カラフルエッセイ  おさむの鳥の目

2017年6月23日 (金)

同期会

~ おさむの鳥の目207

先日、大阪で、昔の勤務先の同期入社の人達の、集まりがありました。同期というと、多くは学校関係の同じ学年でともに学んだ人を指します。しかし、大きい会社に就職した場合、同期入社の人も多く、同期会が作られることも珍しくありません。

先日行われた会は、その同期入社の人達の集まりです。私の場合は、小学校、中学(旧制)、高校(新制)、大学(新制)のそれぞれに同期会があり、それらが現在も存続しています。卒業後年月が経っていますので、集まる人数は減っていますが、幸い上記が現在まで続いています。

先日集まった友人の話では、以前は定期的に行われていた同期会も、だんだん減少してきて、現在も続いているものは少数になっているようです。

ついでながら、幼稚園の同窓会というのはあまり聞いたことがありません。しかし、私の場合は、全く存在しないとは言い切れないと思っています。と申しますのは、私は電車を利用して、隣町の「嵯峨幼稚園」に通っていました。

嵯峨幼稚園を出た人は全員が嵯峨小学校に入りましたが、私は一人、居住地の嵯峨野小学校に行ったので、幼稚園の友人とは、その時点で一度分かれました。ところが、中学で合流し、「○○チャン」という関係を取り戻したので、私にとっては、やや変則ながら、幼稚園の同窓会があるかの如き形になっています。

ところで、話は変わりますが、昨年、「京都ぎらい」という本がよく売れて、「2016新書大賞第一位」に選ばれました。「ええか君,嵯峨は京都とちがうんやで・・・・」と裏表紙に印刷してあります。

また、表紙には「千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く」とも書いてあるように、京都では、洛中の人が、洛外の人を、さげすんで言う風潮があるということを、主題のひとつにしているのです。

偶然ですが、来週、上記旧制中学の同期会が開かれます。戦時中のことですから、学区制は画一的に実施されていて、生徒の住んでいる場所と入学する学校は明確に決められていました。

そして、その学区制からすると、卒業生には、上記「京都ぎらい」に言う「洛中の人」と「洛外の人」の両方が含まれています。私は、住んでいる場所からすると、「洛外の人」なのですが、母親が生まれも育ちも生粋の「洛中の人」だったので、感じ方からすると、自分が洛外の人間であるとは思っていませんでした。

このように、私自身は、「洛中の人」「洛外の人」の区別にはあまり関心がないままに時を過ごしてきました。そこで、今、洛中、洛外ということが言われているのを耳にしますと、あまり意味がないと感じます。

「鳴くよ鶯平安京」という言葉があります。受験生が「平安京が出来たのは、794年」と覚えるための決まり文句です。洛中と言うのも平安京以後のこと、それまでは、どうだったかと言えば、「ええか君,嵯峨は京都とちがう・・」の嵯峨の方がはるかに進んでいた。聖徳太子時代の秦氏の業績を見れば明らかです。

| | コメント (1)

2017年5月24日 (水)

京都水族館の雀

~ おさむの鳥の目206

表題がおかしい、と思われるでしょう。その通りです。京都水族館は雀を飼っていません。しかし、雀は居たのです。

「海から遠い京都に水族館?」と考える人も居るでしょう。技術の進んだ今の世に、まさか使用水量のほとんどを海から運んでいると考える人はいない。だとすると、海からの距離は関係ないはずなのに・・・、と私は考えていました。

ところが、「内陸型水族館」という言葉があり、京都水族館は国内最大の「内陸型水族館」であって、使用水量の90%に及ぶ必要海水はすべて人工海水で賄っているので有名という話を聞いて、京都水族館は例外で、やはり水族館は海に近いところに在るのが普通なのだと再認識しました。

ところで、私は動物園が好きです。これは書かなくても分かっていただけると思いますが、京都に水族館が出来て、京都水族館も好きと言わねばならなくなりました。年間パスポートを持っていて、ときどき行っていると書けばそれで十分でしょう。

