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2019年5月20日 (月)

義父(妻の父)が書き遺したこと

~さかもっちゃんの知ったかぶりぶり 194~

先日、義父(妻の父)が家族に見守られながら、91年の生涯を静かに閉じました。

私たち家族の手元に残されたのは、「書き遺すこと」と題された1冊のノート。昨今は終活ノートやエンディングノートと呼ばれるようですが、そんな名前が定着するはるか前、20年以上も前から書き続け、必要に応じその都度更新してきたようです。更新箇所はキチンと赤字の二重線で見え消しされ、更新日と署名印鑑も入れるという念の入れよう。

義父自身の生い立ちから学生時代のこと、そして仕事の喜びと苦労、友人など周囲への感謝、望む葬式スタイル、遺影で使って欲しい写真、財産一覧を綴っていますが、中でも目を引いたのは家族への強い想い。

義父の妻(つまり、私の妻の母)や両親(私の妻の祖父母にあたります)、兄弟に始まり、2人の娘たち(私の妻とその妹にあたります)、孫たち(私の子供たちも含まれてます)への愛情が溢れていました。そして、なんと、娘たちのそれぞれの夫(私も含まれてます)への感謝まで書かれていたのです。

「この困難な時代にあって、娘とその子供たちを路頭に迷わすことなく、これまで良く守ってくれて、ありがとう。これからも家族仲良く」と。これには妻ともども涙が止まりませんでした。

思えば、義父は旧日本陸軍の将校を養成した陸軍士官学校最後の入学生となる第61期生でした。この61期生は戦況悪化著しい昭和19年から20年にかけて入学し、直後に終戦を迎えた陸士最終期にあたります。

そのため、日本の敗戦とともに卒業を待たずに「復員」。旧日本陸軍の士官候補生として国運を背負いながらも戦場を知らずに終戦を迎えました。終戦直後、士官学校そのものが無くなり帰郷が決まった義父たちは、教官からこう語りかけられたそうです。「銃をペンに持ち替えて、祖国再建と家族に尽くせ」。

戦争末期、まだ10代後半だった義父たちは憂国の念にかられ燃えるような使命感を持っていましたが、その使命感が陸軍士官として戦場で発揮されることは遂にありませんでした。そして、その強い使命感は、戦後の復興へと向けられたのでした。その後の義父の人生は、まさに企業戦士そのもの。家族のため、戦後の復興と高度経済成長を支えた原動力の一人と言っても良いでしょう。

昭和の初めから平成の終わりまでを見届け、令和の先も家族の幸せを祈りつつ、静かに生涯を閉じた、それはそれは見事な義父の一生でした。合掌

 

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