鑑賞から帰った後、われわれのクラスでは教室で担任の先生から話がありました。話の詳細は記憶していませんが、戦前の教育に関係する、何らかの重要な意味を含むものでした。

終戦後、日が経っていましたが、学校や公的機関からは、戦時中と戦後の考え方の変化について、特に説明はなかったと記憶しています。この時の映画鑑賞後の担任の先生の話は、そういう意味でたいへん珍しいものでした。「指導者として謝るべきところがある」という意味を含んでいると思いました。敢えて、自分からそういう場を作って、そのような話をされたことに対し、その先生は勇気があると思いました。

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2018年8月25日 (土)

京都五山の送り火

~ おさむの鳥の目 221

今年の8月16日は、送り火の準備に支障があるかもとも思われる天気予報でしたから、家でテレビで見ることにしました。例年はと言うと、始めはテレビで見、終わり頃に外に出て家の近くから、直接見ることの出来る「鳥居形」を見るというのが例になっていました。

テレビ放送の内容は、冒頭にドローンも使うなど内容豊富な前評判でしたが、映像上での見所とは別に話の筋はオーソドックスで、たいへん勉強になりました。

順番は当然のことながら、東山如意ヶ嶽の「大」が最初で、これは内容豊富、仮に時間の関係で一部を見るとすると、この「大」の部分を説明してもらえば、「大文字」についてのおおよそが分かるというものです。

次は位置的に半時計回りで2番目に当たる「妙法」です。「妙」は松ヶ崎西山にあり、「法」はその右の松ヶ崎東山にあります。この文字の位置について、日本語は古来、横書きは右から左へ書くのですが、この「妙法}はその反対になっています。これについて、「妙」が先に出来ていて、後に「法」を造る時に、左側に山がなかったためのこうなったなど、いろいろ説があるのだそうですが、結果は現代風になっています。

そして次が「舟形」。所在地は京都市北区西賀茂船山で、舟の絵です。この舟は西を向いているのだそうです。若い時、この絵の麓でゴルフをした記憶があり、懐かしい場所です。

「舟形」の次が「左大文字」。字形は「右大文字」に酷似していますが規模は小さく、点火手法その他すべての面で、「大文字」とは異なると言われています。

ここまで四つの送り火を挙げましたが、これらは京都市の市街地の北の地域に横に並ぶ形になっていて、一望することが出来ます。ところが、これらから大きく西に離れたところに最後のひとつ、「鳥居形」があります。

「鳥居形」は、京都盆地の西の地域、嵐山の北の方にあります。ただ一つ、自宅近くから直接見ることが出来る位置にあり、私にとっては特別に近しく感じられます。私が子供の時には、家の二階の窓から見えていました。その後、手前に新しく家が建ち、窓からは見えなくなっていますが、家の近くの小高い所、例えばJR山陰線の横断歩道のところまで3分ほど歩けば、今も直接見ることが出来ます。

このように、「鳥居形」は身近な存在であり、運営の実際も聞き知っていますが、他の大文字と比べて最も違っている点を一つ挙げますと、松明に火をつけてから、所定の位置へ人が運ぶ点です。普通は決められた場所に薪を設置し、それに火を点けるのですが、「鳥居形」は火の点いた松明を人が背負って走り、決められた場所に置いていくのです。

前に一度、渡月端の上から、点火の様子を見たことがありますが、暗くなってからのことですから、人は見えず、松明が自分で動いて、鳥居の形に並ぶように見えます。そのような点火のしかたはほかの大文字には見られないので、大変珍しいと思いました。

ここまで、五山の送り火について書きましたが、これらは以前からよく知られている部分についてのことです。京都での有名な伝統行事ですから、「送り火」については、その全体が世間でよく知られていると思われやすいのですが、実際はそうではありません。現在では、上記五山として確定していますが、明治以前はもう少し流動的であったようです。

明治時代の前には、上記五山の他に、「い」、「一」、「竹の先に鈴(竿に鈴)」、「蛇」、「長刀」の合わせて十山で行われていたと言われています。そして、その詳細は明確でなく、今でもテレビ番組で、上記「い」が点されていた場所を探すという取り組みが放映されていたりもします。