そこで、今回は京都水族館について書くのですが、下手に頭を使うより、一般に説明されていることをそのまま書くと、以下の通りです。

館内は9つにゾーン分けされていて、

1・オオサンショウウオの展示が見られる「京の川ゾーン」
2・オットセイ、アザラシが間近で見られる「かいじゅうゾーン」
3・ペンギンを上からも下からも見られる「ペンギンゾーン」

4・日本の海をまるごと再現した「大水槽」
5・サンゴの海やタッチプールのある「海洋ゾーン」
6・工作や体験などができる「交流プラザ」

7・目玉のイルカショーが楽しめる「イルカスタジアム」
8・京都の生き物などの学習ゾーン「山紫水明ゾーン」
9・屋外展示で田んぼなど里山を再現した「京の里山ゾーン」

という訳で、見やすいよいに工夫されています。私自身は、何回も行くので、あまり館内の構造を知り過ぎないようにと、その都度、でたらめに見て歩きます。

先日、行った時は、歩き疲れたようなので、最後に、身体を休める意味もあって、入館したとき「京の川」の次に見た「オットセイ」と「アザラシ」の展示室へ行きました。ここはベンチがたくさんあって、館内で唯一弁当を食べてもよい場所になっているそうです。

そこのベンチに座って周りを見ていると、小学校低学年くらいの男の子が、何か小さい食べ物を床に投げています。すると、たくさんの雀が寄ってきて床の上の食べ物を啄ばみます。その場所は、どう見ても屋内なのですが、上の方の一部が開いているらしく、外部の雀が来ているのです。

すると、近くにいた、やっと歩けるようになった年齢の男の子が雀の群れに駆け寄ります。雀たちはいっせいに飛び立ちますが、すぐに元の場所に戻ります。その戻り方が非常に速いのに驚かされました。

雀たちは男の子の動きを見て、自分たちに全く危険はないと確信しているように見えました。雀が人間を馬鹿にしていると見えるのですが、その雀たちの判断の的確さに恐れ入ったという気持になり、水族館で思いがけない勉強をさせられたと、強く印象に残りました。これが標題に雀が入ってしまった理由です。

| | コメント (1)

2017年4月24日 (月)

京都動物園

~ おさむの鳥の目205

先日、テレビを見ていたら、京都動物園についての話が放映されていました。京都動物園は日本では有名な動物園だそうですが、以前は、歴史の古い動物園(日本で2番目)として知られていただけのものでした。

ところが、近ごろ、展示方法に工夫が加えられて、入園者が倍増したので話題になり、テレビでも採りあげられたようです。

京都動物園の弱点は面積が狭いことで、これが改善の最大のネックでした。そこで、この問題を打開するために採った手段が、高さを利用することだと言います。代表的なのが、キリンを見るのに、キリンの頭より高い位置から見るようにしたことです。

通路を高い位置に設け、観客が歩いて移動しながらキリンを見るようにしてあります。キリンを飼育する建物は当然のことですが、高さがあるので、その建物の外側の廊下を歩きながら窓から中を見下ろす形になっており、そのまま歩いて行くと、廊下は建物を離れて、空中を進むことになります。

もちろん、地上から階段を昇って高い位置にある廊下に上がるようにもなっていますが、入園口の建物の2階部分から進んで行くと、キリン舎の高い位置の廊下に自然に繋がるようにもなっていますので、この場合は、階段を昇る労力が省け、自然に高い所に居ることになります。

こうして、人間が高い位置にいてキリンを見ると、キリンが背の高い樹の葉を食べる様子をまじかに見ることができるほか、キリンの睫毛が意外に長いことを改めて実感することにもなります。

私は動物園が好きで、一人で何回も行っていますので、上記のことは十分承知していたのですが、テレビで説明を聞くと、よりよく納得することが出来ました。

高さを利用することで注目されている仕組みは、猛獣館にもあります。トラの檻が三つあるのですが、それらの檻を繋ぐ通路が頭上に作ってあるのです。ですから、人間の頭の上をトラが歩くことになります。これは、ほかの動物園と比べても珍しいそうです。

