カラフルエッセイ  おさむの鳥の目

2019年9月26日 (木)

「鳥居形」を広沢の池に映した写真

 

京都では、毎年8月16日が五山の送り火の日、今年も先月、これに関連したエッセイを書きました。珍しく、テレビで明治時代以前の送り火について、解説があったので、それを題材にしたものでした。

その後、9月に入って、自宅近くの散発屋さんに行ったところ、珍しい話を聞きました。広沢の池に人が集まって、写真を撮っていたというのです。何の写真かというと、「鳥居形」だというのです。京都五山の送り火の中で、位置的に京都盆地の西の方には、この「鳥居形」以外にありませんので、8月16日に
嵯峨野近辺で、そのような話が出てくるのに不思議はありません。

以前に、ずっと前のことですが、私も8月18日に広沢の池に行ったことがあります。その時は灯篭流しをしていて、人が大勢集まっていました。灯篭の量は多く、岸に居ても暑さを感じるほどでした。そして、夜のことで当然ですが、カメラを持っている人はなく、写真とは無関係でした。

今回、写真という言葉を聞いても、無関係としか考えられません。鳥居形が灯される位置と、広沢の池では距離が大きく離れていて、両者の位置関係、高さの関係からしても、これを結びつけて考えるのには無理があると思わざるを得ません。

このように、その話を聞いたからと言って、関心を持つということはありませんでした。ところが、待てよ。簡単にありえないことと無視してよいものかどうか。直ぐに疑問が出てきました。私は写真に興味を持っていません。友人に熱心な人が居て、関心はあるのですが、技術の知識もなく、あまり真剣に考えたこともないのです。

しかし、今回の話は、実際に試みるとすればどうなるのか。無視する訳には行かないという気がして、一度本気で現場を見てみようと思い立ちました。広沢の池のその場所はよく知っていて、捨てておくことは出来ないという気が強くなりました。一度、現場を見てみようという考えが強くなり、実際に昨日行って、見てきました。

結果は、低い位置にカメラを構えれば撮れると考え、興味深い結果が得られるのではないか。という結論です。広沢の池そのものに興味があり、その考えに引っ張られたのかも知れません。

 

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2019年8月24日 (土)

「い」の字1文字の送り火

~ おさむの鳥の目 232 ~

8月16日は京都五山の送り火、東から「大」、「妙法」、「船形」、「左大」、「鳥居形」の順に火が着きます。自宅からは多くは見えないので、毎年、テレビで見ていて、着順が最後の「鳥居形」になると自宅を出て、200メートルほど歩き、生の形で「鳥居形」を見るというのが例になっています。

今年も例年のようにテレビを見ていたところ、今年は、珍しく、明治時代以前の送り火について、解説がありました。

明治時代以前は、上記五山以外にも送り火があり、毎年実施されていたのですが、現在まで残っているものはなく、調べてもその詳細は判らないということです。数は13だったと伝えられています。

私の自宅は京都盆地の西の方にあって、上記古い送り火があったと言われているものと、比較的近い場所にあり、話として少しは聞いているという関係になりますので、少しは関心があるといえます。

時代が経つと、土地の事情もかわり、昔のものはだんだん失われていきます。観空寺谷とか、松尾とか、子供の時に知っていた地名もありますが、実際には昔のように残っているのではなく、現地に行ってみても、現在では個人の敷地になっていて、表門から入れてもらって、裏門から出してもらわないと行くことができないという話を聞いたこともあります。

先日のテレビで取り上げられていたのは、「い」という文字、1字だけで出来ていた送り火の話でした。どうやら、昔行われていて、今はない、という送り火の中では最もよく知られているものだということです。

「い」というのは何の「い」かと言いますと、「いちはら(市原)」の「い」だそうです。出町柳から鞍馬へ行く電車の線に「市原」という駅がありますから、場所は判りまります。京都盆地の北の方です。

この市原に「い」という送り火があって、毎年、火が着けられていたそうです。京都市内から、その「い」を見るのに、手前にあって妨げになる森があるが、それが官有地で、勝手に切ることが出来ないなど困難があって、それも続かない事情のひとつだったとも言われているそうです。