以上、五山の送り火について、確定的な行事としてよく知られている部分と、それ以前の時代に実際に行われていたと言われているが、その詳細が残されていない部分について、私が見聞きした話を出来るだけたくさん書かせていただきました。

(参考 京都五山送り火 https://www.kyokanko.or.jp/okuribi/ )

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2018年7月25日 (水)

ネアンデルタール人の遺伝子

~ おさむの鳥の目 220

「人類の起源でいつも気になるのは、ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人など旧人類の運命です。心情的には現生人類ホモサピエンスと混血したと信じたいのです。しかしこれまでの解説は混血否定論ばかりでした。可哀想です。」

以上は学生時代の友人が以前に書いた文章です。彼は、「人類の誕生」などの問題の研究に詳しく、客観的な知識も豊富な人なのですが、人情家でもありますので、特別の思い入れがあったのだと思います。

私も、ネイティブアメリカンに伝わる口承を書籍にした「一万年の旅路」という本を読むなど、古い時代の人類について、情報を集めていましたので、彼の考えには強い関心を持っていました。そして、「一万年の旅路」の中に出てくる昔話、人類がアフリカを出てユーラシア大陸を東へ進む話の中に出てくる旧人類との混血の可能性を示す話を紹介したこともありました。

しかし、それらは十分に説得力のあるものではなく、実際にはどうなのか判断することの出来るものではありませんでした。

ところが、今年の5月に放映されたNHKスペシャル「人類誕生」2、「ネアンデルタール人謎の絶滅人類」の中に、「5万5000年前にヨーロッパに住んでいた、ネアンデルタール人とアフリカに住んでいた現生人(ホモ・サピエンス)が中東のエルサレム付近で出会った。共存期間は1万年余りとみられる。」という文章を見つけました。

これは興味深い情報だと思って見ていきますと、われわれの疑問を明らかにする貴重なものでした。古い時代の人類についての研究は、思いのほか進んでいて、現代人が持っているネアンデルタール人由来の遺伝子は、2.3パーセントから2.4パーセントといわれています。確かに伝わっていたのです。

そして、この値はアフリカを除く全人類に関するもので、人類がアフリカを出て、早い段階でネアンタール人と接触し、その後に全世界に進出した事実と合致します。最古の人類がアフリカを北上し、アフリカを出てから全世界に拡がったとが知られていますが、アフリカ大陸に住み続けている人は、当然のことながら、ネアンデルタール人由来の遺伝子を持っていないのです。

現代人とネアンデルタール人との接触は、番組では、ネアンデルタール人の少女が山の中で仲間とはぐれて1人になっているのを現代人のグループが見つけて保護し、仲間に入れたのが始まりと想定していて、全く偶然のこととされています。

そしてその後、その少女が成人し、子供を産んだと考えているのですが、自然なことと思われます。そういう機会はごくごく稀なことでしょうが、あっても不思議ではありません。

このように、ネアンデルタール人と現代人は同じ時期に、ごく近い地域に生存していたのですが、一方は絶滅し、他方は存続して、今日の大繁栄を謳歌しているのです。両者を分ける要因は何であったのか。

語られているのは、両者のグループの大きさです。ホモサピエンスは宗教も含めて、繋がりのある人々の集団が大きいのに対し、ネアンデルタール人の場合は、多くても数十人と小さく、新しい知識や工夫が伝わり難かった。

これが進歩発展の速度を遅くする要因となって、ホモサピエンスに及ばなかったというのです。研究の結果、ネアンデルタール人の最後の居住跡というものが残っているのですが、大きいものではありません。

「絶滅最後の一人というのは誠に寂しいものだっただろう」という言葉もあるのですが、私が考えるには、「私がわれわれ同胞の最後の一人」という認識はなかっただろうから、そうは思わなかっただろうと考えています。

それにしても、「アンデルタール人由来の遺伝子は、2.3パーセントから2.4パーセントと率は低いが、われわれ現世人類に間違いなく伝わっている」と言えることがわかりました。上記友人は、もう亡くなっていて、これを伝えることは出来ないのですが、とりあえずここまで分かりましたということは出来ると思っています。