私が見ているときには、トラが上を歩く場面には行き当たらなかったので、残念に思っていたのですが、今回、テレビで見ることができました。

私が久しぶりに動物園に行かねばと思ったのは、京都動物園に象が4頭やって来たという話を聞いたからです。雄1頭、雌3頭というグループが自然の中では望ましい組み合わせだそうで、今回はそういう形にしたというのです。

そして、展示も自然の姿が見られるようにしています。観客に近い所にプールが作ってあり、象が勢い良くプールに突っ込みます。残念ながらテレビで見ただけで、最近、行った時はプールの前で餌を食べていただけでした。象は鼻を使って上手に草を食べます。

話はかわりますが、動物園の東側には、琵琶湖疏水記念館があります。この記念館の出口のすぐ前に動物園の東の入り口があるという位置関係になっていますので、動物園に行くと必ずここを見ます。そして、子供の時に、実際に動いていたインクラインを思い出します。

| | コメント (1)

2017年3月24日 (金)

太郎坊の井戸の今と今後

~ おさむの鳥の目204 ~

昨年9月に「太郎坊の井戸その後」という題のエッセイを書きました。「太郎坊の井戸」については以前に採り上げたことがありましたが、昨年、久しぶりにその地域に近づくと、様子が少し違っていると感じました。

庭に「太郎坊の井戸」という名前の井戸があった家が、取り壊されて改築される様子なのです。あわてて井戸はどうなっているのかと見ると、井戸自体は以前の位置にそのまま在り、井戸を覆う屋根も残っていました。

「太郎坊の井戸」については、3年前に書いたエッセイでは次のように説明しています。太郎坊の井戸は、ありふれた街角に並ぶ普通の民家の庭にあり、何の特徴もない井戸ですが、ただ、傍らに「太郎坊の井戸」と書いた石柱が立っています。しかし、それは、あまり人目を引くものではありません。

一方、「太郎坊」は、ちょっと有名な天狗の名前で、江戸時代の天狗番付では、一番は愛宕山・太郎坊、二番が比良山・次郎坊、その次が鞍馬山・僧正坊という風に書かれているということです。また、「是界(ぜかい)」という謡にも「太郎坊」の名前が出てきます。

昔、中国に是界(ぜかい)という大天狗がいて、威張っている仏教の僧侶を懲らしめていましたが、その是界坊が日本にやってきて、「比叡山の僧侶をやっつけよう」と日本の天狗に持ちかけます。その持ちかけられた相手が太郎坊でした。こう見ると、太郎坊は中国でも有名だったと言えそうですが、そうは言えません。「是界(ぜかい)」という謡は日本のものだからです。

そのことは別にして、太郎坊という天狗は有名ですが、「太郎坊の井戸」は地元でも知っている人は少なく、本当に無名の存在でした。ところが、今になって、急に目立つ形に変貌しました。

百年ほど経つ古い家屋が取り壊されて、その跡に鉄筋コンクリート4階建てのマンションが建てられました。建物は敷地の南寄りに建っていて、北側は、車が数台止る駐車スペースになっており、道路との間には、和風の風格のある塀が建てられました。

この塀は、瓦葺きの古風なもので、取り壊される前の旧家にあった塀と同じデザインです。鉄筋コンクリート4階建てのマンションとの取り合わせは意外なものですが、もちろん、「太郎坊の井戸」を意識したものと思われます。

塀の中ほどは、車の出入りのために広く開けてあり、塀の東部分の内側には、背の高い石の灯篭を含む、旧庭の一部が残されていて、塀と共に日本庭園の風情を残しています。塀の西部分の内側には、主題の「太郎坊の井戸」があり、昔からあった屋根が取り払われて、新しい白木の屋根が新設され、たいへん美しくなっています。

その「太郎坊の井戸」の在る部分の塀の外側には、二つの表示板が貼り付けられていて、一方には太郎坊の井戸」の説明が書かれています。そして、もう一方の表示板には、「with 太郎坊」という文字が大きく書かれています。多分、これがマンションの名称なのだろうと推察しています。

