カラフルエッセイ  おさむの鳥の目

2018年3月25日 (日)

脳のひらめき

~ おさむの鳥の目216

先に、「神経だけではなかった」という標題で、人体の中の情報伝達手段は神経だけではなく、身体の中の臓器がメッセージ物質を出すという方法で情報を発信しているということを書きました。そして、その時は、神経の方は常に繋がっていて、情報を伝達しているのだと考えていました。

ところが、NHKの「人体神秘の巨大ネットワーク」の「脳 ひらめきと記憶の正体」を見て、「神経は常に繋がっているのではない」ことを知りました。

NHKのこの人体シリーズは、司会がタモリさんと山中伸弥教授なのですが、この「脳 ひらめきと記憶の正体」の回には、ゲストとして芥川賞作家の又吉直樹さんが出演しておられました。そして、世界最高性能のMRIを使って又吉さんの脳を調べるというのです。

「つるつるやったら恥ずかしいですね」と又吉さんが言われました。多分、賢い人の脳は皺が多いという言葉が頭にあってのことでしょうが、現在では、脳はそういう形ではなく、繊維状の物が束ねられたタワシのような形に見えます。これは私が言うのではなく、番組の中で「タワシのような形」と書かれていました。

放送があったのが2月4日で、少し日が経っていますので、詳細は正確には覚えていないのですが、強く印象に残っているのは、上記「神経は常に繋がっているのではない」ということです。

どういうことかと言いますと、一つの神経細胞と次に繋がる神経細胞との間に狭い隙間があって、脳がひらめいたときに大量のメッセージ物質がその間を移動するという話でした。「どばっと出る」という表現であったことは鮮明に覚えています。

「脳がひらめく」ということを機械で物理的に知り得ることを示していると思いました。「どばっと」という言葉は、山中教授が感情を込めて言っておられました。この時、わたしは大変なことを教えてもらったと強く記憶に残りました。

私も、35歳から10年あまりの期間、発明家であったと言える時期がありましたので、「脳がひらめく」ということには強い関心を持っています。芥川賞作家やノーベル賞学者の名前が出てきた後に、自分のことを言い出すのは、誠に気が引けるのですが、アイデアを出すということに真剣に取り組んでいたことには違いないので、勇気を出して書かせていただきました。

そして、アイデアを出すとはどういうことであったか、昔を振り返って考え直しています。私の場合、多分、他の人と違っているのは、アイデアをメモしないことでした。考える内容が新製品、即ち「物」であって、その詳細はメモしなくても忘れないと思っていたからです。

毎晩、横になって考えるのですが、途中から考えることはしない。その都度、最初の部分から考えていく。もしも、昨日までと違った考えが出てくれば有難いのだがと思っていましたが、多くは同じことを考えているという状態だったと思います。

新しいアイデアを出すうまい方法はないかと考えていましたが、名案はなかったように思います。ただただ、一生懸命に考える以外ないというのが結論でした。

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2018年2月24日 (土)

神経だけではなかった

~ おさむの鳥の目215

人体の中の情報伝達手段は神経だと考えていました。そして、その中枢が脳で、この脳が総てを判断していると考えて、何の疑問も持っていなかったのです。ところが、先日、NHKテレビの「人体神秘の巨大ネットワーク」という番組を見ていて、その考えはとんでもない間違であることに気付きした。

最初の話は腎臓で、腎臓は単に尿を造る臓器であって、体内の不要な物質を体外に排出しているだけと考えられやすいのですが、実はそうではなく、必要な物質を再び体内に戻している。そして、この戻される量は予想以上に多く、しかも、腎臓は、他の臓器に指令を出して、身体の状態を正常に保つように常にコントロールしているというのです。

このように腎臓は非常に重要な働きをしているのですが、その腎臓が出す指令は、メッセージ物質という小さい粒であって、この物質を他の臓器に送ることによって情報を伝達しているのです。

番組では、これを臓器同士が会話をしていると表現していましたが、これは、情報が神経を伝って伝達され、その中枢の脳が判断して、総てを決定しているという私の認識とは大変かけ離れたものでした。

人体は複雑で、総てを一箇所で処理するのは効率がよくないので、それぞれ必要箇所ごとに判断し決定するようになっていると考えるとよいのかも知れません。むしろ、このようになっていないと、生物として生存できないと考えるのが正しいのでしょう。