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2018年6月29日 (金)

自宅近くの竪穴住居跡

~ おさむの鳥の目219

先日、自宅近くで京都市埋蔵文化財研究所の人の「発掘調査から見える広隆寺のすがた」という話を聞く機会がありました。「発掘調査」という言葉は聞いて知ってはいましたが、具体的な話を聞くのは初めてでした。

京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺は、聖徳太子ゆかりの、京都でも古いお寺で、知名度は抜群と私は考えています。聖徳太子が百済から入手された仏像を、誰か祀る者はいないかと言われたのに対し、秦河勝が私が祀りましょうと言って、広隆寺を建て、本尊にしたと伝えられています。

この仏像が、国宝第一号と言われている、有名な弥勒菩薩半跏思惟像です。日本で有名な人はというと、聖徳太子は真っ先に挙げられることと思います。その聖徳太子と関係深いということから、秦河勝や広隆寺は有名なのだと思っています。

私にとっては、入学した小学校が広隆寺の近くの太秦小学校でしたから、太秦や広隆寺は身近な存在です。その広隆寺を発掘調査という観点から専門的に調べたという話ですから、上記「発掘調査から見える広隆寺のすがた」の話は真剣に聞きました。

昔の広隆寺は、現在の敷地よりはかなり広かったようで、現在は、広隆寺の敷地の外にある東映太秦映画村も当時は広隆寺の敷地内であったそうです。

そして、発掘調査の結果、意外なことに竪穴住居跡が発見されたのです。しかし、意外と思ったのは、私の知識不足のためです。竪穴式住居は、「竪穴」という言葉に影響されたためか、随分古い時代に使われていたと思ってしまうのですが、実はかなり長い間、使用されていたのだそうです。

土地を掘り下げて、居住スペースを作り、その上に屋根や壁を作ると、使用する建築材料が節約出来、合理的なのだそうです。このため、思いのほか長い期間、この形式の住居は造られていたということです。

ですから、飛鳥時代に竪穴住居があったのかと意外に思ったのは認識不足で、秦氏によって広隆寺が建てられた時代には竪穴住居は普通の存在だったのです。「嵯峨野地域の弥生時代から飛鳥時代の集落跡一覧表」には「○○町遺跡」という、現在でも場所が特定できる遺跡が11か所収録されています。

そして、そのそれぞれに、竪穴住居跡○○棟検出と詳細に記録されています。このエッセイの標題を「自宅近くの竪穴住居跡」としましたから、最も近い所を挙げますと「上ノ段町遺跡」です。ここには、太平洋戦争後に建てられた蜂ケ岡中学があるのですが、その増築工事に伴い「飛鳥時代の竪穴住居10棟、堀立柱建物5棟が検出」という記載があります。

その上、住居跡というと、その場所にずっと住み続けていた人の住まいと考えられやすいのですが、これも間違いです。広隆寺建設の工事が終わりに近づくと、このような住居は造られなくなったという事実があり、ここに住んでいた人は工事に携わった人で、その後、他へ移動したようです。

ところで、広隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれてきたのですが、私の家の近くに蜂ケ岡中学という学校があります。お寺とは関係ないのですが、その学校の工事中に飛鳥時代の竪穴住居が検出されたという記録もあるということです。

蜂ケ岡中学は、自宅から北東400メートルの場所にあり、以前は竹薮であったところを切り開いて学校が建てられました。その工事の様子は家の窓から見えましたので、とても身近に感じられます。

工事が行われていた当時は、竪穴住居跡についての知識がありませんでしたが、今、振り返って考えますと、自分は京都嵯峨野の、飛鳥時代から続く土地に生まれ、今も住み続けているという、謂わば特殊な存在なのだと考えなくもありません。ただし、親は私が生まれる前に京都の街中から移住してきたので、土着の人間ではありませんが。

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2018年5月24日 (木)

弓月国(ゆずきのくに)という地域

~ おさむの鳥の目218

先日、京都市埋蔵文化財研究所の人の「埋蔵文化財から見える廣隆寺の姿」という講演を聴く機会がありました。造営当初の廣隆寺境内は今よりはるかに広大で、このあたりを発掘調査すると、古墳時代後期から飛鳥時代前期の竪穴住居が多く見つかるということでした。

