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2018年6月

2018年6月29日 (金)

自宅近くの竪穴住居跡

~ おさむの鳥の目219

先日、自宅近くで京都市埋蔵文化財研究所の人の「発掘調査から見える広隆寺のすがた」という話を聞く機会がありました。「発掘調査」という言葉は聞いて知ってはいましたが、具体的な話を聞くのは初めてでした。

京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺は、聖徳太子ゆかりの、京都でも古いお寺で、知名度は抜群と私は考えています。聖徳太子が百済から入手された仏像を、誰か祀る者はいないかと言われたのに対し、秦河勝が私が祀りましょうと言って、広隆寺を建て、本尊にしたと伝えられています。

この仏像が、国宝第一号と言われている、有名な弥勒菩薩半跏思惟像です。日本で有名な人はというと、聖徳太子は真っ先に挙げられることと思います。その聖徳太子と関係深いということから、秦河勝や広隆寺は有名なのだと思っています。

私にとっては、入学した小学校が広隆寺の近くの太秦小学校でしたから、太秦や広隆寺は身近な存在です。その広隆寺を発掘調査という観点から専門的に調べたという話ですから、上記「発掘調査から見える広隆寺のすがた」の話は真剣に聞きました。

昔の広隆寺は、現在の敷地よりはかなり広かったようで、現在は、広隆寺の敷地の外にある東映太秦映画村も当時は広隆寺の敷地内であったそうです。

そして、発掘調査の結果、意外なことに竪穴住居跡が発見されたのです。しかし、意外と思ったのは、私の知識不足のためです。竪穴式住居は、「竪穴」という言葉に影響されたためか、随分古い時代に使われていたと思ってしまうのですが、実はかなり長い間、使用されていたのだそうです。

土地を掘り下げて、居住スペースを作り、その上に屋根や壁を作ると、使用する建築材料が節約出来、合理的なのだそうです。このため、思いのほか長い期間、この形式の住居は造られていたということです。

ですから、飛鳥時代に竪穴住居があったのかと意外に思ったのは認識不足で、秦氏によって広隆寺が建てられた時代には竪穴住居は普通の存在だったのです。「嵯峨野地域の弥生時代から飛鳥時代の集落跡一覧表」には「○○町遺跡」という、現在でも場所が特定できる遺跡が11か所収録されています。

そして、そのそれぞれに、竪穴住居跡○○棟検出と詳細に記録されています。このエッセイの標題を「自宅近くの竪穴住居跡」としましたから、最も近い所を挙げますと「上ノ段町遺跡」です。ここには、太平洋戦争後に建てられた蜂ケ岡中学があるのですが、その増築工事に伴い「飛鳥時代の竪穴住居10棟、堀立柱建物5棟が検出」という記載があります。

その上、住居跡というと、その場所にずっと住み続けていた人の住まいと考えられやすいのですが、これも間違いです。広隆寺建設の工事が終わりに近づくと、このような住居は造られなくなったという事実があり、ここに住んでいた人は工事に携わった人で、その後、他へ移動したようです。

ところで、広隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれてきたのですが、私の家の近くに蜂ケ岡中学という学校があります。お寺とは関係ないのですが、その学校の工事中に飛鳥時代の竪穴住居が検出されたという記録もあるということです。

蜂ケ岡中学は、自宅から北東400メートルの場所にあり、以前は竹薮であったところを切り開いて学校が建てられました。その工事の様子は家の窓から見えましたので、とても身近に感じられます。

工事が行われていた当時は、竪穴住居跡についての知識がありませんでしたが、今、振り返って考えますと、自分は京都嵯峨野の、飛鳥時代から続く土地に生まれ、今も住み続けているという、謂わば特殊な存在なのだと考えなくもありません。ただし、親は私が生まれる前に京都の街中から移住してきたので、土着の人間ではありませんが。

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2018年6月18日 (月)