それよりも、神経という構築された経路を通って、情報が伝えられるのでなく、メッセージ物質という物質を使って情報を伝えるという方法が、この場合たいへん優れているのだろうと思いました。

ところで、このような臓器の中の話ばかりでは、面白くないので、この番組のことに触れます。司会は、ご存知のタモリさんとノーベル賞学者の山中伸弥教授です。タモリさんは、28年も前にNHKの「人体シリーズ」の司会をされているそうです。

そして、今回の企画は「人体神秘の巨大ネットワーク」という、「NHKスペシャル」の中の大型特別企画で、日本のドキュメンタリー特別番組だということです。

そこで、話を戻しまして、この「メッセージ物質」とは何か。ネットで検索して調べてみました。例えば「ホルモン」はと調べると、下記のような答えがあります。

「ホルモンは、、狭義には生態の外部や内部に起こった情報に対応し、体内において特定の器官で合成・分泌され、血液など体液を通して体内を循環し、別の決まった細胞でその効果を発揮する生理活性物質をさす。」

「メッセージ物質」についても、このような答えが出て来ることを期待したのですが、結果は残念ながら、このような簡明な記述には出会えませんでした。

そこで、たくさんの説明の中から一生懸命よみ取って、私なりに理解したのは次のようなものです。

これは、腸の細胞を映像で捕らえたものですが、「ある状況のときに、腸にある絨毛という部分に焦点を当てると、その中がキラキラと輝いていた、そして、この後起きた変化は腸の細胞からミクロの物質が噴出した。この噴出したものはなにか?これが血液に乗って全身に運ばれる。そして脳や胃やすい臓などに腸からのメッセージを伝える」ということが書かれていました。

これは、例えば「ご飯が来たぞ」という情報でもよいのですが、腸が他の臓器にメッセージを伝えて、これを受けた臓器がそれに対する準備をするのです。「メッセージ物質」とは、このような機能をはたしている粒であると理解できます。

このように、身体内の情報伝達は、神経系統だけでなく、血液など体液を通して体内を循環している物質によって体中の臓器が互いに直接情報をやりとりすることで、私たちの体は成り立っているのでした。

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2018年1月23日 (火)

南方熊楠の知識に思う

~ おさむの鳥の目214

一年前に引き続き、昨年末に、那智勝浦町図書館へ行きました。この図書館には南方熊楠に関する書籍が多数集められていて、それをもう一度読みたいと考えたからです。

前回、この図書館で読んで、特に気になったのは、熊楠が中国の百科事典を読み、そこに自分の考えを書き入れていたという話です。

熊楠は英国に留学をしていたので、英語は堪能であっただろうと考えていました。ところが中国語の百科事典を読んで勉強していたとは考え難かったので、その点を詳しく知りたいと考えたのでした。

そして、その答えは図書館の書籍の中にありました。中国の書物を日本人が読むについて二つの方法がある。一つは、私が旧制中学で習った漢文の読み方で、中国の文章に付けられた返り点に頼って読む方法と、それに頼らないで、中国人が読むように、上から読んでいく方法です。

勿論、熊楠はその両方が出来たようで、これは日本人が江戸時代に中国の書籍を読んで勉強することを普通にしていたことを意味します。日本は明治以後、外国の知識を導入して大いに発展したのですが、その前に江戸時代に中国を通して西欧の知識を取り入れていたことを熊楠の例を通じて初めて知りました。

図書館にある関係書籍は多く、時間は限られていますので、大急ぎで読んだため、書籍についての説明は出来ないのですが、1冊だけ書名を挙げますと、「南方熊楠百話」と言う本がありました。分厚い本で、多くの人が文章を寄せておられます。

この本の中で、最も注目すべきは、熊楠の自筆の書き込みを写真に撮った数ページです。これは全部、手書きの横文字で、説明によると、全部、英語以外のヨーロッパの言葉だそうです。

残念ながら、私の力では何と書いてあるのか分からないだけでなく、どこの国の言葉であるのかさえ、定かではないという有様でした。

これを見て感じたことは、熊楠が日本人が世界で活躍するようになって、非常に早い時期に、世界の最高水準の研究をするすることが出来た理由が分かったと思いました。

有名な粘菌の研究でも、熊楠が発見したものが新種であることを、世界最高水準の学者が証明したことが書かれている例もありました。このように、世界的に非常に早い時期に、熊楠は高い段階に達していたことを文献によって知ることが出来ました。