廣隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれており、私の家の北東400メートルのところに「蜂岡中学」という学校がありますので、親近感を持ってしまいます。「竪穴住居があったのか」と思うと同時に、発掘現場跡が現在の生活道路ですから、昔と今を重ねて認識することが出来、昔の時代を詳細に知ることができる発掘調査とは面白いものだと改めて思いました。

そして、現在の姿で言って、廣隆寺の200メートル東にある大酒神社、これについては前にも触れましたが、その祭神の一人に、「秦始皇帝」に並んで「弓月君(ゆんずのきみ)」の名が出てきます。日本書紀には、秦氏渡来について弓月君が百済より127県の人々を率いてやってきたと記載があるそうです。

グーグルで検索すると、「弓月君」という名前は、シルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えた「弓月国」と関連しているのではないだろうかという記載があり、「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったとあります。

さらに、「この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹の貿易を独占していたのである。秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。」とも書かれています。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)については、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。伝説上の人物であり、実在は不明であるとあり、明確に歴史に名を残している人物ではありません。

このように、弓月君は明確な歴史上の人物とは言い切れないのですが、伝えられるように、中国の西外側にあった弓月国という地域に住んでいた人々を束ねて、朝鮮半島経由で日本に来た渡来人の首領であったと考えられます。

その後、秦氏は日本の社会に大きい貢献をしたことは広く知られたところです。その力の源泉は、治水工事などの突出した技術力や生活用品の生産技術など秦氏が備えている知的能力です。そして、これらの知的財産は、西方の先進民族から伝わったものと考えられます。

ところで、弓月国の地域では、この地域は「月」の地であり、西のローマは「星」の地、東の地(日本)は「太陽」の地だと考えられていたと言います。ほかの話ですが、天啓を受けて東の地(日本)へ行こうという考えを持った人がいたという話を聞いたことがあります。

この二つの話を結びつけたのは私であり、何の根拠もありません。しかし、上記秦氏の「弓月国から来た」という話は事実であるようであり、これとは別に、中国には「開封」という都市があって、昔からユダヤ人が住み続けているという実例があります。(「開封のユダヤ人」で検索できます。)

また、ユダヤの失われた十部族が住むと言われている地域が、シルクロードに沿っていくつもあるという事実も知られていますので、上記弓月君のように「西方から東の国(日本)へやって来た」例は、ほかにもあるという考えは、簡単には否定できないと思っています。

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2018年4月24日 (火)

京都太秦の大酒神社と播州赤穂の大避神社

~ おさむの鳥の目217

ランデン(京福電鉄嵐山線)の太秦(うずまさ)という駅のすぐ近くに広隆寺というお寺があります。聖徳太子が「この仏像を祀る者はいないか」と言われたのに応じて、秦河勝が広隆寺を建立し、この仏像を寺の本尊にしたと言われています。そして、この仏像というのが、国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像です。

この広隆寺の東200メートルのところに「大酒神社」という小さい神社があります。秦氏の氏神と考えられており、祭神は秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)ほか2柱です。

私は広隆寺の近くの太秦小学校に通っていたのですが、この「大酒神社」の存在は知りませんでした。その程度に、この神社の知名度は高くなかったのです。ところが、ある時、偶然通りかかって、この神社の存在を知り、その境内にあった立て札に「太秦」という地名の由来が書いてあったことから、それ以来この神社に特別の関心を持つよういなりました。

現在は「大酒神社」という標記になっていますが、元は「大辟神社」であった。秦酒公が中国の戦乱を避けて日本に来られたという歴史から、避けるという意味を持つ「辟」が使われたということも面白いと思いました。

そして、表題にあるもう一つの「大避神社」ですが、この神社の存在を知ったのは、全く予想外のことでした。赤穂浪士の「討ち入り」話で有名な播州赤穂にこのような名前の神社が実在すると知って本当に驚きました。その上、後に、わざわざ自分が現地へ行って、その神社を眼にすることになるとは思いもかけないことでした。