この「い」が話として、比較的よく伝えられている理由の一つに、送り火だけでなく、この行事と対になっていた踊りがあって、その踊りが比較的によく伝えられていたことから、この「い」の送り火が後世まで知られてきた理由の一つだとも言われているそうです。

私の家は、嵐山の「鳥居形」に近く、子供のときは、二階の北側の窓を開けると、正面に「鳥居形」が見るという位置関係でした。その上、姓が鳥居で、何となく縁が深いという気持もあり、夏の京都五山の送り火は少しばかり気になっているという存在です。

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2019年7月24日 (水)

敬老の日

~ おさむの鳥の目 231 ~

「敬老の日」という標題を書いて、ちょっと申し訳ないなという思いがするのは、自分が老人であると考えるのに少しばかり躊躇があるからだと思っています。読んで字のごとく「敬老」ですから、老人が敬われる訳で、自分の方から、そういう意味合いの言葉を言い出すのは少し気が引けるということです。

しかし、冷静に考えると、実際には実年齢からすると十二分に老人なのに、それに躊躇を感じるというのは誠に厚かましいと言うほかありません。そこで、謙虚に「老人が老人のことについて書いている」という現実に立ち返って斎整と話を進めることにします。

今年の敬老の日は、9月16日(月)です。これは昨年印刷されたカレンダーにも印刷されていて、何の問題もないのですが、以前に祭日の変更があったという事情もあり、誰もが十分に理解しているとは言えません。私が思い違いをしていたのは、「9月15日ではなかったか」というものです。

2002年(平成14年)までは9月15日だったので、今もその記憶が残っているのでしょう。平成14年というとずいぶん前のことですが、「敬老の日は9月15日」という記憶は意外に根強いものらしいです。

その理由は「老人福祉法で9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間」と決めていることもあると思います。このように「敬老の日は9月15日」と印象強く受け取られているのですが、最初にこれが決められた経緯を考えると、それほど明確な謂われは存在しないと、私は考えています。

兵庫県多可郡野間谷村で、1947年(昭和22年)9月15日に村主催の「敬老会」を開催したのが「敬老の日」の始まりであるとされており、特に歴史に残るような大きいイベントではないのです。現在も、同村の八千代コミュニティプラザの玄関脇には「敬老の日提唱の地」と刻まれた石碑が建っていて、この事実を伝えていますが、私は逆に大イベントでなかった証明になっていると思っています。

ほかに、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日が593年9月15日であるとして、敬老の日をこれに由緒づける主張もあるそうですが十分な資料があるわけではありません。それに、考えてみると、「敬老の日」が一大イベントでなければならないという事情はないのです。

上記「兵庫県多可郡野間谷村の敬老会」の通り、「村主催の敬老会」でよいのです。それを上回る大規模な、全国的に有名な催しがあったと言う必要はまったくないと私は考えています。村に「敬老の日提唱の地」と刻まれた石碑が建があるというのは、村としては、そのように言いたいという気持のあらわれで、それはそれでよいのです。

ところで、上記を書くについて、「国民の祝日に関する法律」その他、必要事項をいくつか調べましたが、予想に反して、祝日に関する定めは多岐に亘り、極めて煩雑です。私自身も、理解が十分でないと思うこともあり、一度は、標題を「国民の祝日」に変えて、必要事項を整理して書いてみたいとも考えました。

しかし、そのためには、多くの言葉を費やす必要があり、本稿はこれで納めさせていただきたいと考えます。

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2019年5月26日 (日)

古琵琶湖  

~ おさむの鳥の目 230 ~

前回の「一級河川琵琶湖」も聞きなれない言葉でしたが。今回の「古琵琶湖」も同じです。ごく普通の言葉なのですが、この言葉だけでは、何を言おうとしているのか、直ちには判然としません。

元々、琵琶湖は今の位置にはなく、三重県の旧大山田村(現在の伊賀市)にあったということですから、三重県時代の琵琶湖を指すのだろうとは推定できます。

世界で有名な湖というと、まずあげられるのがバイカル湖。広い、古いという点で及びませんが、琵琶湖はそれに比べられる存在です。大山田湖があったのは約400~320万年前と言われていますので、バイカル湖とは一桁違がいますが、現在の琵琶湖の1万年からすると大昔です。