日本は明治以後に列強の仲間入りをしたのですが、すでに江戸時代に政治経済面で、世界的に高いレベルに達していたことが大きい要因であったと思ってきましたが、それだけでなく、学問の面でも、中国を通して、高水準に達していたことを過小評価してはならないと考えるようになりました。

南方熊楠は世に知られた偉人でしたが、彼だけでなく、江戸時代の日本の学問が非常に
高いレベルにあったということを、私自身十分理解していなかったと再認識した次第です。

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2017年12月24日 (日)

ロープウェイ比叡駅

~ おさむの鳥の目213

「駅名ものがたり」には続編がありす。本編は、京福電鉄嵐山線の本線と北野白梅町へ行く支線の各駅について書かれています。これに対し、続編は京都の東北部分を走る叡山電鉄の各駅が取り上げられています。

嵐山線も京都の古い文化に関係深い地名や駅名がたくさん出てきて興味深いのですが、続編の叡山電鉄の各駅も、これに負けていません。取り上げている各駅は、玉依姫(たまよりひめ)の昔から伝えられる「貴船口」など、話題豊富なものばかりです。

これらの中の幾つかを取り上げたいとは思うのですが、丁寧に書いていくと先に進めないので、思い切って一気に最終まで行ってしまいます。叡山電鉄の目的の一つは比叡山へ行くことですから、少なくともこの線の終点である「八瀬遊園駅」くらいにはページを割くべきところですが、先を急ぎます。

叡山本線の終着駅である「八瀬遊園駅」の近くには「ケーブル八瀬遊園駅」があり、ケーブルカーで山に登るようになっています。この鋼索道線は、大正十四年(1925)に敷設されたもので、延長1458メートル、所要時間約9分。平均勾配23.8度。急勾配度東洋一といわれているそうです。

終着駅の名前は「ケーブル比叡駅」で、そこから先はロープウェイで山頂へ行きます。駅名でいうと「ロープウェイ比叡駅」から「ロープウェイ比叡山頂駅」です。このロープウェイは昭和三十一年(1956)開通、距離は0.5キロメートル、正式には架空索道というのだそうです。

駅名は、言うまでもなく駅舎が所在する山の名前で、古くは日枝山と書き、大山咋神を祀る霊山として神聖視されてきたが、伝教大師最澄が王城鎮護のため山頂に延暦寺を建立して以来、比叡山と改められたとあります。

比叡山は、都の東北にそびえ、北は比良山系に連なり、京都と滋賀県にまたがっています。私のように、京都市に生まれ、そのまま80年を越えて住み続けている者にとっては、比叡山を京都のものと考えてしまいやすいのですが、それは間違いで、滋賀県側とのつながりが強いことを付け加えねばなりません。

ケーブルカーも、上記京都側からだけでなく、滋賀県の坂本から登るルートも有力であることを強調しなければなりません。歴史的、文化的にも重要な要素が多くあります。

さきほど、「比叡山は、都の東北にそびえ」と書きました。これに対し、京都には西北にそびえる山があります。愛宕山です。私は京都盆地の西の方に住んでいますので、この愛宕山に近く、思い出もたくさん残っています。

そこで、この「ロープウェイ比叡山頂駅」に関連して、愛宕山のことが出てくるのが印象に残りました。比叡山と愛宕山とどちらが高いかという“京ばなし”です。

「おれのほうがお前より高いぞ」、「いいや、おれのほうが高いんや」と両者が背の高さのことで言い争いになったという話で、気の短い比叡山が、「俺のほうが高いというのに判らんか」と言うが早いか愛宕山の頭をポカリ。たたかれた愛宕山の頭にこぶができた。

このこぶの分だけ愛宕山が高くなり、洛中第一の高い山(924メートル)になったという話です。たしかに、愛宕山の山頂にはこぶのような小山があって、これが愛宕山の形を特徴づけています。

この話は、「短気は損気」の教訓をものがたる“京ばなし”ということです。歴史が古いだけに比叡山には数多くの伝承がありますが、今回ご紹介するのはこの程度にしておきます。

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2017年11月23日 (木)

