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2018年8月

2018年8月13日 (月)

歴史の深読みと考察(歴史上の二人の天才兄弟:後編)

~ 池さんの歴史ナルホド! 09 ~

今まで8回にわたって「歴史を学ぶおもしろさ」について語ってきました。今回はその9回目です。

今回も「歴史の深読みと考察」と題して、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなどや自分なりの分析・考察を加えてみると歴史学習はよりおもしろくなるということについて述べます。

今回は「歴史上の二人の天才兄弟」の「後編」として深読みと考察を述べてみたいと思います。

1 前回は「源義経は軍事の天才である」ことを述べた

(1)源義経は「軍事の天才」、源頼朝は「政治・経営の天才」だということ

(2)源義経は平氏追討の「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で、主に奇襲作戦で源氏に勝利をもたらし、軍事の天才ぶりを示した。

(3)「軍事の天才」と言える義経だが、政治や経営の才能においては兄頼朝より遙かに劣る

①策士の後白河上皇にとっては非常に扱いやすく、いいように利用された

②頼朝と対立して頼朝追討の院宣を得たが、ほとんどの武士が義経についてこなかった

2 今回は「源頼朝は政治・経営の天才である」ことを述べる

源頼朝の歴史上の功績と言えば、「鎌倉幕府」というそれまでにない新しい政権・政府を打ち立て、江戸幕府の滅亡までおよそ700年弱続いた武士政権の創設者となったということだと思います。
          
源頼朝が武士政権の創設者になり得たのはなぜか。それは彼の源氏の棟梁としての血筋と才能(政治・経営の天才)のおかげだと私は思います。平安時代末には天皇や貴族の血筋であることは今では考えられない程の意味を持っていたので、頼朝が清和源氏の棟梁としての血筋であったことは多くの人々特に武士にとって極めて大きな意味を持ち尊敬を集めたものと思います。しかしそれだけで頼朝が鎌倉幕府を開き育てることができたわけではありません。やはり頼朝にそれを生かすだけの政治・経営の才能があったからだと思います。

頼朝が「政治・経営の天才」と言えるのは、私は頼朝の行った次の2つ(1)(2)のことがあると思います。

(1)一つは、有力武士たち、特に関東武士を徹底して重視したこと

頼朝は、それまで長い間日本の社会をリードしてきた天皇・貴族ではなく、貴族にはさげすまれていてまだ高い地位を得ていないがやっと実力が認められつつあった武士に着目して、武士に依拠し、武士を組織することに成功し、武士を保護し武士のための政治を行い武士の成長を助けました。これこそ時代を見る目と才能があったということです。

現代の私たちが政治・経営を行う時に(例えば政治家や経営者としてなど)、どんな人々に依拠し、組織し、保護し成長を助ければいいか、判断することは極めて重要ではあるが極めて難しいことだと思います。頼朝がその時の権威である朝廷や天皇・貴族にすり寄らず、未だどうなるか分からない未知数の新興武士勢力に徹底して依拠したことは実はすごいことです。今の私たちは、頼朝の後に鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代と武士の時代が続く歴史を知っているので、このとき頼朝が武士に依拠したことは当然のように考えがちですが、武士がこれから成長するかどうか分からない時点で武士に徹底的に依拠したことは実はすごいことです。まさに頼朝には先見の明があったというべきでしょう。

このことをもっと具体的・分析的に述べていくと
①関東有力武士との間に「御家人制度」を確立したこと

1180年、石橋山の戦いで平氏に対して旗揚げした頼朝はあっけなく敗北して房総に逃れました。そしてその後、房総各地でその地域の地方領主である武士たちの圧倒的な支持を得て、大軍を従えて鎌倉に入って平氏と戦う反撃態勢を整えました。

この時房総の武士を中心に関東の武士たちが頼朝についたのは平氏のライバルの源氏の棟梁としての頼朝の血筋故に頼朝には利用価値があると思ったからなのでしょうが、頼朝はそれで終わらせずに、この機会に、自分に従うそれらの武士たちを家臣にしっかりと組み入れることに成功したのです。つまり、自分を主人としてそれらの武士たちを個別に自分のけにん家人(家来)にすることに成功したのです。

