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2018年11月25日 (日)

京都市内から京都市内への学童疎開

~ おさむの鳥の目 224

平成も今年で終わることが決まっています。昭和はますます昔になりますから、今の内に昭和の時代の出来事を書き残したいと思います。

太平洋戦争当時には、いろいろと珍しい出来事がありました。学童疎開もその一つだと思っています。私は疎開には行かなかったのですが、1年年下の妹が学童疎開に行きました。学童疎開は、次世代を担う子供たちを空襲の心配のない、過疎地に移住させて将来に備えるという政策です。

これが理屈に合っているのがどうか、分かりませんが、単純に言えば、間違った考えとは言えないでしょう。そして、具体的には、都会の小学校から集団で田舎に移住したのです。

ここで珍しいのは、標記した私の妹の学童疎開です。私たちの小学校の所在地は、京都市右京区です。そして、疎開先は京都市左京区鞍馬貴船町でした。貴船は京都の観光地として知られた所ですが、戦争中のことですから、観光は関係ありません。

そして、貴船町は鞍馬山の麓の山間の場所ですから、空襲の心配はなかったでしょう。と言っても、京都市から京都市への疎開とは誠に考え難いところです。だが、実際にこういう形が出現し、一定期間継続したのです。

私はと言いますと、この形は一つの勉強になりました。1年しか違わないと言いながら、父兄ですから、疎開先に面会に行きました。同級生の弟さんが同じ形で疎開していましたので、二人一緒に何回も行きました。

学校との付き合いは、中学生とは言いながら、父兄であるのでそういう立場で学校からの頼まれごとを処理することもありました。中にはその立場の違いを認識しない先生がいるようなケースもあり、ものごとを正確に考える機会にもなりました。

8月15日の終戦で事態は変化したはずなのに、実際には終戦後も、しばらく同じ形が続きました。したがって、疎開先への面会も同じように続け、「京都へも進駐軍が入ってきて、街で米兵を見かけるようになった」などとも話したことを覚えています。

何十年も経って、このようなことを正確に覚えているのも、学童疎開が終戦後も続いていたという特殊事情の結果です。全国的な規模で考えると、戦災に遭った地域からの疎開者の扱いは大変だっただろうと考えると、嵯峨野小学校(当時は国民学校)から疎開していた人達が、直ぐに帰還しなかったのも頷けます。当時は、何故すぐに帰って来ないのかと疑問に思っていました。

妹の学童疎開という現実を実際に経験したのは、終戦(正しくは敗戦)当時の実際を理解するのに、私には大いに役立ったと考えています。

「疎開」という言葉も、テレビドラマの中に、「大阪に住でいた人が兵庫県の田舎に疎開した」という話が出てくるなど、珍しいことではなく、「集団疎開」、「学童疎開」という言葉も一般に使われていますので、それほど気にしなくてよいのですが、本来はたいへん珍しい言葉です。

「疎開」は軍隊用語で、「兵員をまばらに配置することにより、敵からの攻撃による被害を少なくする」というものだそうです。戦場での用語が一般社会の中に取り入れられた特異な状態です。今から考えると、当時は、国全体が特異な状態だったことを物語っていると思います。

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