「黒四を助けよう」

~ おさむの鳥の目212

先日、テレビを見ていたら、NHKの「ブラタモリ」という番組で、タモリ一行が黒部川第四発電所を訪れた話が放映されていました。

「黒四」は有名ですから説明不要ですが、私自身分かっているつもりでしたが、たいへんな難工事であったことを再認識しました。

そもそも人間がその工事の場所に到達するのが極めて困難ということが、画面から見てとれて、よくこのような所に発電所を建設する気になったものだと驚かされたのが始まりで、終始、驚きの連続でした。

水力発電は、高い位置に水を貯め、その落差を利用して水が落下する力を電力に変えるものですから、先ず、十分に高い位置に大量の水を貯めることが先決です。「黒四」は自然の高峰を利用してそれが出来る絶好の形状を備えていたから、ここに発電所を建設することになりました。

しかし、その場所は人を寄せ付けない位置であり、この場所に大規模な工事を決行するということは、それはそれは大変な決断です。

そして、当然のことながら工事そのものも難工事で、そういう構造は認められないと指摘されるという事態さえ起ったということです。この事業は、世界銀行から3700万ドルの融資を受けたのですが、その世銀から、水を支える壁の高さが高すぎるから変更すべきだという見解が示されたというのです。

そこで、この山に関してはこの構造で十分支えられるということを証明する工事を、本体の工事と平行して行ったという、その工事現場をテレビで写していました。それだけ大変な事業だったのだと再認識した次第です。

ところで、標題の「黒四を助けよう」ですが、この言葉は、当時、私が勤務していた東洋紡の社内会議で耳にした言葉です。「関西電力では、世紀の大事業である『黒四』建設を、会社の総力を挙げて決行している。社内では『黒四を助けよう』という合言葉の下、『紙1枚節約してこの事業を助けよう』という動きがあるという話です。

この話が本当なのかどうかは分かりません。しかし、大阪に本社のある他の事業会社に、このような話が伝わっているということは、関西電力が、いかに総力を結集してこの事業に当たっておられたかを示していると考えられます。

私が経営企画スタッフとして事業会社に勤務していたのは何十年も前のことです。その当時のことを鮮明に記憶しているということは、「黒四」という事業がどれだけインパクトの大きい事業であったかを示していると思います。

テレビは単に話というだけでなく、映像が伴っているので、情報量が多く、強く印象に残ります。時間を越えて、数十年昔に自分が考えていたことを鮮明に思い出します。  

なお、「黒部川第四発電所」は、工事期間7年、作業員のべ1000万人、総工費513億円、昭和38年完成ということです。太平洋戦争後の関西のエネルギー事情からしても、たいへん重要な大工事であったのだと、今も強く印象に残っています。

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2017年10月24日 (火)

「嵐山」と「有栖川」

~ おさむの鳥の目211

京都は観光客が多い街で、一番が清水(きよみず)、二番が嵐山と言われています。駅の名前は、有名な建造物や地名から採られている例が多く、「嵐山」は地名です。

「嵐山」という山は、元は「荒樔山」であったのが、愛宕おろしに峰々の桜や楓を散らすところから、いつしか「嵐山」と呼ばれるようになり、その山の名がこの辺りの地名となったものであると言われています。

そして、この「荒樔山」の名前は川から来ているそうです。この近くを流れていた川は激流で、土地がひどく荒らされていて、「荒樔・荒瀬(あらす・あらせ)の意味から「有栖川」という名前が用いられるようになったといいます。

先月、「駅名ものがたり」という本をご紹介しました。この本は、長く京福電鉄に勤められた方が、退職後に出された本で、永年の研究成果が含まれていてたいへん参考になります。この本について言うなら、まず、「嵐山」と考え、ここまで書きました。
 
次にどの駅を取り上げるかとなると、私としては「有栖川」です。自宅の最寄り駅であり、幼稚園時代からのお付き合いです。そういう個人的な事情からの選択なのですが、読んでいくと、「嵐山」の次が「有栖川」という、話の上での順序があって驚きました。

「有栖川」という駅名は、最初からこの名前であったのではありません。昔、この駅は「嵯峨野」という名前でした。ところが、観光客が雑誌などで紹介される嵯峨野観光の起点と間違えるトラブルがあり、それを避けるために「有栖川」に変えられたのです。駅の近くを流れる川の名前が「有栖川」だからです。