無料&癒しの集中思考創造空間

~さかもっちゃんの知ったかぶりぶり 183~

仕事で頭が煮詰まった時など、いったん仕事の手を休め、思い切って外に出ることにしてます。人によってはこんな外出を「オサボリ」とも呼ぶようですが、私の場合は仕事を決してサボるのではなく、忙しい仕事の間に静かに集中し瞑想・発想に更けるのが目的です。

そんな瞑想・沈思黙考にかなうような場所の条件は、職場から徒歩10分程度で、無料(タダ)で、静かで、快適で、座ってゆっくり寛げる空間であること。

例えば、高級ホテルのロビーのようなところはこれらの条件にピッタリと合いますが、ホテル従業員に常に監視されているようで落ち着いて集中出来ませんし、お宝空間を発掘する面白みもありません。

さて、お待たせ致しました。私がオススメする「東京都心の無料&癒しオサボリ場所 ベスト20」…、もとい、「東京都心 無料で寛げる集中思考創造空間 ベスト20」を紹介しましょう。

1. 新丸ビル7階の「丸の内ハウスのテラス」。東京駅の赤レンガ駅舎を一望しながら寛ぐことが出来ます。

2. 新丸ビル3階の「行幸通り側に面したソファスペース」。吹き抜けで天井が高く、緑あふれる憩いの場。ソファに座りながらゆったり出来ます。

3. 新ビル2階の「仲通りに面した小さな隠れスペース」。ソファが3人分しかありませんが、その分、とっても静かで隠れ家のようなスペースを味わえます。

4. 丸ビル5階の「空中庭園」。大きな木が植えられており天井も高いため、抜群の吹き抜け感が心地よい場所。東京駅の赤レンガ駅舎を一望しながら寛ぐことが出来ます。

5. 丸ビル2階「1階の催事広場MaruCube を見下ろすテラス」。あまり知られてない隠れ家のようなスペース。そのため人通りもほとんどありません。

6. 丸の内オアゾ1階の「OO広場(おお広場)」。壁にはピカソの名作「ゲルニカ」原寸大複製陶板壁画が飾られており、雨の日にオススメの場所です。

7. KITTE 2階・3階の「東京大学総合研究博物館 インターメディアテク」。大型動物の骨格標本や剥製、鉱物のコレクションに囲まれて沈思黙考すれば、気分はすっかりインディジョーンズ。

8. KITTE 6階の「屋上庭園KITTEガーデン」。東京駅の駅前広場を吹き渡るそよ風にしばしの寛ぎ。

9. 丸の内ブリックスクエアの「一号館広場」。丸の内パークビルディングと三菱一号館美術館に囲まれた緑いっぱい中庭は見事。

10. 明治生命館1階のラウンジ。重要文化財のラウンジは天井も高く重厚にして荘厳。

11. 東京国際フォーラムのガラス棟の地下ロビー。「バブルの遺物」として、東京都のお荷物施設の1つとも揶揄されますが、地下とは思えない自然光がたっぷりの素敵空間。太田道灌にも会えます。

12. 東京交通会館3階の「木のテラス」。ここは鉄ちゃんの聖地です。走行中の東海道新幹線を同じ目線の高さで間近にみることができます。

13. 有楽町イトシア地下入り口のベンチ。江戸時代に南町奉行所があった場所。江戸時代の石垣から作ったベンチや木樋から作ったベンチで寛げば、気分は大岡越前。

14. Ginza Six(銀座シックス)の屋上庭園「GINZA SIX ガーデン」。森林ゾーン、水盤ゾーン、芝生ゾーンなどからなる見どころ満載の癒しスポット。銀座のド真ん中でのんびり自然と親しむことが出来ます。

15. 銀座三越9階の「屋上庭園」。出世地蔵尊もあるため、ここで寛ぎながら仕事すれば出世も間違いなし!(とは限りません)

16. ミッドタウン日比谷 6階の「屋上テラス」。緑いっぱいのテラスからは日比谷公園や皇居が見渡すことが出来ます。そよ風がとっても爽やかな居心地のよい空間。

17. 日本工業倶楽部会館の1階「三菱UFJ信託銀行 信託博物館」。東京駅前のこんな一等地に、こんなガラガラの博物館が存在するなんて、スペースの無駄使いと思ってはいけません。ピーターラビットにも会えます。