せっかく意味ありげな名前をつけられて、長年続いてきた井戸ですから、今後どうなるのかと気になっていたところ、現在は、上述のような形が確定し、今後、50年はこの形が保たれると、すこし安心しているところです。

| | コメント (3)

2017年2月24日 (金)

白浜2題

~ おさむの鳥の目203 ~

南紀白浜は、関西ではよく知られた温泉地です。大阪に住んでいた私の伯母は白浜が好きで、よく保養に行っていました。そのため、大阪の人が好んで白浜へ行っていたという印象が残っています。私も白浜へは何回も行っていますが、初めて白浜へ行ったのは学生の時で、高校以来の親友で工学部の学生だった人に誘われて、大学関係の宿泊施設を利用し、二人連れで行きました。

ところが、泊まった日に、運悪く台風がやってきて、九州から瀬戸内海を西へ進み、その後の進路が分からないという予報で心配しました。後から知ったことですが、台風が二つに別れ、その一方が白浜を直撃したのです。

翌日は晴れて、外出もできたのですが、バスは運行しておらず、結局、歩いて千畳敷や三段壁を見に行きました。三段壁は非常に高い位置にあるのですが、台風直撃の翌朝ということで、大きい波が押し寄せ、高い処に立って見ているわれわれの頭よりも遥かに高い位置まで、波しぶきが上がるという壮観だったのを覚えています。

白浜には何回も行き、南方熊楠記念館へも行っているのですが、思い出すのは、台風の直撃です。60年も前のことですが、今も、昨日のことのように鮮明に思い出します。

もう一つ、白浜に泊まった珍しい経験があります。奈良に住んでいる友人と、京都の二人、計3人で旅行することが多く、その時も奈良の人が運転する車で紀伊半島を海岸沿いに一周しました。そして、結果としては、白浜に一泊したのでした。

しかし、当初の計画では、熊野市に2泊して白浜には泊まらないことになっていました。ところが、奈良の人の提案で、計画を変更して、白浜に変えたのです。理由は、提案者の書道の先生が、白浜に、別荘のように使える部屋を所有しておられ、その部屋を他の人にも貸せるシステムになっているので、そこに泊まらないかという話があるので、ということでした。

私は、別荘代わりの一室というシステムは初耳でしたが、利用させてもらえるなら、珍しいことなので、経験のためにと、それに賛同しました。行ってみると、ホテルのフロントのような受付があって、使用させてもらう側としては、有料で部屋を借りる、ホテルに似た形でした。

建物内に、概要は銭湯に似た温泉施設もあり、共同で利用するようになっていました。セルフサービスの部分もあるが、温泉付きの宿泊施設です。食事は外食にしましたが、1~2年前に、同じ3人で白浜に泊まって夕食を食べた和食の店が近くにあったので、この点も順調でした。

温泉地に別荘を持つには費用が嵩むので、合理的にそれができるビジネスが工夫されたのではないかと、推察したのですが、当たっているのかどうかは、未詳です。

ところで、白浜については以上の通りですが、先に、熊野に2泊の予定であったと書きました。何故、同じ場所に連泊する計画であったのか、これについて、私としては少々の思い入れがあります。

このような珍しい計画になったのは、同行3人の中の一人(私より10歳年長の方)の、「一人で一日中太平洋を眺めていたい」という希望によるものでした。その間、他の二人はほかの観光地を見てくるという設定でした。

上述の通り、実際には、変更になってこの予定は実行されなかったのですが、私なら、「一日中一人で太平洋を眺める」ということをどう考えるか、丸一日という時間を使ってそれをする意味をどう見出すのか。今も気になっていて、白浜と関連させて思い出します。

| | コメント (1)

2017年1月24日 (火)

那智勝浦町の図書館

~ おさむの鳥の目202 ~

先月、用があって和歌山県の新宮へ行き、その夜は隣の紀伊勝浦に泊まりました。翌日、10時にチェックアウトした後、時間があったので、どこか行くところはないかと探したところ、幸い「和歌山フリーWii-Fi」が在ってインターネット接続が出来、図書館が見つかったので、出かけました。