秦河勝は有名な人です。殊に京都の太秦近辺に住んでいる者にとっては、相当に身近な存在です。聖徳太子と関係深いということからも知名度は高いと思っています。ところが、晩年の河勝について知っている人はほとんどいません。

秦河勝は、晩年は京都に居なかったのです。政争を避けて船で瀬戸内海を西へ進み、上記播州赤穂の近くに移り住んでいたのです。しかし、秦氏のことも「大避神社」の名前もほとんど知られていません。秦氏について、比較的興味をもっている私でさえも、全く聞いたこともなかったので、「大避神社」という名前の神社があると知っても、わざわざ見に行こうというという気にはなりませんでした。

もし、「大避神社」の存在を知ったとしても わざわざ足をはこんで見に行かなかったとすれば、赤穂の「大避神社」の詳細を知ることはなかったと思います。ところが、思いがけない偶然がありました。以前に同じ会社に勤めていて、親しくしていた先輩が、赤穂なら懐かしいから、一度、一緒に行きませんかと言われたのです。

勤めていた会社というのは、東洋紡という繊維メーカーで、以前は赤穂に工場があったのです。大阪本社の全国規模の会社で、私は、入社2年目に1年間、勉強のために赤穂工場に勤務していました。その先輩も同じ時期ではないのですが、赤穂工場に勤務しておられたことがあり、懐かしいので一緒に見に行きましょうとなったのです。

そのような偶然が重なり、ある時、二人で赤穂へ行きました。JRの赤穂駅からタクシーで大避神社へ行ったのですが、思いのほか大きい神社であったのに驚きました。

神社は海に近い小さい山の麓にあり、立派な楼門を備えた堂々とした神社でした。秦氏との関係を示すものがあるのではないかと思って、見て行くと絵馬堂があって、数多くの絵馬が掛けてあり、その中に雅楽演奏家の東儀秀樹氏の名前の絵馬もありました。

東儀家は、秦河勝が聖徳太子から雅楽を世に伝えるように指示されて楽家として創設した4家(薗、林、東儀、岡)の中の1家で、以前に私が講演会の中で元宮内庁楽部首席楽長・東儀俊美さんから直接聞いた話です。ですから、この神社と秦河勝の関係が深いことは間違いありません。

東儀俊美氏の話を聞いたのは、松尾大社参集殿で開催された、太秦を含む京都西部の事跡に関する講演会でのことです。たまたまですが、そういう会に出席して得た情報ですから、秦氏に関係する事実については正確であろうと考えてよいと思います。

それから、大避神社には注目すべきものがもう一つあります。それは、神社の前の海に浮かぶ生島(いくしま)という小さい島です。この島に秦河勝が祀られていて、祭礼の時以外は、人がこの島に足を踏み入れないことになっているということです。ということは、秦河勝がこの地の人達に深く尊敬されていることを示しています。 
                 
河勝が亡くなってから千年以上の時がたっています。それほどの永い期間、河勝は播州地方で尊敬され続けているのです。京都の西方、太秦のあたりに河勝の墓のようなものが残っているのではないかと、もし考えるとすれば、見当違いも甚だしいと言わざるを得ないと思っています。

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2018年3月25日 (日)

脳のひらめき

~ おさむの鳥の目216

先に、「神経だけではなかった」という標題で、人体の中の情報伝達手段は神経だけではなく、身体の中の臓器がメッセージ物質を出すという方法で情報を発信しているということを書きました。そして、その時は、神経の方は常に繋がっていて、情報を伝達しているのだと考えていました。

ところが、NHKの「人体神秘の巨大ネットワーク」の「脳 ひらめきと記憶の正体」を見て、「神経は常に繋がっているのではない」ことを知りました。

NHKのこの人体シリーズは、司会がタモリさんと山中伸弥教授なのですが、この「脳 ひらめきと記憶の正体」の回には、ゲストとして芥川賞作家の又吉直樹さんが出演しておられました。そして、世界最高性能のMRIを使って又吉さんの脳を調べるというのです。