(頼朝が将軍についてからは将軍の「家人」として「御家人」と呼ばれ、将軍と主従関係を結んだこの制度を「御家人制度」と呼んでいます。) つまり、「御家人制度」とは当時の武士間の封建的主従関係の慣わしを取り入れた頼朝独自の確固とした主従関係制度の創設なのです。こうして関東有力武士たちを明確に自己の家来として組織化したことが、頼朝の力の源・基盤となったのです。

②鎌倉を出ずに自己の勢力・政権の基盤固めに専念したこと

よく言われるように、鎌倉は三方を山に囲まれ一方は海で天然の要害の地であるとともに、源氏にとってゆかりの地であったことが、頼朝がここを根拠地に選定した理由といわれています。しかし私は鎌倉を出発点としただけでなく、鎌倉から出ないでここ鎌倉を自己の勢力であり新政権の根拠地として育てたことが重要だと思います。

1) 頼朝は、木曽義仲との戦いや西国の平氏打倒の戦いには、自らは鎌倉に残って、弟の範頼・義経らに兵を与えて戦いに当たらせています。こうした姿勢が総大将としては大切なのです。

2) その間に、頼朝は鎌倉で「侍所」「政所(公文所)」「問注所」などの役所の創設と担当者の任命と軌道に乗せることなど新政府(鎌倉幕府)のしくみづくりを着々と行っています。

3) 京都や畿内に近づかず、当時の鄙の地、「鎌倉」を東国武士に依拠する自らの基盤であり新しい政権づくりの場として育てたことが評価できます。

③鎌倉幕府は御家人支配に必要最小限の仕組みで始めた

頼朝は、鎌倉幕府は、朝廷のように律令に基づいて要不要を問わず網羅的に膨大な官庁を設けるのではなく、御家人支配になくてはならないものを必要最小限設置することから始めた。中央官庁が「侍所」「政所(初めは公文所)」「問注所」しかないのは驚きです。しかもそれにはちゃんと理由がある。まず幕府を支える御家人を統率する役所が必要であるので「侍所」を設け、幕府の政務や幕府財政事務を司るには「政所」、「一所懸命」の武士の最大の関心事である所領の争いなどを裁判する役所が是非とも必要で「問注所」を設けた。いづれも御家人支配にはまずなくてはならないものです。

それにそれらの役所の担当官吏として、主な御家人ばかりでなく、京都の朝廷の下級官吏で実務能力のある大江広元や三善康信などの下級貴族を京都から招いて担当させるなど、実務能力を重視し、仕事が滞らないように配慮したのも流石です。

④朝廷や天皇・貴族にすり寄らず、利用されなかったこと

朝廷や天皇・貴族は古くからの権威であり当時は絶大の魅力を持っているので、ともするとそれらに近づきすり寄りたくなるところですが、頼朝は、自分の依拠するのは有力武士特に関東武士と決めていて、決して朝廷や天皇・貴族にすり寄らなかったので、利用されることもありませんでした。さらに配下の御家人にまで、自分の許可なく朝廷の官職を受けないように命じて徹底しています。だから義経が自分の許可なく朝廷の官職を受けたことを許すことはできなかったのです。

特に頼朝が「大天狗」と呼んだ後白河上皇は稀代の策士であり、義仲や義経などが次々にいいように利用されましたが、頼朝は後白河上皇にはできるだけ近づかずに利用されないようにしました。

頼朝は単なる権威付けのための無用の官職は受けませんでした。頼朝が受けた「征夷大将軍」は本来は朝廷に従わない蝦夷などの征伐に向かう朝廷軍の司令官としての役割を持っていましたが、頼朝はこれは軍人・武人としての性格を強く持つ「武士」たちを指揮するのにふさわしい官職と考えたようで、これは自ら求めて任官されたようです。(こうして源頼朝以後江戸時代まで、「征夷大将軍(将軍)」は武士の棟梁を指す地位となります)しかも、頼朝が「征夷大将軍」に任じられたのは後白河上皇の死後です)

