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2018年6月13日 (水)

歴史の深読み(長篠の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 07 ~

今まで6回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその7回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、それはなぜそれが起こったのであろうかとか歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、前回の「桶狭間の戦い」に続いて「長篠の戦い」を例に、述べてみたいと思います。

1 歴史上の「長篠の戦い」とは?

有名な「長篠の戦い」は、高校日本史の教科書:山川出版『詳説日本史B』では、次のように記述されています。

「 1575(天正3)年、三河の長篠で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突した戦い。織田・徳川連合軍は、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝した」

この戦いで、織田・徳川連合軍は約3万人、武田軍は1万5千人だったと言われています。

また、この戦いの意義は極めて大きかったと言えます。

(1)鉄砲が初めて効果的に使われ、以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼしました。

つまり織田・徳川連合軍が新兵器の鉄砲を組織的に使用し騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝したことで、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄砲隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘となったとされています。

(2)この戦いに敗れた武田軍は敗走、勝頼も身一つで信濃へ逃れました。

武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれます。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10)滅亡を招きました。

(3)宿敵を倒したことで、織田信長の勢力は強大化し、以後天下とりに邁進しました。

2 この戦いから様々なことが深読みできます

(1)武田勝頼はなぜ野戦で大軍と激突したのか?

この戦いで、織田・徳川連合軍は約3万人、武田軍はその半分の1万5千人だったと言われています。それなのに、武田勝頼は長篠城西方の設楽が原での野戦を選び、しかも自ら進んで織田・徳川連合軍に正面から激突しています。

その理由は、武田軍にとって、二倍程度の織田・徳川連合軍には「十分勝てる」との思いがあったのだと考えます。

①武田軍が勝てると思った理由の一つには、目の前の織田・徳川連合軍が大量の鉄砲(火縄銃)を持参していることは、武田軍も承知していましたが、当時の鉄砲(火縄銃)は、1)火縄銃なので雨では使えない 2)命中率が悪い 3)玉込めして打つまでに時間がかかり過ぎる などの欠点を幾つも持っており、実戦ではほとんど役に立たないと考えられていたことです。事実、武田軍もこの戦いにわずかながら鉄砲(火縄銃)を持参していましたが、ほとんど使っていません。

②武田軍が勝てると思った理由の二つには、織田・徳川連合軍の主力は足軽兵であり、武田軍は騎馬部隊、しかも戦国時代最強とも言われ「武田の騎馬部隊」として名を馳せた優れた騎馬部隊を持っていたことです。これは騎馬部隊にするには長期間の専門的な軍事訓練が必要で、鎌倉時代の守護出身の武田氏には代々武士の家のたくさんの騎馬武者が従っていたが、新興の織田氏には昔から使える騎馬武者が少なかったようです。当時の騎馬武者は、推定ですが、5倍の足軽兵・歩兵に勝てると思われていたそうですので、1万5千人の騎馬部隊なら7万5千人の歩兵部隊に勝てる計算になります。
                     
(2)ではなぜ織田信長は、鉄砲(火縄銃)を用いたのか?

①織田信長にはぜひ鉄砲(火縄銃)を使いたい理由がありました

1.信長は、鉄砲(火縄銃)は欠点も多いが、当たればすごい殺傷能力を発揮できることは、若い頃から鉄砲(火縄銃)を扱っていて知り尽くしていました。

2.織田軍が農民上がりの足軽中心で弱兵であることは織田信長にとっても重々分かっていました。しかしそれらの足軽兵に馬を与えて短期間で騎馬兵に養成することは、極めて困難です。しかし、鉄砲なら大した軍事訓練をしなくても打つことだけは割に簡単にできます。そのため自軍の主力の足軽部隊の強化のためには鉄砲は欠かせない武器だと考えたのでしょう。

②織田信長は、鉄砲(火縄銃)の欠点克服を懸命に考えて、実戦に効果的に使用しました

織田信長は、若い頃から鉄砲(火縄銃)に着目し、500丁を仕入れるなどしており、鉄砲(火縄銃)の良い点と弱点を知り尽くしていました。そうした中で欠点を克服し、いつか実戦で本格的に使用することを考えていたようです。

1.火縄銃なので雨では使えない

この「設楽が原での戦い(長篠の戦い)」に先駆けて「長篠城」の防衛戦があったのですが、ここを武田軍に攻められて守る徳川勢が旗色が悪くなり、何度も信長に援軍を依頼しましたがなかなか軍を送りませんでした。これを知った武田勝頼は、信長は武田軍を恐れて兵を出せないのだと理解したと言われています。しかし実は信長は武田軍を恐れたのではなく、天候が回復し雨が降らなくなる時期を待っていたようなのです。事実、「設楽が原での戦い(長篠の戦い)」当日には雨は降っていません。

もう一つ。信長は小雨程度なら鉄砲(火縄銃)が使えるように、火縄の改良も成し遂げていたようです。

2.命中率が悪い 

鉄砲には火薬の爆発による反動もありますし、相当訓練しないと、極めて命中率が悪くて、どこに飛んでいくか分からないということがあったようです。大した訓練時間がない足軽に持たせるには、命中率は期待できません。そこで考えたのが、大量の鉄砲による一斉射撃です。それなら眼前の集団の敵に対し、狙いは外れても、誰かが打った玉が当たるという考えで行けます。実際、これで名だたる武田武将が弱兵である足軽鉄砲隊の玉に当たって次々と戦死したのです。「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍は3000丁の鉄砲を使用したと言われています。