「つるつるやったら恥ずかしいですね」と又吉さんが言われました。多分、賢い人の脳は皺が多いという言葉が頭にあってのことでしょうが、現在では、脳はそういう形ではなく、繊維状の物が束ねられたタワシのような形に見えます。これは私が言うのではなく、番組の中で「タワシのような形」と書かれていました。

放送があったのが2月4日で、少し日が経っていますので、詳細は正確には覚えていないのですが、強く印象に残っているのは、上記「神経は常に繋がっているのではない」ということです。

どういうことかと言いますと、一つの神経細胞と次に繋がる神経細胞との間に狭い隙間があって、脳がひらめいたときに大量のメッセージ物質がその間を移動するという話でした。「どばっと出る」という表現であったことは鮮明に覚えています。

「脳がひらめく」ということを機械で物理的に知り得ることを示していると思いました。「どばっと」という言葉は、山中教授が感情を込めて言っておられました。この時、わたしは大変なことを教えてもらったと強く記憶に残りました。

私も、35歳から10年あまりの期間、発明家であったと言える時期がありましたので、「脳がひらめく」ということには強い関心を持っています。芥川賞作家やノーベル賞学者の名前が出てきた後に、自分のことを言い出すのは、誠に気が引けるのですが、アイデアを出すということに真剣に取り組んでいたことには違いないので、勇気を出して書かせていただきました。

そして、アイデアを出すとはどういうことであったか、昔を振り返って考え直しています。私の場合、多分、他の人と違っているのは、アイデアをメモしないことでした。考える内容が新製品、即ち「物」であって、その詳細はメモしなくても忘れないと思っていたからです。

毎晩、横になって考えるのですが、途中から考えることはしない。その都度、最初の部分から考えていく。もしも、昨日までと違った考えが出てくれば有難いのだがと思っていましたが、多くは同じことを考えているという状態だったと思います。

新しいアイデアを出すうまい方法はないかと考えていましたが、名案はなかったように思います。ただただ、一生懸命に考える以外ないというのが結論でした。

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2018年2月24日 (土)

神経だけではなかった

~ おさむの鳥の目215

人体の中の情報伝達手段は神経だと考えていました。そして、その中枢が脳で、この脳が総てを判断していると考えて、何の疑問も持っていなかったのです。ところが、先日、NHKテレビの「人体神秘の巨大ネットワーク」という番組を見ていて、その考えはとんでもない間違であることに気付きした。

最初の話は腎臓で、腎臓は単に尿を造る臓器であって、体内の不要な物質を体外に排出しているだけと考えられやすいのですが、実はそうではなく、必要な物質を再び体内に戻している。そして、この戻される量は予想以上に多く、しかも、腎臓は、他の臓器に指令を出して、身体の状態を正常に保つように常にコントロールしているというのです。

このように腎臓は非常に重要な働きをしているのですが、その腎臓が出す指令は、メッセージ物質という小さい粒であって、この物質を他の臓器に送ることによって情報を伝達しているのです。

番組では、これを臓器同士が会話をしていると表現していましたが、これは、情報が神経を伝って伝達され、その中枢の脳が判断して、総てを決定しているという私の認識とは大変かけ離れたものでした。

人体は複雑で、総てを一箇所で処理するのは効率がよくないので、それぞれ必要箇所ごとに判断し決定するようになっていると考えるとよいのかも知れません。むしろ、このようになっていないと、生物として生存できないと考えるのが正しいのでしょう。

それよりも、神経という構築された経路を通って、情報が伝えられるのでなく、メッセージ物質という物質を使って情報を伝えるという方法が、この場合たいへん優れているのだろうと思いました。

ところで、このような臓器の中の話ばかりでは、面白くないので、この番組のことに触れます。司会は、ご存知のタモリさんとノーベル賞学者の山中伸弥教授です。タモリさんは、28年も前にNHKの「人体シリーズ」の司会をされているそうです。

そして、今回の企画は「人体神秘の巨大ネットワーク」という、「NHKスペシャル」の中の大型特別企画で、日本のドキュメンタリー特別番組だということです。

そこで、話を戻しまして、この「メッセージ物質」とは何か。ネットで検索して調べてみました。例えば「ホルモン」はと調べると、下記のような答えがあります。

「ホルモンは、、狭義には生態の外部や内部に起こった情報に対応し、体内において特定の器官で合成・分泌され、血液など体液を通して体内を循環し、別の決まった細胞でその効果を発揮する生理活性物質をさす。」