18. 三井住友銀行東館2階の「金融ミュージアム」。いつもガラガラの博物館。その分、ゆっくり寛げます。

19. 大手門近くの「ホトリア広場」。皇居外苑濠に隣接する約3,000m2もの緑地広場。皇居外苑濠の豊かな自然と歴史的景観を楽しみながら集中出来ます。

20. 大手町の森「OOTEMORI オーテモリ」。都心に作った本物の森。暑い夏のランチ時、ここの緑陰は最高です。

以上の集中思考創造空間はすべて、無料(タダ)で、静かで、快適で、座ってゆっくり寛げる空間です。さて、賢明な読者の皆様はもう既にお気づきかもしれませんが、もう1つだけ素晴らしい共通点があります。

それは、これらの場所がすべて地下通路でつながっていること。つまり、大雨や強風の日でも、フラッと手ぶらで簡単に移動できるのです。

こんなことばかり書いていると、なにやら私は職場を抜け出してオサボリばかりしているサボリーマンの典型みたいに思われそうです。でも、考え事に集中したい時や気分転換したい時など、上記のようなお気に入りの「オサボリ場所」、もとい、「集中思考創造空間」を複数持っていることは、とても重要なことだと考えています。

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2018年6月13日 (水)

歴史の深読み(長篠の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 07 ~

今まで6回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその7回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、それはなぜそれが起こったのであろうかとか歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、前回の「桶狭間の戦い」に続いて「長篠の戦い」を例に、述べてみたいと思います。

1 歴史上の「長篠の戦い」とは?

有名な「長篠の戦い」は、高校日本史の教科書:山川出版『詳説日本史B』では、次のように記述されています。

「 1575(天正3)年、三河の長篠で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突した戦い。織田・徳川連合軍は、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝した」

この戦いで、織田・徳川連合軍は約3万人、武田軍は1万5千人だったと言われています。

また、この戦いの意義は極めて大きかったと言えます。

(1)鉄砲が初めて効果的に使われ、以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼしました。

つまり織田・徳川連合軍が新兵器の鉄砲を組織的に使用し騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝したことで、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄砲隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘となったとされています。

(2)この戦いに敗れた武田軍は敗走、勝頼も身一つで信濃へ逃れました。

武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれます。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10)滅亡を招きました。

(3)宿敵を倒したことで、織田信長の勢力は強大化し、以後天下とりに邁進しました。

2 この戦いから様々なことが深読みできます

(1)武田勝頼はなぜ野戦で大軍と激突したのか?

この戦いで、織田・徳川連合軍は約3万人、武田軍はその半分の1万5千人だったと言われています。それなのに、武田勝頼は長篠城西方の設楽が原での野戦を選び、しかも自ら進んで織田・徳川連合軍に正面から激突しています。

その理由は、武田軍にとって、二倍程度の織田・徳川連合軍には「十分勝てる」との思いがあったのだと考えます。

①武田軍が勝てると思った理由の一つには、目の前の織田・徳川連合軍が大量の鉄砲(火縄銃)を持参していることは、武田軍も承知していましたが、当時の鉄砲(火縄銃)は、1)火縄銃なので雨では使えない 2)命中率が悪い 3)玉込めして打つまでに時間がかかり過ぎる などの欠点を幾つも持っており、実戦ではほとんど役に立たないと考えられていたことです。事実、武田軍もこの戦いにわずかながら鉄砲(火縄銃)を持参していましたが、ほとんど使っていません。

②武田軍が勝てると思った理由の二つには、織田・徳川連合軍の主力は足軽兵であり、武田軍は騎馬部隊、しかも戦国時代最強とも言われ「武田の騎馬部隊」として名を馳せた優れた騎馬部隊を持っていたことです。これは騎馬部隊にするには長期間の専門的な軍事訓練が必要で、鎌倉時代の守護出身の武田氏には代々武士の家のたくさんの騎馬武者が従っていたが、新興の織田氏には昔から使える騎馬武者が少なかったようです。当時の騎馬武者は、推定ですが、5倍の足軽兵・歩兵に勝てると思われていたそうですので、1万5千人の騎馬部隊なら7万5千人の歩兵部隊に勝てる計算になります。
                     
(2)ではなぜ織田信長は、鉄砲(火縄銃)を用いたのか?