この大山田湖はいったんなくなっていましたが、湖は約300万年前に再び現れます。これが②阿山湖で、大山田湖からは北へ移動しています。やがてこれも次第に埋まり、また北側に別の湖ができます。③甲賀湖といい、深い湖だったといいますが、やがてこれは土地の隆起によりなくなったのです。

そして、甲賀湖の後に出来たのが、④蒲生湖で、これが約200万年前だそうです。この時は、水量が少なかったのか、湖というよりも、沼沢地と呼ばれるものだったようです。川は、蛇行河川になったり、蛇行河川の後には三日月形湖が出来るというような形で、周辺に沼沢地を形成していったと表現されています。

またこの頃、湖水は古瀬田川を通って、古桂川を入れたあと奈良盆地に流れ込み、古奈良湖を形成した時だったといいます。この水は大和川を通して大阪湾に注いでいたそうです。当時の水はずいぶん長い距離を流れていたものだと思います。

偶然ですが、前回、自宅近くを流れる川は、「一級河川 桂川」と書きましたが、「古」桂川と言う名前で今回も登場、何か縁があるような気がしています。

河川の時代には、湖東地域が隆起し、逆に、堅田や京都方面の山が沈降しています。その結果、湖が、徐々に北上、そして、現在の琵琶湖の状態に近付いていきます。まず、琵琶湖の南西部分が傾斜し、⑤堅田湖なるものを形成します。この時の堅田湖は、今の琵琶湖に比べてかなり小さい規模でした。

堅田湖の時代からは、琵琶湖の湖東方面からも、徐々に水や土砂が流入し、水量も増えて、今の琵琶湖に到っています。この⑤堅田湖や⑥琵琶湖の時代には、湖から出た水は、今の瀬田川や淀川から、大阪湾に注いでいたものと考えられています。

ところで、三重県にあった頃の琵琶湖の遺跡について考えるとき、忘れてならないのが、象、ワニ等の足跡です。これらは現存しているので、昔は三重県にこれらの動物が生息していたことに間違いはありません。

当時の地球は現在では考えらればい気候でした。その理由はノアの洪水以前の地球には、水蒸気で出来た天蓋があって、温室のように気温が高かったのです。これらについては考えるべきことが山積していて短時間では対応じきれないので、今回はここまでにさせていただきます。

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2019年4月25日 (木)

一級河川「琵琶湖」

~ おさむの鳥の目 229 ~

標題がおかしいと思われる方があるかも知れません。しかし、「琵琶湖」は、法律の上では「一級河川」なのです。自宅近くの嵐山には、渡月橋の横に「一級河川 桂川」と書いた長方形の看板が立っていますが、それと同じなのです。

琵琶湖が川とは信じられないと、思われる人がおられるらしく、ネット上には、そういう看板があれば見たいという書き込みもあり、上記「一級河川 桂川」と同じ形の「一級河川 琵琶湖」と書いた看板の写真が載っているほどです。

琵琶湖は、日本で一番大きい湖で、下流の府県にとっては命綱とも言うべき貴重な水源です。このため、関西では次のような笑い話が、よく語られます。「そんな事を言うなら、琵琶湖の水を一滴も使わせないぞ」と滋賀県の人が言うと、「参りました」となるという話です。

ところが、これは、とんでもない誤解なのです。琵琶湖に流れ込む川は百以上と沢山あるのに、流れ出る川は、瀬田川一本だけ。ほかに、京都へ流す琵琶湖疏水があるが微々たる量です。流れ込んだ水を溜め込んで外へ流さないと、湖周辺は洪水になってしまいます。

このような次第で、上記笑い話が成り立たないことは明確です。もし困る人があるとすれば、京都に住んでいる上水道の利用者だけですが、残念ながら、水を流す権限を持っているのも滋賀県でなく国です。同じく、瀬田川に流す水の量を決めるのも滋賀県でなく国ですから、滋賀県の人が、下流の人に上から目線でものを言うことは出来ません。

笑い話というともう一つ次のような議論があるということです。それは、「そもそも、滋賀県の中に琵琶湖があるのか、琵琶湖の周りに滋賀県があるのか」という話だそうです。私にはこのような議論が存在すること自体が信じられません。