「メッセージ物質」についても、このような答えが出て来ることを期待したのですが、結果は残念ながら、このような簡明な記述には出会えませんでした。

そこで、たくさんの説明の中から一生懸命よみ取って、私なりに理解したのは次のようなものです。

これは、腸の細胞を映像で捕らえたものですが、「ある状況のときに、腸にある絨毛という部分に焦点を当てると、その中がキラキラと輝いていた、そして、この後起きた変化は腸の細胞からミクロの物質が噴出した。この噴出したものはなにか?これが血液に乗って全身に運ばれる。そして脳や胃やすい臓などに腸からのメッセージを伝える」ということが書かれていました。

これは、例えば「ご飯が来たぞ」という情報でもよいのですが、腸が他の臓器にメッセージを伝えて、これを受けた臓器がそれに対する準備をするのです。「メッセージ物質」とは、このような機能をはたしている粒であると理解できます。

このように、身体内の情報伝達は、神経系統だけでなく、血液など体液を通して体内を循環している物質によって体中の臓器が互いに直接情報をやりとりすることで、私たちの体は成り立っているのでした。

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2018年1月23日 (火)

南方熊楠の知識に思う

~ おさむの鳥の目214

一年前に引き続き、昨年末に、那智勝浦町図書館へ行きました。この図書館には南方熊楠に関する書籍が多数集められていて、それをもう一度読みたいと考えたからです。

前回、この図書館で読んで、特に気になったのは、熊楠が中国の百科事典を読み、そこに自分の考えを書き入れていたという話です。

熊楠は英国に留学をしていたので、英語は堪能であっただろうと考えていました。ところが中国語の百科事典を読んで勉強していたとは考え難かったので、その点を詳しく知りたいと考えたのでした。

そして、その答えは図書館の書籍の中にありました。中国の書物を日本人が読むについて二つの方法がある。一つは、私が旧制中学で習った漢文の読み方で、中国の文章に付けられた返り点に頼って読む方法と、それに頼らないで、中国人が読むように、上から読んでいく方法です。

勿論、熊楠はその両方が出来たようで、これは日本人が江戸時代に中国の書籍を読んで勉強することを普通にしていたことを意味します。日本は明治以後、外国の知識を導入して大いに発展したのですが、その前に江戸時代に中国を通して西欧の知識を取り入れていたことを熊楠の例を通じて初めて知りました。

図書館にある関係書籍は多く、時間は限られていますので、大急ぎで読んだため、書籍についての説明は出来ないのですが、1冊だけ書名を挙げますと、「南方熊楠百話」と言う本がありました。分厚い本で、多くの人が文章を寄せておられます。

この本の中で、最も注目すべきは、熊楠の自筆の書き込みを写真に撮った数ページです。これは全部、手書きの横文字で、説明によると、全部、英語以外のヨーロッパの言葉だそうです。

残念ながら、私の力では何と書いてあるのか分からないだけでなく、どこの国の言葉であるのかさえ、定かではないという有様でした。

これを見て感じたことは、熊楠が日本人が世界で活躍するようになって、非常に早い時期に、世界の最高水準の研究をするすることが出来た理由が分かったと思いました。

有名な粘菌の研究でも、熊楠が発見したものが新種であることを、世界最高水準の学者が証明したことが書かれている例もありました。このように、世界的に非常に早い時期に、熊楠は高い段階に達していたことを文献によって知ることが出来ました。

日本は明治以後に列強の仲間入りをしたのですが、すでに江戸時代に政治経済面で、世界的に高いレベルに達していたことが大きい要因であったと思ってきましたが、それだけでなく、学問の面でも、中国を通して、高水準に達していたことを過小評価してはならないと考えるようになりました。

南方熊楠は世に知られた偉人でしたが、彼だけでなく、江戸時代の日本の学問が非常に
高いレベルにあったということを、私自身十分理解していなかったと再認識した次第です。

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