ところが、この「有栖川」という名前は、先に出て来ました。激流であった川に土地が荒らされたのが元になって、「荒樔・荒瀬」の意味から川の名前が「有栖川」になったと書きました。と言うことは、嵐山を流れる川の名前であったものが、別の川の名前になっているのです。

一見、奇異に思えますが、これには理由があります。嵐山を流れる川は「有栖川」であったが、時が経ってこの川が「葛野川(かどのがわ)」とか「大堰川」と呼ばれるようになり、このままでは歴史を伝える「有栖川」が消えてしまう。それを惜しんだ里人たちが 別の川にこの名前を付けたのです。

こうして、現在の「有栖川」駅の近くを流れる川が「有栖川」になりました。そして、この駅の所在地は「右京区嵯峨野有栖川町」、正真正銘の「有栖川」駅です。私がこのように声を大に力説するのは、子供の時からの習性で、この駅の名前は「嵯峨野」でないとしっくりしないという勝手な思い込みを言葉にしたいと思うからです。

このような次第で、「嵐山」の次に取り上げるのは「有栖川」でなければならないという、「荒樔・荒瀬(あらす・あらせ)」を仲立ちにした両者の結びつきを特に取り上げたものです。それにしても、「樔」などという文字があることを、この齢になって初めて知りました。

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2017年9月25日 (月)

駅名ものがたり

~ おさむの鳥の目210

今、私の手許に「駅名ものがたり」という本があります。この本は、長く京福電鉄に勤められた方が、退職後に出された本です。私は、生まれた家に今も住んでおり、同じ地域に住み続けていることから、地域に関する知識が自然に増えて、自分でもこれらの事に興味を持っています。

先日、行きつけの散髪屋さんに行った時、面白い本があるので一度読んでみてほしいと、一冊の本を渡されました。それが標記の本です。

私は京都市右京区嵯峨野に住んでいますが、最寄駅は「京福電鉄嵐山線の有栖川駅」です。この電車は幼稚園の時から利用させてもらっていて、私の人生とは切っても切れない存在と言えます。

この「駅名ものがたり」は、始発の「四条大宮駅」から、西の終点「嵐山駅」までと、支線(北野線)の各駅の、駅名と「各駅の周辺」について、それぞれに興味深い話題が満載されています。

それぞれ歴史の古い地域ですから、話題豊富でたいへん勉強になります。この後、私の興味に従って、いくつか注目すべき論点をご紹介しますが、その前に、この本の存在価値について考えてみます。

話は跳びますが、神社等のおみくじに書かれている文章ですが、なかなかよく出来ていて、感心します。一般に通用するようそれぞれ含蓄に富んだ内容になっています。あらゆる場面に通用するように書いてあっても役立つのですから、もし、その時の自分に合うように書いてあるとすると、もっと役に立つ。誰かそういうおみくじを作ってくれないかと考えたことがあります。

しかし、それは無理なので、それに変わる方法として、私が考えたのは、本屋の陳列棚の前に立って、本の背表紙を見る。そして、読み取れた本の表題がおみくじの内容であると考えるのです。

本屋の陳列は、それなりの考えに基づいて並べられている。自分なりに、その意図を読み取って、その時、自分が望んでいるらしい書棚を選んで見ていけば、その時の自分にとって有用な答えが得られると考えてみたのです。

先程の話しに立ち戻って、本屋に行かなくても、標記「駅名ものがたり」を眺めていると、今の私にとって、興味あり気な話題が並んでいる、その中から一つを取り出して考えれば、自分なりに有意義な考えが展開できると考えてみました。

実際に、この「駅名ものがたり」を読みますと、腰を据えて考えなければならない論点が幾つも出てきます。例えば「太秦(うずまさ)駅」の項には、「秦氏について」と「地名について」の二つの項があって、それぞれ過去の学者の研究成果を詳述するなど、内容豊かな、そして説得力のある記述が見られます。

このように、参考に出来る資料が手に入りましたのでご紹介させていただきます。

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2017年8月23日 (水)

京都大文字の「鳥居形」

~ おさむの鳥の目209

8月16日は、京都五山の送り火の日です。

ご承知の通り、大文字は「大」、「妙法」、「船形」、「ひだり大」、「鳥居形」の五つがあります。この内、「鳥居形」は、京都盆地の中心地からは、西へ大きく離れていて、その上、「鳥居形」のある山は低いため、あまりよく見えないという欠点もあるため、上記五つの大文字の中では、最も知名度が低いとされています。