というのは、このような考え方が出て来るのは、大昔から変わらず現在の地形が存在していたことを前提にしているのですが、事実はそうではないからです。昔は、琵琶湖は滋賀県にあったのではないという事実を知れば、このような考えが出て来るはずはないのです。

昔々は、琵琶湖は滋賀県でなく、三重県大山田村にあったのです。それが一度なくなって、約300万年前に再び現れ、またなくなって位置を変えてまたまた現れ、だんだん北へ位置を変えたのです。最後に現れたのが現在の堅田付近ということです。そして、当時の琵琶湖は現在の琵琶湖とは比べものにならない小さささでした。したがって、現在の滋賀県と琵琶湖の関係とは状況が違い過ぎます。

琵琶湖の古い時代のことに話が及びました。しかし、その古い時代を別にして、現在の琵琶湖も湖として十分に古いのです。古い湖を古代湖と言うのだそうですが、琵琶湖は古代湖です。古代湖の定義は、時間で言えば1万年、僅か1万年経てば古代湖なのです。

そしてもう一つ、古代湖というためには、固有の生物が住んでいることが条件ですが、琵琶湖には、魚と魚以外にもの固有種が生息しているので、古代湖であるということです。

京都の人は琵琶湖とは縁が深く、子供の時に水泳に行ったことを始め、若者の時代、成人して家庭をもってからも、いろいろと関係が深く、人生の上で、琵琶湖を切り離して考えることは出来ません。

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2019年3月24日 (日)

元号の決め方

~ おさむの鳥の目 228 ~

改元の時期が近づいてきました。世間でも話題になりつつあるように思います。何年か前に、新元号の決め方について学者の話を聞いたことがあります。内容はあまり覚えていないのが残念です。そこでウエブ検索で調べたところ、大体のことがわかりました。

新元号は、5月1日からで、4月1日に閣議決定、即日発表されることが決まっています。『平成』から変わる、元号が何になるのかが気になりますが、そもそも、この元号というもの、 ・誰が決めているのか ・決めるにあたって何か条件はあるのか? 

元号はどうやって決定するのかですが、次の通りです。
直近で行われた『平成』の時の流れで見ると。

1 数名の学者に新元号の考案を依頼
2 有識者会議において議論が交わされる
3 内閣官房長官・法制局長官が複数の原案を選定
4 有識者懇談会を経て
5 衆参両院の正副議長に元号案が説明される
6 閣議において新元号制定の政令を決定。

という流れでした。
元号の決め方は、「数名の学者が元号考案を担当し、その候補の中から、閣議で新元号が決定される。」と言えます。また、『天皇の即位継承があった時のみ、元号が変わる』ということも書かれています。

このように、「数名の学者に新元号の考案を依頼」というところから始まりますが、一番面白いのは、原案の作成ですから、そして、採用されることはないのですが、考えるのは自由ですから、最初の案を自分で考えたいものという思いが断ち切れません。

自分が原案を考えるのに相応しい人間か、という問題はありますが、自分では「さわしい」、十分に資格があると思っていますので、自分の案を考えることにしました。

第一に、八十数年も生きているのだから、一言くらい言わせてほしいという勝手な考えです。これは理屈には合わないのですが、害にはならないので、良いか、という思いです。

もう一つ、理屈にならない妄言ですが、京都の嵯峨野に生まれて、長い間京都の西方(嵯峨)の地を見続けてきた者だからです。大覚寺が嵯峨御所と言われて、嵐山辺りが政治的に重要な地位を占めたいた昔に、嵯峨の情勢に詳しいとされていた地域に生まれ住み続けている者だからだと思っています。

客観的には、京都市右京区嵯峨野○○町と名づけられている土地に生まれ育った者だからです。現在では実質的意味はないのですが、上記「京都市右京区嵯峨野○○町と名づけられている土地」は、十か町足らずの少数の土地ですが、南北に少し長い面積を有していて、京都の街の人たちから言って、その辺りの住民は特に嵯峨の情勢(人の往来)に詳しいと目されていたということです。昔のことを言い立てて恐縮ですが、過去にはそういうことがあったと伝えられています。現在では、理屈にならない言葉を並べて申し訳ないことです。