勝浦は漁業の町ですから、先ず、大きい公設の市場が現れ、その向かい付近に那智勝浦町役場、そして、少し歩くと大きい郵便局、やがて消防署があって、その隣に図書館がありました。大きい建物ではありませんが、3階建てのビルでした。

このように書いてくると、大きい建物は、公営のものが多いように思われます。地方都市の一つの典型かも知れません。図書館には、この地方の資料を見て纏めるための部屋(そう書いてありました)というのがあり、ほかには、図書を閲覧する部屋や自習のための部屋というのがありました。

折角ですから、地方の資料が集めてある部屋に入れてもらい、その部屋に備えつけてある机を使って、メモを取ることが出来ました。

書籍は多数あり、和歌山県に関するもの、和歌山県内の各市に関する一連の書籍が多く、それらに並んで目に付くのが、南方熊楠についての本でした。

南方熊楠は著名な人ですから、説明はしませんが、私の記憶に残っているのは、昭和天皇に粘菌類の標本を差し上げる際にキャラメルの空き箱に入れて献上したエピソードです(昭和4年6月、熊楠63歳)。

南方熊楠については話題が多いのですが、今回、この文章を書くにあたって、いくつかの話を読みました。それらの中で一番おもしろいと思ったものを一つご紹介します。

それは、熊楠が昭和天皇にご進講したとき、昭和天皇が机を押さえて机の匂いを嗅ぐような仕草をされたという話です。真相は、熊楠が匂いの話をしていて、この匂いを嗅ぐと、ご婦人が我慢できなくなると言った時、天皇は、ご進講の中だから笑ってはいけないと思われたのか、机を押さえて笑いを堪えておられたのではないか、それが机の匂いを嗅ぐというように見えたようだという話です。

| | コメント (2)

2016年12月24日 (土)

稀有の書籍「一万年の旅路」から読み取れること

~ おさむの鳥の目201 ~

「一万年の旅路」の記述の中には、一万年前以降の出来事のほかに、この一族に伝わる昔話があり、前回は、その昔話の最も古い部分をご紹介しました。

「遠い昔、遠い昔、遠い昔・・・わが一族はゆるやかな群れをつくって暮らし、太陽がたまにしか見えないほど背の高い木々のあいだを縫って日々をすごしていた。それは暢気な時代。手を伸ばしさえすれば、何かしら熟れた果実に恵まれる時代であった。」

という言葉から始まり、やがて乾燥化が進み、森を離れて草地へ歩み出すようになって、先ず、飲み水を手に入れる新しい方法を覚え、食べ物の入手など、さまざまな創意工夫を重ねながら、うまく生き延びて後の時代につなげました。

「一万年の旅路」の最初の節の標題は、「どれだけそこに住んだかだれも憶えていないほど長居した土地」となっています。

そこには、その地を離れる前に一族がどのように暮らしていたかが書かれています。大きい熊に対抗するため先の尖った棒を作ることもその一つです。

そして、岩絵の誕生にも熊が関係しています。

あるとき、<長びと>がじっと座り込み、教え方について思いをめぐらせていました。すると、大熊がおとなしく立って壁によりかかっていてくれればどんなに楽だろうという考えがうかびました。心に<おとなしく立つ熊>の姿を思い浮かべては、どうしたらそうなるかを思案し、考え続けました。

そのうち、<長びと>は母なる大地に思いを向け、答えを乞うと、答えは「私をごらん。答えは私の中にあるよ」でした。そこで、彼が大地を見ると、その一部は黄色く、一部は赤いのがわかりました。それによって、一つでは不可能なことも、たくさんなら可能かもしれないという考えが浮かび、木苺と土とを合体し、白石灰と粘土を混ぜました。やがて、<おとなしく立つて、壁に寄りかかる熊>がみなの目の前に現れました。

