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2018年7月13日 (金)

歴史の深読みと考察(歴史上の二人の天才兄弟)

~ 池さんの歴史ナルホド! 08 ~

今まで7回にわたって「歴史を学ぶおもしろさ」について語ってきました。今回はその8回目です。今回も「歴史の深読みと考察」と題して、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなどや自分なりの分析・考察を加えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて述べます。今回は「歴史上の二人の天才兄弟」を例に、深読みと考察を述べてみたいと思います。

1 歴史上の二人の天才兄弟とは?

こう言われて、あなたは誰と誰を思い浮かべますか?考えようによってはいろんな兄弟を思い浮かべることができるかもしれませんが、私としては「源頼朝と源義経の二人の兄弟」を取り上げたいと思います。

それでは、この二人それぞれどんな天才だと言うのでしょう。私は「源義経」は「軍事の天才」、「源頼朝」は「政治・経営の天才」だと思うのです。以下その深読みと考察について説明していきたいと思います。

2 源義経は軍事の天才

(1)平氏追討の戦いでの義経の軍事の才能

源義経は兄頼朝の命で、兄範頼とともに平家を追討し、摂津一の谷の戦い・讃岐屋島の戦いで勝利し、長門壇ノ浦で平家を滅亡させたことで知られています。これらの戦いの源氏方の主な勝因として、源義経の軍事的な才能が上げられます。特に摂津一の谷戦いと讃岐屋島の戦いは義経の奇襲作戦の勝利と言われています。

一つ目は1184年2月の一の谷の戦い。西国で勢力を回復した平氏は摂津福原に集合し、近くの一の谷に陣を構えました。一の谷は、前は瀬戸内海、後ろは険しい鵯越(ひよどりごえ)という絶好の地形でした。これと対峙した源氏の軍は、源範頼を大将とする大軍が浜を通る狭い道を進軍しました。平氏は全軍がそこから来ると信じていたと思います。ところが突然鵯越を下ってくる義経軍の奇襲に遭い、驚いた平氏は総崩れになって敗走することになりました。ここに義経の真骨頂の「奇襲攻撃」があるのです。奇襲攻撃は文字通り「奇襲」であって、敵が予想もしない「奇策」であるからこそ成功するのです。鵯越の坂は急坂であって、到底馬で進撃するとは敵も味方も一般に思わない状況であったから成功したのです。しかし義経からみたら鵯越の坂は降りられない坂ではないし、日頃関東の台地と低地の起伏の多い土地を駆け回っている当時の板東の馬を使えば大部隊で駆け下りられないことはないと構想したのでしょう。こうして義経の奇襲は大成功しました。

二つ目は1185年2月の讃岐屋島の戦い。平氏一門は、1年前に一ノ谷の戦いで敗れはしたが、なお瀬戸内一帯の制海権を温存し、屋島に本営を置いていました。屋島も瀬戸内海に面しており、平氏は海戦に備えていました。2月18日は暴風雨になりとても戦いどころではないと平氏は考えていたのだと思います。義経はこれこそが襲撃の機会だと考えたようです。今なら無理をしてでも四国に渡れば敵は油断しているに違いない。そこで遭難の危険を心配する部下が反対するにもかかわらず、強行して暴風雨の中をわずかの兵で四国の阿波に渡ることに成功します。義経軍は上陸後すぐさま屋島の裏に回り、奇襲攻撃をかけます。平氏は大軍が奇襲してきたと勘違いして敗走し、海上を一路長門に向かうのです。これもまさかこんな時に攻撃してこないだろう。しかも少数で攻撃しては来ないだろうと相手が思ったから成功したのです。これを契機として、熊野・河野などの有力水軍の参加を得た源氏軍は、平氏方と瀬戸内の制海権を争い、きたるべき壇ノ浦の海上決戦に備えることとなりました。

三つ目は1185年3月の長門壇ノ浦の戦い。この戦いは奇襲作戦とは言えないかもしれません。当時の瀬戸内海に於ける平氏の拠点は讃岐の屋島と長門の彦島の二つでした。そのうち屋島で敗北した平氏は彦島に全軍を集結。義経軍は瀬戸内海の東から下関の彦島に迫ります。彦島の背後の九州は源範頼軍が制圧し、陸に陣取っています。これで前後を追い詰められた平氏は関門海峡の壇ノ浦に出て義経軍を待ちます。平氏軍船500艘、義経軍船840艘だったといいます。3月24日正午開戦、初めは海戦に慣れ、東進する潮流にのった平氏方が有利だったが途中から逆潮となり、午後4時ごろ平氏軍の敗北・滅亡が決定、と解するのが通説です。

この壇ノ浦の戦いの源氏の勝因としていくつか挙げられていますが、平氏軍船500艘、義経軍船840艘と戦力差があるようですが、義経軍は寄せ集めでばらばらの小舟ばかりで決して有利ではなかったようです。それ以外の勝因として以下のことが挙げられます。

①本来は平氏軍は水軍を持ち海戦に慣れていて、板東武者中心の源氏軍は陸での戦いしか経験がないので、平氏有利と言われていたが、源氏も屋島の戦いの後、水軍を味方につけていたから戦力差はかなり縮まっていたようです。

②最も大きな勝因と言われるのが「潮流説」で、これが通説です。すなわち関門海峡は潮の流れが激しい地域でしかも一定時間ごとに流れが逆流する。壇ノ浦の戦い当日は最初西の平氏側から激しい流れがあったので平氏が優勢に軍を進めたが、潮流が逆転することを知っていた義経軍は深入りせずそれをそれをしのぎ、潮流が逆転してから猛攻撃をしかけたというものです。