しかし、私にとっては、唯一、自分の家から直接見ることができる大文字であり、大変かかわりの深いものでした。昔のことになりますが、子供の時は、自宅の二階の窓から、直接きれいに見えました。このような次第で、この「鳥居形」は、私にとっては特別の存在で、大文字といえば、「鳥居形」が頭に浮かびます。

そして、この「鳥居形」は、ほかの大文字と違って、あらかじめ定位置に設置された薪に火を付けるのでなく、火の付いた薪を人が担いで所定の場所に置いていくという方法で文字を作っていきます。

したがって、遠くから見ると、山肌を火が走っているように見えます。以前、嵐山の渡月橋の上から、その様子を実際に見たことがありますが、遠くて暗いため担いでいる人の姿は見えません。したがって、どう見ても本当に火が走っているとしか言いようがないと思いました。

これは普通に遠くから見た話ですが、今回は、テレビの映像で、解説付きで見ましたので、実際の姿を手に取るように知ることが出来ました。所定の位置というのが、金属製の固定された設備で、運んでいった火の付いた薪を差し込むような形で固定するようになっていました。

問題は燃えている薪を担いで走る経路が登り坂を含むことです。最大45度の登り坂を駆け上がるのは重労働で、これは若い人の担当です。このように、全体として作業が成り立つよう長年の経験で、うまく組織されているようです。

これは「鳥居形」の運営面からの話ですが、見る側から言うと、冒頭に書きましたように、今は、家の窓から見ることは出来ませんが、2~3分歩いた所にある高台から見えます。

周りの状況が変わるので、年が経つにつれて、見え方が少し変わってきます。今年は鳥居の形が正面からしっかり見えました。実物を直接見ることには、大きい意味があると思っていますので、これは幸運と感じています。間に大きい建造物でも出来ると、全く見えなくなる可能性はあるので、現状は満足すべきものと言えます。歴史に直接触れる数少ない接点ですので、大事に考えたいと思っています。

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2017年7月24日 (月)

「大きい嵯峨野」と「小さい嵯峨野」

~ おさむの鳥の目208

数年前に国内旅行で旅館に泊まった時、帳場で宿泊者住所氏名を書きました。そのとき、「京都市右京区嵯峨野」と書いたところで、「嵯峨野に住んでおられるのですか。よい所に・・・」と言う声が返ってきて、「嵯峨野」の知名度は殊のほか高いのだと思いました。

雑誌などで企画に困ったとき、「嵯峨野特集」にすればよいというのが定番になっているとも聞きますから、嵯峨野はそれだけのビッグネームなのかも知れません。

しかし、上記の会話は、ほとんど立ち話程度の話しですから、ここから先に会話が進むことはなく、ここまでなら、何の問題もないのですが、実は私の頭の中では「実際は違うのだがな。」という思いが消えることはありません。

同じく「嵯峨野」という言葉を使っていますが、その内容が違っているのです。もちろん、先方は雑誌の「嵯峨野特集」に出てくるような「嵯峨野」を頭に置いているに違いないのですが、私は、「それは違う」という思いを消すことができないのです。

「住んでおられる」という言葉が出ていますので、「自分が住んでいる所=右京区嵯峨野」はどういう所か」という考えが、どうしても頭の中にわっと出てきてしまいます。「右京区嵯峨野」は行政上の正式な名称で、実際には、小学校の学区一つ分くらいの面積です。

雑誌の「嵯峨野特集」に出てくる地域は、嵯峨野学区よりは遥かに広い面積です。西隣の「右京区嵯峨(旧葛野郡嵯峨町)」の全体を含む広い地域です。そして、その中には、「京都・嵯峨野」として描かれている所謂「よい所」がすべて含まれているのです。これが「大きい嵯峨野」です。

これに対して、私が住んでいる「右京区嵯峨野」(小さい嵯峨野)は、単なる住宅地であって、「よい所に住んでおられますね」などと言ってもらえる地域ではありません。そういう事情がありますので、ほかの人から掛けられた言葉に対して、私の頭の中では「それは違う」という思いが強く出てしまうようです。

ここで、少し嵯峨野について、客観的な説明を書きますと、ウィキペディアによれば、「嵯峨野は、京都府京都市の地名、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称である。」となります。