著者は、これが一族にとって最初の岩絵だと書いています。

この岩絵の発明のほかにも、いろいろな技術革新の発祥の経緯が細かく書かれています。例えば、これこれと、私が書くことは出来ますが、ほかの人はどう読んでいるか、よい例がありますので、ご紹介します。

「最初に衣服を発見した話 、最初に『絵』を思いついた話 、最初に農業を思いついた話など、多くの興味深いエピソードが盛り込まれていきます。 」とあり、そのほかには「人間から体毛がなくなっていった話 」、「旧人との縄張り争い 」、「セックスと子供の誕生との因果関係の解明」などもでてきます。

これは、「小鳥ピヨピヨ」という名前のウエブサイトにポーラ アンダーウッド著「一万年の旅路」を紹介してあった中の一文です。

そして、その中に書かれている感想としては、「もうね、とにかく壮大ですよ。何万年も昔の、大自然の中で真剣に生きる人の息遣いが感じられるようで……何だかものすごく重大なものを読んでしまっているのではないか、という気持ちがぬぐえません。」とあり、私も同じように感じていると強く思っています。

| | コメント (1)

2016年11月25日 (金)

「一万年の旅路」の昔ばなし

~ おさむの鳥の目200 ~

前回に書いたように、「一万年の旅路」は標題の通り、一万年前からこれに続く一万年間の出来事を書いたものです。しかし、この本の中に、この一族に伝わる昔話があります。

今からちょうど1万年前に、一族はベーリング海陸を渡ってアメリカ大陸に来た後、たいへんな苦労の末、北米大陸の西海岸に到達します。そこには先住の民が居たのですが、隣り合う形で一族が纏まって住み着くことが出来ました。ところが、やがて、先住者から重大な申し入れがありました。その内容は、どこかほかの所へ行ってくれないかというものでした。

しかし、それを実行するためには、これからまた、長い道のりを歩いて、新しい定住地を見付けなければなりません。歳をとった人にとっては大きい負担であり、簡単に実行に踏み切ることは出来ません。そこで、交渉が行われ、老人たちだけはこの地に残ることが許されました。

こうして、一族は二つに分かれることになり、この機会に一族に伝わる口承を再確認することが提唱され、何日かかけて、それが行われました。

この結果、一族に伝わる昔のころ(10万年くらい昔)の口承史が後の世に伝わることになりました。そして、その内容は次のようなものでした。

「さて言っておくが、わが一族のはじまりは、<大海のほとり>の里(一族が地中海の西端と思われる地に居た時)よりはるか昔に遡る。それはあまりにも遠い昔で、だれ一人時を数えることもできないほど。であるにもかかわらず、われらのあいだには次のような物語がつたえられてきた。」

「遠い昔、遠い昔、遠い昔・・・わが一族はゆるやかな群れをつくって暮らし、太陽がたまにしか見えないほど背の高い木々のあいだを縫って日々をすごしていた。それは暢気な時代。手を伸ばしさえすれば、何かしら熟れた果実に恵まれる時代であった。」

このような言葉から始まり、やがて乾燥化が進み、森を離れて草地へ歩み出すようになり、新しいやり方を覚え、果物でなく、獣たちの群れを探すようになって、ゆるやかな群れで、ほぼ北の方角へ移動していくことになったということが書かれています。

読んでいますと、どうやら飲み水を手に入れることが最も重要であったようで、以前は降り注ぐ雨が木の葉や枝のつけ根にたまり、危険な地面に降りずに水を飲むことができたが、雨の降る回数が減り、水を飲むためには地上の水たまりを見つけなければならなくなったのです。

「そこで、一族のある者たちは大岩や丘などの高い場所を見つけ、ぐるりと遠くを見渡しては、水のありかを示す大きな獣(象と思われる)たちの群れを探すのであった。」という文章があり、これについて著者は原注に次のように書いています。

「高い場所を見つけるということは、たいへんな発見だった。本文からははっきり読み取れないが、私はこの表現を変えるべきでないと考えている。伝統的には、この部分はもっとも古い記述法である身ぶりをともなって語られた。それによって『まだ言葉をもたなかった』というメッセージが強調され、高い場所から遠くを見ることの途方もない重要性も伝わった。」