⑤この御家人重視の政治と経営がいかに功を奏したかは次の2つのことから明らかでしょう

1)後白河上皇が義経に出した「頼朝追討の院宣」に従う武士がほとんどいなかったこと。これは頼朝の御家人重視の政治・経営が効果を挙げ、御家人たちにとって、平家を破った功労者で軍事の天才の義経に付き従うことより、鎌倉新政権の領袖たる頼朝の方が遙かに信頼が厚かったことを物語るでしょう。

2)1221年の「承久の乱」の時に、御家人たちに対し尼将軍北条時子が行った演説で、頼朝様のご恩を強調すると御家人どもが涙を流し幕府への忠誠を誓ったとの話によれば、頼朝の「御家人重視の政治と経営」がいかに効果があったかは明らかでしょう。

(2)二つは、幕府勢力の拡大と将来の布石を打ったこと
頼朝の政治・経営の天才ぶりを物語る二つ目は、自己の現在の勢力・権力の基盤固めをしながら、同時に勢力・権力の拡充と将来の布石を打ったことです。

①次々と対抗勢力を打倒・壊滅した

頼朝はまず木曽義仲の勢力を打倒・壊滅すると、続いて平氏勢力を一の谷・屋島と打倒しながら壇ノ浦での壊滅まで戦いを続け、続いて軍事の天才として台頭した義経の勢力はほとんど問題なく壊滅に追い込みました(直接手を下したのは奥州藤原氏ですが)。ここで終わらないのが頼朝のすごいところで、さらに、義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏まで攻めて壊滅させています。こうして当時の頼朝勢力に武力で対抗できる勢力が全くなくなるまで徹底的に戦い、後顧の憂いをなくしたのです。

②御家人を次々と拡充した

頼朝は最初の関東の武士を御家人にしただけでなく、戦いに勝利するとともに次々に御家人を拡充し、美濃以東の東国・東北一帯と西国の一部に勢力を拡大しています。こうして頼朝の勢力・権力と鎌倉幕府は関東だけのものではなくなったのです。

③守護・地頭を設置した

頼朝は、義経追討の院宣を得た時に、義経が隠れて全国のどこに潜んでいるのか分からない状況を利用して、全国に「守護・地頭」を置く権限を獲得して、御家人を「守護・地頭」任命しました。これは「守護・地頭」に任命された御家人にとって利益であって幕府への忠誠心が増すとともに、「守護・地頭」を利用して幕府の将来の勢力拡大の布石となるものでした。こういうことを機に乗じて抜け目なく行うのが頼朝が「政治・経営の天才」という証拠です。

こうした「政治・経営の天才」源頼朝によって、新興の武士の政権・政府である「鎌倉幕府」が設立され育成され、新しい時代が切り開かれていったのです。

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2018年8月10日 (金)

「サマータイム」の導入?

~ わさくの悪知恵 215 

2020年(平成32年)の東京オリンピック・パラリンピックの開催に際して政府・与党が夏の時間を「2時間繰り上げる」
“サマータイム”の導入に向けて本格検討に入っているという。

まず私が個人的に昔から違和感を持っているのが「サマータイム」という呼称。これは「和製語」で、英語圏の方々にsummer timeと言っても、ただ単に「夏」を意味すると思うのでなかなか通じないはずだ。

一般的に英語(米語)で言うならDaylight Saving Time(DST)となるべくで、直訳だと「日光節約時間」になる。

両方でギャップがあるように思えるのでシンプルに「夏時間の導入」と謳えば良いと思うのだが・・・

現在約70ケ国で導入されているらしく、米国では多くの州で4月の第1日曜日から10月の最終日曜日までの半年間時計を1時間早めるこの時間制度。文字通り太陽光の有効活用が目的。