①織田信長にはぜひ鉄砲(火縄銃)を使いたい理由がありました

1.信長は、鉄砲(火縄銃)は欠点も多いが、当たればすごい殺傷能力を発揮できることは、若い頃から鉄砲(火縄銃)を扱っていて知り尽くしていました。

2.織田軍が農民上がりの足軽中心で弱兵であることは織田信長にとっても重々分かっていました。しかしそれらの足軽兵に馬を与えて短期間で騎馬兵に養成することは、極めて困難です。しかし、鉄砲なら大した軍事訓練をしなくても打つことだけは割に簡単にできます。そのため自軍の主力の足軽部隊の強化のためには鉄砲は欠かせない武器だと考えたのでしょう。

②織田信長は、鉄砲(火縄銃)の欠点克服を懸命に考えて、実戦に効果的に使用しました

織田信長は、若い頃から鉄砲(火縄銃)に着目し、500丁を仕入れるなどしており、鉄砲(火縄銃)の良い点と弱点を知り尽くしていました。そうした中で欠点を克服し、いつか実戦で本格的に使用することを考えていたようです。

1.火縄銃なので雨では使えない

この「設楽が原での戦い(長篠の戦い)」に先駆けて「長篠城」の防衛戦があったのですが、ここを武田軍に攻められて守る徳川勢が旗色が悪くなり、何度も信長に援軍を依頼しましたがなかなか軍を送りませんでした。これを知った武田勝頼は、信長は武田軍を恐れて兵を出せないのだと理解したと言われています。しかし実は信長は武田軍を恐れたのではなく、天候が回復し雨が降らなくなる時期を待っていたようなのです。事実、「設楽が原での戦い(長篠の戦い)」当日には雨は降っていません。

もう一つ。信長は小雨程度なら鉄砲(火縄銃)が使えるように、火縄の改良も成し遂げていたようです。

2.命中率が悪い 

鉄砲には火薬の爆発による反動もありますし、相当訓練しないと、極めて命中率が悪くて、どこに飛んでいくか分からないということがあったようです。大した訓練時間がない足軽に持たせるには、命中率は期待できません。そこで考えたのが、大量の鉄砲による一斉射撃です。それなら眼前の集団の敵に対し、狙いは外れても、誰かが打った玉が当たるという考えで行けます。実際、これで名だたる武田武将が弱兵である足軽鉄砲隊の玉に当たって次々と戦死したのです。「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍は3000丁の鉄砲を使用したと言われています。

3.玉込めして打つまでに時間がかかり過ぎる

これについては、従来、織田の「鉄砲三段撃ち戦法」として語られてきましたが、最近の研究では、三段撃ちしたかどうかは、疑わしいとされています。しかし、いずれにしても大量の鉄砲を集団で撃つのですから、誰かが玉込めしている間に別人が打つという具合に間断なく撃たれたものと思われます。従って、武田軍にしてみれば、玉込めしている隙をついて攻撃を仕掛けることはできなかったものと思われます。

(3)織田信長は、どのようにして大量の鉄砲(火縄銃)を用意したのか?