本文には、草地での生活が困難をきわめたため、多くの者は森に住み続け、最後には木々たち自身から振り落とされるはめになったなどいろいろなことが細かく書き残されています。この細かい部分をお伝えしないと、ことの真実性が理解され難いと思いますが、全部を書くことはできませんので、この程度にとどめ、後は類推してくださるようお願いします。

これが昔話の始まりです。この中で語られているように、一族の発祥の地はアフリカ大陸の森の中です。気候の変化から昔の生活が続けられなくなり、移動して、地中海の西端と思われる地に定住し、生活も安定、人数も増えて、やがてグループごとに分かれて、他の土地へ移動するようになったものと思われます。

この中で、東の方向に移動し、やがて黄河と思われる大きい川にそって東に進み、中国の東の海に達した一族が、この一万年の旅路の先祖だということになります。

| | コメント (0)

2016年10月25日 (火)

今頃また「一万年の旅路」

~ おさむの鳥の目199 ~

「今頃また」と書きましたが、これはほんらい無用の言葉です。「一万年の旅路」という話は、このエッセイでは今回初めて口にすることですから。

人類の歴史は永く、一万年を遥かに超えていることは間違いありません。しかし、語られているのは、考古学上の知識だけであって、当時の人がどのように生活していたかを書いた文書は存在しないと思っていました。もし、一万年前のことを書いた文章があったとすれば、その価値は極めて大きいと言えます。

ところが、ないと思っていたものがあったのです。普通の書店に売っている普通の書籍の形でです。「一万年の旅路」という書名で、「ネイティブ・アメリカンの口承史」という副題が付いています。アメリカで出版された本の日本語訳です。

最初に書店でこの本を見つけたときは、フィクションだと思いました。しかし、その本が置かれている棚の場所から考えて、まじめに人類の過去を語っているものと考えざるを得ません。

著者は、ポーラ・アンダーウッドというイロコイ族の系譜をひく女性で、1932年ロサンジェルス生まれ、大学で国際情勢論を専攻した後、首都ワシントンで30年以上海外援助等の仕事をした人です。

幼少期から父についてアメリカ北東部の先住民に伝わった長大な口承史を学び、上記の中断の後、42歳で口承史の英訳出版という本来の役目に戻ったということです。

私は偶然にも、この本を買い、熱心に読みました。内容は期待していた以上の価値あるものでした。そこで、この貴重な情報を友人にも知らせたいと思いました。10年ほど前のことです。そこで、当時、熱心に続けていた同期生のメーリングリストに、連載の形で書きました。

この口承史を残した一族は、一万年前に、日本の近くに住んでいました。推定される場所は、朝鮮半島が大陸に接する部分の東または西のところです。

一万年前に一族が「海辺の渡り」を目指すことになったのは、天災でそれまで住んでいた所に住めなくなったからです。この後の経緯を短くまとめると次のようになります。

一族の中には<長(おさ)びと>と呼ばれる人達がいて、昔からの有用な情報を伝えていたが、突然の地震による落石と津波で一族の大多数が死に絶え、人数は激減した。<長びと>で生き残った者も3人だけとなってしまった。

これから進むべき方向についての情報は少なかったが、その中に、「もし北の東の北へ行けば<海辺の渡り>に到り、そこを通って大海(おおうみ)の北を進むと<かなたに広がる大いなる島>へ達する」という言葉があった。

その後、4、5日かけて行くべき方向を探ったが望ましい答えは出なかった中、一人の女が口を開いてこう言いった。「私は目を北に向け、私とともに歩む者をつのる。それというのも、私は<海辺の渡り>をこの目で見て、それがいま渡れるかどうかを確かめたいからだ」と。

結局、南は暖かく北は寒いという理由で多くの者が南をめざし、極少数の者が上記の説に賛同して、北をめざすことになった。

このような次第で、一族は水没直前のベーリング陸橋にたどり着き、これを渡ることになるのだが、すでに陸が途切れている所もあり、非常に難渋したようだ。しかし、結果として、落ちこぼれなく全員が北米大陸に到達した。