緯度が高く(特にヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ)、夏の日照時間が極端に長くなる国で有効なシステムと言えるようだ。

現在我が国で導入のコアな理由としては午前7時スタートのオリンピックの花形競技マラソンがもっとも涼しい通常時間の午前5時にスタートとなり、日が高くなる前にレースを終えることができるからだとされているらしい。

ただサマータイムの発想とは、1784年にアメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられるベンジャミン・フランクリンが「太陽の光をいっぱい取り込み利用しよう」とするアイデアからで、決して「暑さ凌ぎ」ではないのだ。

現在のところ与党では最も暑い6~8月を基盤に数か月だけ2時間繰り上げる検討に入り、平成31年に試験導入した上で32年の本番(オリンピックイヤー)に本格導入する案が有力だという。いづれにしても31年、32年の限定導入となる公算が大きいと。

元々日本でもこの制度は昭和23年、電力不足の深刻化などで連合国総司令部(GHQ)の指示で導入されたが、定着しないまま4年後に廃止された。

またロシアでも長年採用されていたが、2011年に廃止になっている。理由としては国民の健康不安(特に心筋梗塞への)が挙げられるという。

今回の導入のメリットとして考えられるのは、まずは時間の有効活用=特により涼しい時間帯から一日の始動、エネルギーの節約、アフターファイブからの消費拡大、家電、電波時計も売れ行きが期待され、その他夏時間対応ビジネスの台頭などの経済効果が期待されるという。

逆に予測できるデメリットとしては:

家庭内の時計を単に進めるという単純なモノばかりでなく、大きな工場や会社では時間設定などで生じるコストの部分で不安を感じる、夏の風物詩である花火大会などの催しも開始時間・終了時間が遅くなってしまう等々・・・

また勤勉な日本人、就業時間がきても外がまだまだ明るいので自然に残業時間が増えるとも・・・?

NHKのとある最新調査によると「東京五輪・パラ サマータイム導入」に賛成が51%、反対12%、どちらともいえないが29%と発表している。

さあ、果たして実際に「サマータイム」導入されるだろうか? もしそうだとしたらどのように? 

余談だが、私の大好きなジャズのスタンダードナンバーにジョージ・ガーシュインが作った「Summertime」がある。特に、好きなバージョンが27歳の若さで亡くなってしまった孤高の女性ロックシンガー ジャニス・ジョップリン(Janis Joplin)であるのでご覧あれ。(本文との関連性は極めて低い)
https://www.youtube.com/watch?v=wjRyHY2m7sw

<参考資料: Web版産経ニュース、Summer Time Perfect Navi, Wikipedia>

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2018年8月 6日 (月)

柔らかい発想をする

今年の夏は豪雨や猛暑など異常気象が続いています。従来とはまったく違う様相を示しています。「今までは大丈夫だった」という考えは通用しません。

 

一方、世の中に目を向けると、IT化やAI化、あるいはロボット化、EV化などが急激に進み、時代や状況が目まぐるしく変化しています。

 

以上のように、自然界においても、ビジネスの世界においても激しく変化しています。こうした中、誰にも変化に応じた柔らかい発想が求められています。

 

従来通りの型にはまった発想をポイっと捨て、時代や状況に合った柔らかい発想をする必要があります。

 

では、柔らかい発想をするにはどうすればよいでしょうか。

 

まず常識や固定観念、既成概念をポイっと捨てます。「これはこうだ」という決めつけた考え方はやめます。

 

その上で、目先にとらわれずあるべき姿を目指し柔軟に発想を広げます。あれこれ工夫をします。

 

たとえば商品が売れないなら、目先的に値下げをするのではなく、「お客さんに喜ばれる」ことを目指しあれこれ工夫をします。すると売れるようになります。

 

大事なことは、「売れない→値下げをする」といった固定したやり方をやめ、「売れない→お客さんに喜ばれる」というようにあるべき姿を目指すことです。

 

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