③海戦では当時は船をこぐ水夫は「非戦闘員」として切りつけたり矢を射てはならないという暗黙のしきたりがあったが、義経はむしろ積極的に水夫を矢で射させて相手の船の操縦を奪った。これはある意味「奇襲」と言えるかもしれませんし、これが最も効果があったとも言われています。
(先日のNHK「風雲!大歴史実験」で実験をしてみて、②は疑わしいが③が最もあり得るという結果でした。)

以上のことから、源義経は「軍事、特に戦術(しかも奇襲作戦)の天才」と言えるでしょう。

(2)軍事の天才の義経だが、政治や経営の才能は劣る

「軍事の天才」と言える義経ですが、政治や経営においては兄頼朝より遙かに劣ると思われます。その根拠として

①策士の後白河上皇に言いように利用されている

後白河上皇は自らの願い・希望を誰かを利用して実現させようと策を巡らす策士です。まず平氏の横暴が目に余りさらに自らも平氏により幽閉されてしまうという目に遭わされてると、この平氏の力をそぐのが後白河上皇の願いになります。そのため最初に有力だった木曽の源義仲に平氏を京都から追放させました。その後、京都に入った源義仲の横暴が目につくと今度は源頼朝(義経)に義仲を討たせ、さらには頼朝(義経)に平氏を討たせました。

そういう策士が後白河上皇なのです。その後後白河上皇は義経に兄頼朝に図らず官位を与えるなど、頼朝・義経の対立を利用し、軍事の天才義経に頼朝を討たせようと頼朝追討の院宣を出します。後白河上皇は頼朝は扱いにくいが、義経は扱いやすいと考えたのでしょう。しかし義経にほとんどの武士が付いてこないことを知ると、頼朝の圧迫で簡単に義経を裏切り、逆に義経追討の院宣を出します。これは義経に政治の才能がなく、策士後白河上皇にいいように利用されていることを意味しませんか。

②頼朝追討の院宣にほとんどの武士が義経についてこない

兄頼朝と対立した義経は、自分には当時最も重要だった軍事の才能があるので多くの武士が自分についてくるはずだと思ったのでしょう、後白河上皇に頼朝追討の院宣を貰って頼朝を討とうとしました。しかし多くの武士は義経についてきません。これは義経にとって大きな誤算だったと思います。

ではなぜ多くの武士は、軍事の天才義経ではなく、軍事は大した才能がない頼朝を選んだのでしょう。

1)多くの武士にとって、頼朝は、朝廷・貴族や平氏に対抗し自分たちの所領を安堵し、自分たちに利益を与えてくれる大将だが、義経はそういったことがなかったのでしょう。義経には経営の観念がなかったのでしょう。

2)確かに義経の軍事の才能はすごいが、大将としてはどうかと思われていたのでしょう。義経の戦術は奇策なのでその策は一見無謀に見えるものだから義経に従った武将の内にはその策に反対するものが多かったのですが、そうした者たちに丁寧に説明し納得させることはせず強引に押し切ったようです。また配下の中には梶原景時のように大将である義経が先陣を切ることに反対した武将もいましたが、それも受け入れませんでした。そのため梶原景時は義経に恨みを抱いたようです。当時の戦いから言えば大将が敗れたら軍全体の敗北につながるので、大将は危なくないところにいて命令を出すのが当たり前と考えられていたのです。

義経に頼朝ほどではなくてももう少し政治と経営の才能があれば、後白河上皇に振り回されることもなく、頼朝ともそれなりに旨くやって鎌倉幕府の高官ぐらいにはなれたかもしれないなと思うのです。
                                         
今回は「軍事の天才」源義経について考察してきました。次回は「政治・経営の天才」源頼朝について考察したいと思います。

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コメント

源義経は、私が好きな歴史上の人物。でも数多い、貧乏くじを引いた代表的な一人ですよね。

彼の最大の欠点は、出口戦略が無かったこと。平家との戦いは、まさに運が良かったとしかいいようがない。結果オーライの感がどうしてもしてしまいます。

平家滅亡後は最大の功労者であるにも関わらず、兄、頼朝から疎まれてしまう。頼朝は当時珍しい出口戦略を立てられた一人ですね。ただ息子たちは誤算だった。結局、政権は平家の北条氏にのっとられてしまいました。

義経、頼朝兄弟から学んで幕府を築いたのが徳川家康。源氏の頭領と名乗りましたが、その実はほとんど関係が無かったとか。機会があったら、家康がどのように源氏の頭領を名乗ったのか、ぜひ取り上げてください。

投稿: soji | 2018年7月23日 (月) 21時13分

sojiさん、毎回のコメント大変ありがとうございます。自分の書いたものが読んでいただけることがうれしいものですが、コメントまでいただけると大変大変うれしく思います。大変励みになります。これからも大好きな歴史の勉強の成果を「池さんの歴史ナルホド」で報告していきたいと思います。ありがとうございました。

投稿: 池田義光 | 2018年7月26日 (木) 15時01分

池さん

安曇野で生池さんにお会いでき、嬉しゅうございました。各地へのご案内、ありがとうございました。

穂高神社や大王わさび園、碌山美術館。随所に池さんの歴史を見る視点が感じられる解説。楽しかったです。

これからは池さんの文章を拝見するときは、傘を片手にお話されたお姿を頭に浮かべようと思います。

投稿: soji | 2018年7月30日 (月) 01時09分

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