織田信長は、若い頃から鉄砲(火縄銃)に着目していました。鉄砲(火縄銃)は欠点も多いが、当たればすごい殺傷能力を発揮できることは、若い頃から鉄砲(火縄銃)を扱っていて知り尽くしていました。そうした中で欠点を克服し、いつか実戦で本格的に使用することを考えていたようです。実戦使用のためには、鉄砲の大量調達が必要です。「長篠の戦い」で3000丁の鉄砲を用意したという説は、現在の研究では疑問も投げかけられていますが、いずれにしても、間断なく効果ある一斉射撃ができるほどの大量の鉄砲が用意されたことは確実でしょう。

①信長は「堺」の町を支配下におさめることに力を注いだ

1.堺の町は貿易港で、鉄砲の火薬に使用する「硝石」の輸入港でした。当時の日本では「硝石」はほとんど生産できず、輸入に頼っていました。従って「硝石」を牛耳ることは「鉄砲」を牛耳ることにつながったのです。

2.「堺」は有名な刀鍛冶の町でもありました。この刀鍛冶の技術の上に鉄砲を生産させ、しかも分業を取り入れて大量生産を試みさせました。種子島で日本人が初めて鉄砲を2丁手に入れた頃(1543年、長篠の戦いの32年前)は1丁1~2億円ほどもした鉄砲が、大量生産によって1丁数十万円程度で手に入るようになってきました。こうして信長は、堺から大量の鉄砲を調達したのです。

②信長は、「長篠の戦い」には鉄砲をレンタルで手に入れた

鉄砲は高価な武器でしたので、何千丁と大量に調達するのはいささか困難でした。そこで信長は「長篠の戦い」に当たって、戦いに参加しない家臣から、少しずつレンタルで手に入れて、堺調達分に併せて家臣からのレンタル分も長篠・設楽が原に持参したようです。

(4)織田信長が行った鉄砲(火縄銃)を効果的に用いる工夫は?

信長は、鉄砲(火縄銃)を効果的に使用するために、「長篠の戦い」では様々な工夫をしました。

①なぜ長大な「馬防柵」を築いたのか

信長は、足軽兵に大量の丸太を運搬させて、長篠・設楽が原に長大な「馬防柵」を築かせました。それはなぜか?「馬防柵」とは、名前のとおり馬を防ぐ柵です。馬というのは賢い動物で、目の前に障害物を見るとそれにぶつからないように自分からブレーキをかけて立ち止まってしまうのだそうです。だから今でも馬の障害物走は高い乗馬技術がいるのだそうです。信長は武田騎馬軍を「馬防柵」の前で馬をストップさせてそこを鉄砲で一斉射撃することを企画したのでしょう。

②信長は、戦闘場所の地形も有利になるように選んだ

長篠・設楽が原の織田軍の馬防柵の前は川と湿地帯です。信長はそこで武田騎馬部隊が脚をとられて動きが鈍くなるとことを予想し、動きが鈍くなった軍団に一斉射撃することを企画したのでしょう。

また、長篠・設楽が原の織田軍の位置に対し、武田軍はやや小高い丘の上です。信長は、武田騎馬部隊が一斉に勢いよく自軍に向けて攻めかかってきて、しかも川と湿地帯で脚をとられて動きが鈍くなることを考えて、そこに馬防柵を築いたのでしょう。

こうして、織田信長は、長い時間をかけて様々な工夫と準備をしてこの「長篠の戦い」に臨んだと深読みすると、今まで知っていた歴史もさらに面白くなりませんか?
                                         

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2018年6月 8日 (金)

文豪 永井荷風が愛し、通い続けた老舗飲食店2店の閉店

~ わさくの悪知恵 213 

文豪の永井荷風(1878年~1957年)は東京文京区に生まれたが、晩年を我が街千葉県市川市で過ごされ、市川市縁の著名人の一人としてあげられている。昭和21年から亡くなる昭和32年までを此方で過ごされていた。

文豪として華やかな経歴がある一方、遊女をこよなく愛し、2度の離婚を経て私生活を破綻し、独身で死を迎えたことから「稀代の変人作家」と称される事も多かったらしい。

その永井荷風が自宅の近くで、ほぼ毎日のように通われた和食の【大黒屋】というお店が京成八幡駅ホームのすぐ脇にあった。毎回食されていたのが、並カツ丼、上新香、日本酒一合で、後にお店で「荷風セット」(¥1,500)となるものである。