この後、一族は、多くの困難を乗り越えて、一度、北米大陸の西海岸に達した後、東へ向かって旅立ち、長い年月をかけて、東海岸に到達した。しかし、そこには先住の者がいて安住できなかったため、反転して更に進み、最終的にはオンタリオ湖(現イロコイ連邦のある場所)にたどり着いた。

以上の通りですが、この話を書いたのは、10年ほど前のことです。その後、ネット上で、この「一万年の旅路」に触れたサイトを見付け、それを機会に、上記メーリングリストにもう一度この話を書きました。その時の標題が「今頃また『一万年の旅路』」でした。

今回は、何の気なしにパソコンの内容を整理していたら、偶然「一万年の旅路」の話が出てきたので、この話はできるだけ多くの方に知ってもらいたいと考えていたことを思い出して、上記の文章を書かせていただきました。そして、標題に勝手ながら「今頃また」と入れました。

| | コメント (0)

2016年9月24日 (土)

太郎坊の井戸その後

~ おさむの鳥の目198 ~

2年ほど前に「太郎坊の井戸」という題のエッセイを書いたことがあります。私は15年ほど前から、朝、ウォーキングをしています。行き先はいろいろで、「360°のウォーキング」と名づけてよいほどに、家を出てどちらの方向へ歩いてもふさわしい行き先があると、当時は考えていました。

 

現在は、少し絞られてきて、360°どちらへでもとは言えません。その結果、よく行く道は3~4箇所あって、しばしば行く道と、久しぶりに行く道に分かれてきます。先日、その久しぶりの地域に近づくと、様子が少し違っていると感じました。

 

庭に「太郎坊の井戸」という名前の井戸があった家が取り壊されて無くなっているのです。あわてて井戸はどうなっているのかと見ると、井戸自体はそのまま在り、井戸を覆う屋根も変らず残っていました。

 

いきなり「太郎坊の井戸」と書きましたが、2年前に書いたエッセイでは、「太郎坊の井戸は、ありふれた街角に並ぶ普通の民家の庭にあり、何の特徴もない井戸ですが、ただ、傍らに『太郎坊の井戸』と書いた石柱が立っています。」と紹介しています。

 

ここで「太郎坊」とは、日本一有名な天狗の名前で、平安時代から京都盆地北西の愛宕山に住んでいると考えられてきた大天狗です。この、街中の民家の庭にある普通の井戸に、何故、天下の大天狗の名前が付けられているのか、「その理由は分からない」というのが通説になっています。

 

そして、上記の通り周りの様子が少し変った、現在の「太郎坊の井戸」の傍らには、2年前に私が見ていた「太郎坊の井戸」と掘り込まれた石柱が、変らず以前の通りに立っています。

 

上に書きましたように、庭の端に「太郎坊の井戸」があった家は、取り壊されて工事中です。どうやら、集合住宅が建つようです。新しい建築中の建物と、残っている井戸の位置関係から考えて、家と庭は無くなっても、井戸はそのまま残されて、今までの位置に存在し続けるのではないかと推定されます。と言っても、見えている限りの情景から、私が勝手に考えたものであり、そう考える明確な根拠はありません。

 

せっかく、この地に伝えられてきた話と、歴史的資料としての価値は大きくないかも知れないが、現に残されてきた、そして、今も厳然と存在する実物があるのだから、これを後の世に伝えたいという願いはあります。

 

先に書きましたように、何故その井戸が「太郎坊の井戸」なのか、その経緯は分からないのですが、地元の情報誌にはときどき取り上げられ、話題にされてきて、今も井戸の横には、その記事の一部が拡大コピーされて、掲示されています。

 

今後、この井戸がどのように扱われるのかわかりませんが、時代につれて街が変っていく中で、この井戸のような特定の遺跡があると、街の変化を示す道しるべとして、一定の役割を果たすのではないかと考え、見守っています。

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