それから、改元について申しますと、基本的には、1979年に制定された『元号法』という法律に基づいて行われるのですが、いくつか、決まりごとが存在します。

元号を決めるにあったっては、
・国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
・漢字2字であること。
・書きやすいこと。
・読みやすいこと。
・これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと。
・俗用されているものでないこと
以上のように言われているということです。

そこで、考えるのは自由だというところにたち帰って、純粋に、こういうのがよいという考え方で、作り出すとすると、格別制約はないのだから、自分の好みだけで考え出せばよいことになります。

中国や日本の過去の文章からの出典に拘ることもないので、全く制約なしに考えることにします。制約なしにと言われて、困るのは、なぜその言葉がよいのかを説明するのが困難ということです。昔のこれこれの文書に「○○」という使われ方がされていたから相応しい言葉だということが言えないのです。

そこで、「○○」は、この際、新元号として最も相応しいという理屈を考えねばなりません。たいへん難しいことです。新元号の発表までに、まだ少しの日が残されていますので、智慧を絞って考えてみようと思っています。

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2019年2月24日 (日)

京都に津波はないと考えてよいか

~ おさむの鳥の目 227 ~

地震、雷、火事、親父、古い言い方ですが、怖いものの筆頭が地震です。地震と聞くと気になるのが津波です。「この地震による津波はありません」というアナウンスがあると安心するのですが、一方で、「京都には津波はないからな」という考えが頭の片隅に出てきます。

しかし、私の場合、本当にそう考えてよいのかなという思いは、いつも付いてきます。ということは、京都にも何時かは津波が襲ってくるかも知れないという心配をしていることになります。

京都は昔の人が、いろいろ考えて、災害が少ないからという判断もあった上で都を定めた。だから、他の土地に比べて災害は少ないのだと教えられてきたように思っています。しかし、そういう漠然とした安易な考えを持ち続けていてよいのかという疑問はありました。一度、自分でよく考えてみようというのが今回のテーマです。

「京都には津波はない」という考えに対して、日本列島の本州は、琵琶湖を境に東西に千切れるという言葉が頭の隅にあるからです。そこで日本列島の成り立ちについて調べると、大きく言えば、日本列島は、ユーラシア大陸の東端の部分が大陸から離れてできたらしいです。約3000万年前のことです。

もう一つ、それより東に別の塊があって、この二つがくっついて一つになった。その場所は、今の地図で言えば、北陸から東海道・関東に亘る地域です。この部分は地図で見ると、細長い日本列島の中では最も太い(幅広い)部分です。

こう見ると、日本列島がちぎれて、東西に分かれるという想定はあまりしなくてよいようです。そして、この日本列島ができたのは非常に古い時代のようです。時間について「非常に長い」というのは日常あまり考えないので、表現として頭に浮かぶのは「神代の時代から」くらいです。

今、たまたま、「神代」が出てきましたが、神様は肉体を持たない存在です。人間でも肉体を持たない存在になれば、長い時間を生きることができます。神様になるということです。私の少ない知識から言えば、「弘法大師空海」とか「天神菅原道真」が考えられます。

歴史上の人物だけでなく、現代人でいえば、「出口なお」、「出口王仁三郎」などの名前が出てきます。数えれば、もっと沢山の名前が挙がるでしょう。私はこの方面のことを語るのは適任ではないのでさし控えますが、地球の歴史を言うには普通の人間の寿命は短過ぎます。

地球は、巨大なマントルの塊の上にある地殻の表面に人間等が住んでいる物体と言えますから、考えればひ弱なものです。しかし、時間の要素を入れると、地球の歴史は長く、変動があるのは極々稀なできごとといえます。人間の寿命はごく短いので、あまり気にすることはないと言えるのかも知れないと、今は考えています。

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2019年1月24日 (木)

頭に浮かんだアイデアをメモするか

~ おさむの鳥の目 226

一般に、頭に浮かんだアイデアはすぐにメモするのがよいと推奨されているように私は考えています。しかし、これは私の思い込みであって、それが正しいかどうかは分かりません。