3.玉込めして打つまでに時間がかかり過ぎる

これについては、従来、織田の「鉄砲三段撃ち戦法」として語られてきましたが、最近の研究では、三段撃ちしたかどうかは、疑わしいとされています。しかし、いずれにしても大量の鉄砲を集団で撃つのですから、誰かが玉込めしている間に別人が打つという具合に間断なく撃たれたものと思われます。従って、武田軍にしてみれば、玉込めしている隙をついて攻撃を仕掛けることはできなかったものと思われます。

(3)織田信長は、どのようにして大量の鉄砲(火縄銃)を用意したのか?

織田信長は、若い頃から鉄砲(火縄銃)に着目していました。鉄砲(火縄銃)は欠点も多いが、当たればすごい殺傷能力を発揮できることは、若い頃から鉄砲(火縄銃)を扱っていて知り尽くしていました。そうした中で欠点を克服し、いつか実戦で本格的に使用することを考えていたようです。実戦使用のためには、鉄砲の大量調達が必要です。「長篠の戦い」で3000丁の鉄砲を用意したという説は、現在の研究では疑問も投げかけられていますが、いずれにしても、間断なく効果ある一斉射撃ができるほどの大量の鉄砲が用意されたことは確実でしょう。

①信長は「堺」の町を支配下におさめることに力を注いだ

1.堺の町は貿易港で、鉄砲の火薬に使用する「硝石」の輸入港でした。当時の日本では「硝石」はほとんど生産できず、輸入に頼っていました。従って「硝石」を牛耳ることは「鉄砲」を牛耳ることにつながったのです。

2.「堺」は有名な刀鍛冶の町でもありました。この刀鍛冶の技術の上に鉄砲を生産させ、しかも分業を取り入れて大量生産を試みさせました。種子島で日本人が初めて鉄砲を2丁手に入れた頃(1543年、長篠の戦いの32年前)は1丁1~2億円ほどもした鉄砲が、大量生産によって1丁数十万円程度で手に入るようになってきました。こうして信長は、堺から大量の鉄砲を調達したのです。

②信長は、「長篠の戦い」には鉄砲をレンタルで手に入れた

鉄砲は高価な武器でしたので、何千丁と大量に調達するのはいささか困難でした。そこで信長は「長篠の戦い」に当たって、戦いに参加しない家臣から、少しずつレンタルで手に入れて、堺調達分に併せて家臣からのレンタル分も長篠・設楽が原に持参したようです。

(4)織田信長が行った鉄砲(火縄銃)を効果的に用いる工夫は?

信長は、鉄砲(火縄銃)を効果的に使用するために、「長篠の戦い」では様々な工夫をしました。

①なぜ長大な「馬防柵」を築いたのか

信長は、足軽兵に大量の丸太を運搬させて、長篠・設楽が原に長大な「馬防柵」を築かせました。それはなぜか?「馬防柵」とは、名前のとおり馬を防ぐ柵です。馬というのは賢い動物で、目の前に障害物を見るとそれにぶつからないように自分からブレーキをかけて立ち止まってしまうのだそうです。だから今でも馬の障害物走は高い乗馬技術がいるのだそうです。信長は武田騎馬軍を「馬防柵」の前で馬をストップさせてそこを鉄砲で一斉射撃することを企画したのでしょう。

②信長は、戦闘場所の地形も有利になるように選んだ

長篠・設楽が原の織田軍の馬防柵の前は川と湿地帯です。信長はそこで武田騎馬部隊が脚をとられて動きが鈍くなるとことを予想し、動きが鈍くなった軍団に一斉射撃することを企画したのでしょう。

また、長篠・設楽が原の織田軍の位置に対し、武田軍はやや小高い丘の上です。信長は、武田騎馬部隊が一斉に勢いよく自軍に向けて攻めかかってきて、しかも川と湿地帯で脚をとられて動きが鈍くなることを考えて、そこに馬防柵を築いたのでしょう。

こうして、織田信長は、長い時間をかけて様々な工夫と準備をしてこの「長篠の戦い」に臨んだと深読みすると、今まで知っていた歴史もさらに面白くなりませんか?
                                         

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コメント

武田勢もわずかながら鉄砲を持ってきていたことを初めて知りました。おそらくこんなもので、最強の騎馬軍団に勝とうとは100年早いわ、と思ったのでしょうね。結果、武田は100年もたずに滅んでしまった。

新興の織田勢は、いかに当時最強の武田勢を駆逐するか、千絵を絞ったことでしょう。欠点だらけと認識されていた鉄砲を大量生産し、立派な武器に仕立て上げ、武力として劣っていた足軽に持たせた発想は、今でも十分通じるものがありますね。

現代に活かせる歴史の知識をこれからもたくさんご披露ください。

投稿: soji | 2018年6月26日 (火) 19時30分

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