細かいことは別にして、雑誌の「嵯峨野特集」に出てくる広範な「嵯峨野」と、嵯峨野小学校の学区という狭い地域を指す場所とが、同じ「嵯峨野」という言葉で表されるという不都合な実態が存在するのです。

私の家の最寄り駅は、京福電鉄嵐山線の「有栖川」です。以前はこの駅の名称が「嵯峨野」でした。その当時は、観光客が間違ってこの駅で降りて、「さて。どちらに向かって歩けばよいのか」と戸惑うことがありました。

京福電鉄の「有栖川」(旧「嵯峨野」)駅は、嵯峨野観光の基点としては全く適していないのです。そこで駅名が変更されて、現在の「有栖川」駅になり、この問題は解消されました。

しかし、問題解決とならないのは、依然として「大きい嵯峨野」と「小さい嵯峨野」が並存していることです。駅名の方は観光客が困ると言う大儀名分があるので改善されましたが、「大きい嵯峨野」と「小さい嵯峨野」の並存は困る人がいないので、改善される見通しはないようです。

ところで、現在の嵯峨野小学校の学区という狭い地域を、なぜ「嵯峨野」と言うようになったかについて、一つの仮説を唱えた人がいます。それは、昔。平安京に住んでいた人が、京都盆地の西の方(=嵯峨野)に向かって小旅行に出た時、「もうこの辺りまで来れば嵯峨野だよ」と言ったのが始まりではないかというものです。

安直な考え方ですが、意外にも、これが正解に近いのではないか、とも思います。

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2017年6月23日 (金)

同期会

~ おさむの鳥の目207

先日、大阪で、昔の勤務先の同期入社の人達の、集まりがありました。同期というと、多くは学校関係の同じ学年でともに学んだ人を指します。しかし、大きい会社に就職した場合、同期入社の人も多く、同期会が作られることも珍しくありません。

先日行われた会は、その同期入社の人達の集まりです。私の場合は、小学校、中学(旧制)、高校(新制)、大学(新制)のそれぞれに同期会があり、それらが現在も存続しています。卒業後年月が経っていますので、集まる人数は減っていますが、幸い上記が現在まで続いています。

先日集まった友人の話では、以前は定期的に行われていた同期会も、だんだん減少してきて、現在も続いているものは少数になっているようです。

ついでながら、幼稚園の同窓会というのはあまり聞いたことがありません。しかし、私の場合は、全く存在しないとは言い切れないと思っています。と申しますのは、私は電車を利用して、隣町の「嵯峨幼稚園」に通っていました。

嵯峨幼稚園を出た人は全員が嵯峨小学校に入りましたが、私は一人、居住地の嵯峨野小学校に行ったので、幼稚園の友人とは、その時点で一度分かれました。ところが、中学で合流し、「○○チャン」という関係を取り戻したので、私にとっては、やや変則ながら、幼稚園の同窓会があるかの如き形になっています。

ところで、話は変わりますが、昨年、「京都ぎらい」という本がよく売れて、「2016新書大賞第一位」に選ばれました。「ええか君,嵯峨は京都とちがうんやで・・・・」と裏表紙に印刷してあります。

また、表紙には「千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く」とも書いてあるように、京都では、洛中の人が、洛外の人を、さげすんで言う風潮があるということを、主題のひとつにしているのです。

偶然ですが、来週、上記旧制中学の同期会が開かれます。戦時中のことですから、学区制は画一的に実施されていて、生徒の住んでいる場所と入学する学校は明確に決められていました。

そして、その学区制からすると、卒業生には、上記「京都ぎらい」に言う「洛中の人」と「洛外の人」の両方が含まれています。私は、住んでいる場所からすると、「洛外の人」なのですが、母親が生まれも育ちも生粋の「洛中の人」だったので、感じ方からすると、自分が洛外の人間であるとは思っていませんでした。

このように、私自身は、「洛中の人」「洛外の人」の区別にはあまり関心がないままに時を過ごしてきました。そこで、今、洛中、洛外ということが言われているのを耳にしますと、あまり意味がないと感じます。

「鳴くよ鶯平安京」という言葉があります。受験生が「平安京が出来たのは、794年」と覚えるための決まり文句です。洛中と言うのも平安京以後のこと、それまでは、どうだったかと言えば、「ええか君,嵯峨は京都とちがう・・」の嵯峨の方がはるかに進んでいた。聖徳太子時代の秦氏の業績を見れば明らかです。

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