Photo一説によると亡くなる前日にもこのセットを召し上がられたそうで、日本最高の日記文学と称される「断腸亭日乗」の最後に記することになったのがこの大黒屋さんのことらしい。(私は未だ読んだことがないので〝らしい″とさせていただく)

この大黒屋さん、創業は昭和13年の老舗。

私自身も小さい頃から何回か利用させてもらった記憶があるが、一つ苦い思い出がある。

もう30年ほど前に地元の出身高校のOB会がそこで開かれたのだが、出席者が少ない云々の流れからか年配の先輩方が気を害されたのか、出席している我々が「正座」を食らってしまった事がある。最も男子校の格闘技部のOB会であるからその当時であれば当たり前の事ではあったのだが・・・

それ以降足が遠のいてしまったが、2017年6月末にて閉店となってしまった。その年の3月に食中毒事件を発生し、そのまま再開することなく閉店となった流れは気付かなかった。80年の歴史に幕を下ろしたことになる。

現在は建物も屋号,看板もそのままで「学習塾」として運営されている。

もう1店は浅草にある洋食屋「アリゾナキッチン」だ。1949年(昭和24年)創業の老舗だった。

こちらにも永井荷風は頻繁に市川からタクシーに乗られて通われたという。店内には大きな荷風の写真が飾られていたのが記憶にある。

先日家族絡みで浅草に繰り出し、久しぶりにこの「アリゾナキッチン」に行ってみようとなったが、どう探しても店が見つからない。

もともと路地裏にあったところなので見落としたかと思ったが、近くのお店で聞いてみたら2016年10月に閉店となったことがわかる (67年間の営業)。

ご丁寧に場所まで教えてくれて行ってみたら、いかにも少し前に閉店したお店の佇まいで窓ガラスには確かにArizona Kitchenとプリントされているのが判った。

ここで永井荷風がこよなく愛したのが「チキンレバークレオール」。

Photo_3鶏肉と鶏のレバーを玉ねぎと一緒にトマトソースで煮込んだもので、ハッシュドビーフに近い味付けの料理で、どちらかというと鶏肉はあまり食さない私でも大好物の一つだった。

このお店かなり前になるが、浅草で我ら<遊子会>を開催した際に懇親会パート1で利用したことがあるので、覚えておられる方もいるかと思う。

このお店も「断腸亭日乗」にもよく登場しているらしい。

初代タイガーマスク、「あしたのジョー」のちばてつやさんなどもこの店のファンだったとの事。

閉店理由はわからないが、最後のオーナーで3代目だったはずだ。

いづれにしても何度か利用したことのある老舗飲食店がなくなっていく事は、時代の流れとして受け止めるしかないのだが、何となく寂しい気持ちになってくる。それも我が寄る年波かな?

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2018年6月 5日 (火)

柔らかい発想を身につけよう

ビジネスパーソンなら誰でも、「仕事で成果を上げたい」と思っています。ところが、実際はなかなか思うようにいきません。

たとえば、「いい企画が生まれない」「売上が低迷している」「技術の壁にぶつかっている」……というようにです。

では、なぜ思うようにいかないのでしょうか。

原因は、常識や従来のやり方にとらわれているからです。やり方が固定化・マンネリ化しているからうまくいかないのです。

従来の固定したやり方にとらわれず、柔軟にやり方を変える必要があります。

八百屋さんのことです。

トマトを売るとき、常識的には「トマトはいかがですか」と声を掛けます。しかし、このようなマンネリ化した声の掛け方をしても売れません。

そこで、「甘さが違います。普通のトマトは糖度が5ですが、これは倍の10もあります」と声を掛けます。すると売れます。

このように、従来のやり方にとらわれず、状況に応じて柔軟に対応する(柔らかい発想をする)ことで成果を上げることができます。

従来通りやっていたのではうまくいきません。ぜひこの機会に、柔らかい発想を身につけてください。 詳しくはこちら

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