一般論は別にして、このような考え方があることは間違いありません。そこで、自分はどうであったかとふり返って考えると、私はこの考えに反対でした。新商品開発に関係していた経歴からすると、常にメモ帳を用意していて、思いついたアイデアは即座に書き留めるようにしていたと言ってもおかしくな状況だったのですが、事実はその反対でした。

やや不遜な言い方になりますが、私は自分の考えに自信をもっていて、考えれば、考えは次々出てくると思っていたようです。これは考えることの内容にもよるとも言えます。新製品の内部の構造などを、あれこれ考えるので、考えれば次々案が出てくると思っていたのです。

しかし、残念ながら案は次々出てくるが内容は同じようなもので、進歩がありません。毎晩、同じことを同じように考えて、画期的なものは出てこないという状態だったのです。これに対抗して、「途中からは考えない。ものごとの最初から手を抜かずに一つ一つを真面目に考えて行くようにする」のですが、画期的なものは滅多に出てこないのです。

近頃、テレビドラマで新製品開発の話がよく出てくるように思います。以前に自分がしていたことに似た状況が現れますので、それに関連してあれこれ考えます。それに引っ張られて、自分がしていたことも思い出すのですが、今や、すべて遠い昔のことです。

私が発明をしていたのは35歳くらいの時です。もう50年くらいも前のことになります。その後、商品開発のために身につけた「特許に関する知識」を使って仕事をしていた時もありますので、新製品開発には今も興味があります。

興味はありますが、自分自身が商品開発から離れたのは何十年も前のことです。どのような離れ方をしたか。これは重要なことです。個人の興味ということからすると、新しい「もの」や「事」を考えるのはたいへん面白い仕事です。普通は自分から離れていくのは難しいことです

そこで、私が採った方法は、自分一人の判断では事業を進めないことです。誰か自分が費用負担してこの開発を進めるという人がいない限り前に進めないことでした。これは 正しい方法であったと考えてよいようです。結果がよかったと言えると思うからです。

しかし、まだ現在進行中です。こうであったと言うのは控えたほうがよいようです。いろいろ経験を積んできましたが、まだ未熟な存在であると言うべきだと考えています。したがって、自分一人の判断では前に進めないという考え方が正しいのかどうか、分からないと思っています。

ただ、言えることは、このようにしてきたから大きい失敗はしなかったようです。その代わり、大きい成功も少ないです。自分が費用負担をして、全責任を負ってこの開発を進めるという強力な人が居られた時にだけ、前に進み、それなりの成果が残っているというのが実情です。

商品開発は好きだったが、そして、熱心に取り組んだ時もあったが、発明にこだわらず「発明以外のこと」も考える生活をしてきて、それはそれでよかったと言うのが現在の心境です。

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2018年12月26日 (水)

戦時少年の考え方

~ おさむの鳥の目 225

「神武、綏靖、安寧、懿徳、考昭、考安、考霊、考元、開化、崇神・・・」は歴代天皇の名前で、われわれが小学生の時代は、神武天皇以降の天皇の名前を暗唱している人が大勢いました。そして、それぞれの天皇陵では、参拝者が求めれば御朱印帳に印を押してもらえる仕組になっていました。

私も御朱印帳を買ってもらって、1冊持っていましたが、その御朱印帳には不完全なところが1箇所ありました。その御朱印帳は、各ページの上半分にそれぞれの御陵の写真が印刷されていて、下半分が白紙になっており、そこに印を押すようになっています。

ところが、ひとつのページには御陵の写真が印刷されておらず白紙のままになっていました。これは大変奇異に感じられ、なぜそのような形になっているのか気になります。

実はそのページは「第98代長慶天皇」の御陵で、何故写真がないかと言いますと、簡単明瞭、御陵がなかったからです。皇室崇拝が盛んであった当時のことです。御陵のない天皇が存在するとは、少年の頭で理解できないことでした。

そこで、真面目な軍国少年であった私が考えたことは、天皇陵がないままというのはおかしい。何らかの縁をたどって御陵の場所を特定し、その場所に御陵を建てればよいと考えました。これは、真実を追究しないで安直に形だけを作ってしまう遣り方です。

純粋に真面目なはずの少年が、簡単にこのような考え方をしたことについて、「いい加減な考え方」をしたものだと、当時は大いに気になっていました。

ところが、事実は私が考えた通りになりました。自宅近くの「京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町」に御陵ができたのです。JR嵯峨嵐山駅の南300メートルの所にある京福電鉄「嵐電嵯峨駅」のすぐ近くです。自宅から歩いて行ける場所です。

戦後何十年経って、変わらず今も御陵はあります。先日、近くまで行く機会がありましたので、久しぶりに御陵に行ってみました。御陵の佇まいはかわらず、事務所建物もありましたが、人は居られません。したがって、当然のことながら、御朱印を押してもらえる形にはなっておりません。

先に、「真実を追求しないで」という言葉を使いましたが、これは、私の考えの中での話であって、国はいろいろと調べた結果、このような結論に達したようで、調査のための組織も作られた経緯が読み取れます。

内容は細かい話で、二つの有力な考えがあったが、それではなく、上記に決まった。私の頭に残っているのは、長慶天皇に関係深いお寺がその場所にあったからというものです。

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2018年11月25日 (日)

京都市内から京都市内への学童疎開

~ おさむの鳥の目 224

平成も今年で終わることが決まっています。昭和はますます昔になりますから、今の内に昭和の時代の出来事を書き残したいと思います。

太平洋戦争当時には、いろいろと珍しい出来事がありました。学童疎開もその一つだと思っています。私は疎開には行かなかったのですが、1年年下の妹が学童疎開に行きました。学童疎開は、次世代を担う子供たちを空襲の心配のない、過疎地に移住させて将来に備えるという政策です。

これが理屈に合っているのがどうか、分かりませんが、単純に言えば、間違った考えとは言えないでしょう。そして、具体的には、都会の小学校から集団で田舎に移住したのです。

ここで珍しいのは、標記した私の妹の学童疎開です。私たちの小学校の所在地は、京都市右京区です。そして、疎開先は京都市左京区鞍馬貴船町でした。貴船は京都の観光地として知られた所ですが、戦争中のことですから、観光は関係ありません。

そして、貴船町は鞍馬山の麓の山間の場所ですから、空襲の心配はなかったでしょう。と言っても、京都市から京都市への疎開とは誠に考え難いところです。だが、実際にこういう形が出現し、一定期間継続したのです。

私はと言いますと、この形は一つの勉強になりました。1年しか違わないと言いながら、父兄ですから、疎開先に面会に行きました。同級生の弟さんが同じ形で疎開していましたので、二人一緒に何回も行きました。

学校との付き合いは、中学生とは言いながら、父兄であるのでそういう立場で学校からの頼まれごとを処理することもありました。中にはその立場の違いを認識しない先生がいるようなケースもあり、ものごとを正確に考える機会にもなりました。

8月15日の終戦で事態は変化したはずなのに、実際には終戦後も、しばらく同じ形が続きました。したがって、疎開先への面会も同じように続け、「京都へも進駐軍が入ってきて、街で米兵を見かけるようになった」などとも話したことを覚えています。

何十年も経って、このようなことを正確に覚えているのも、学童疎開が終戦後も続いていたという特殊事情の結果です。全国的な規模で考えると、戦災に遭った地域からの疎開者の扱いは大変だっただろうと考えると、嵯峨野小学校(当時は国民学校)から疎開していた人達が、直ぐに帰還しなかったのも頷けます。当時は、何故すぐに帰って来ないのかと疑問に思っていました。

妹の学童疎開という現実を実際に経験したのは、終戦(正しくは敗戦)当時の実際を理解するのに、私には大いに役立ったと考えています。

「疎開」という言葉も、テレビドラマの中に、「大阪に住でいた人が兵庫県の田舎に疎開した」という話が出てくるなど、珍しいことではなく、「集団疎開」、「学童疎開」という言葉も一般に使われていますので、それほど気にしなくてよいのですが、本来はたいへん珍しい言葉です。

「疎開」は軍隊用語で、「兵員をまばらに配置することにより、敵からの攻撃による被害を少なくする」というものだそうです。戦場での用語が一般社会の中に取り入れられた特異な状態です。今から考えると、当時は、国全体が特異な状態だったことを物語っていると思います。

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