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2018年5月14日 (月)

歴史の深読み(桶狭間の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 06 ~

今まで5回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその6回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、「桶狭間の戦い」を例に、述べてみたい。

1 歴史上の「桶狭間の戦い」とは?

有名な「桶狭間の戦い」は次のように歴史的事実が捉えられています。

「桶狭間の戦い」とは、1560(永禄3)年5月、尾張をようやく統一したばかりの新興の戦国大名織田信長25歳とすでに駿河・遠江・三河の三国を領する戦国の大大名今川義元との間におこった戦いであることは、皆さんご存じのことと思います。

この時尾張に攻め込んだ今川軍は約2万5千の兵、これを迎えた織田軍は約5千と言われています。約5分の1の兵力差です。しかも今川氏は、関東の北条氏や、甲斐の武田氏との間に同盟を締結しており、後顧の憂いのない状況を作り上げていました。その戦力差は圧倒的です。この時の今川氏の尾張侵攻の狙いは、上洛説と勢力拡大説と両説があります。

今川軍約2万5千は尾張に侵攻すると織田方の各地の砦を次々に襲撃し、前衛の丸根砦,鷲津砦は5月19日までに陥落してしまいました。この時織田方の軍議では、家臣の間には籠城すべしとの意見が強かったのですが、18日夜半、信長は少数で清洲城を出て出撃しました。

しかし信長はどの砦の支援にも向かわず、熱田神宮で戦勝祈願し、家臣が集結するのを待ちました。約2千の兵が集結した頃、今川義元が桶狭間村の田楽狭間で休憩をとっているとの情報を得た信長は、直ちに2千の全軍で田楽狭間に向かい、今川義元の本陣約5千を急襲しました。

折しも雨が激しくて今川軍は織田軍の急襲に気づくのが遅れたと言います。これが「桶狭間の戦い」です。この戦いで織田軍はついに今川義元の首を上げました。義元が討ち死にしたことで今川軍は総崩れとなり、敗走しました。そして、信長はこの勝利によって勢力を急速に増大させたのです。

2 この戦いから様々なことが深読みできる

(1)織田信長はなぜ籠城策をとらなかったのか?

尾張に侵攻した今川軍は約2万5千であり、対する織田軍は約5千に過ぎません。こうした圧倒的戦力差の戦いでは劣勢の軍にとって野戦は不利であり、籠城策をとるのが通常です。事実織田家臣団も軍議では籠城策を主張したそうです。しかし信長はこうした状況にもかかわらず、籠城策をとらず出撃しました。

<では、信長はなぜ籠城策をとらなかったのでしょうか?>

私は信長はこの時既に「天下布武」を夢見ていたのではないかと考えます。一般には信長が「天下布武」を考えたのは、後に美濃の斎藤氏を倒して岐阜城に入城して「天下布武」の印判を使った時からだと言われていますが、私はもっと前、尾張を統一したあたりから末は「天下布武」を夢見ていたのではないかと推測します。

だから信長は、今川軍の尾張侵攻に対し、降参もせず、籠城もしなかったのではないでしょうか。籠城策は負けるのを遅らし、できるだけ負けないことを狙う策ですが、籠城策では勝ち目は薄い。このとき信長は、将来の「天下布武」のためにこの戦いの勝ちを狙って、あえて野戦を選択したのではないか、と私は推測します。

(2)織田信長はこの戦いで何をめざしたのか?

今川義元の尾張侵攻に際して、普通の人なら5倍の戦力を持つ今川軍を何とかやり過ごすことを考えるでしょうが、信長はそうではなく、初めから5倍の今川軍を倒し勝利をおさめることをめざしたのではないかと私は考えます。

信長は(もしかしたら信長だけは)勝利をめざしたからこそ、籠城策をとらなかったのであり、今川軍に勝つためのチャンスは野戦にあると考えて清洲城を出ることを選んだのでしょう。

そして5倍の戦力の今川軍に勝つためは、多勢の今川全軍との戦いに勝つことははなから諦め、大将の今川義元さえ倒せば敵が混乱し味方の勝利になることを見越し、今川義元の首を上げることだけに全力を傾注したのではないかと私は推測します。

(3)織田軍はなぜ今川軍に勝てたのか?

織田軍は今川義元の首を上げることで今川軍を混乱に陥れ敗走させることに成功しましたが、なぜそれができたのでしょう。私は以下のように幾つもの勝因があると考えます。

①信長は初めから今川軍に勝つことを狙っていた

 だから勝てたのです。これが一番大切な勝因だと思います。
   
②信長(大将)の勝利の戦略がしっかりしていた

たとえ勝つことを狙っていても戦略がしっかりしていなければ勝てません。信長は劣勢の自軍にとって勝利の条件は敵の大将を倒すことしかないと見切っていたことが大事な勝因です。そのために自軍の砦が攻撃されついには占領されてもそれらを支援することよりも義元を倒すことを優先しました。

③信長は勝利の条件である義元の首を上げることに全力を傾注した

信長は「桶狭間の戦い」の事後の恩賞を決める際に、大将首を上げた武将よりも、義元が桶狭間村の田楽狭間にいることを知らせた武将を一番手柄としています。ここにも義元の首を上げるためには義元のありかを知ることがなによりも大切であり、義元本体の襲撃こそ信長の狙いであったことが示されています。

また信長は、劣勢の自軍の砦の支援には兵を送らず、集結した2千の兵全軍を義元本体の攻撃に使いました。義元本隊がどこにいるかの情報を得て迷わずすぐに全軍で急襲したことがおおきな勝因でしょう。田楽狭間の義元本体は約5千の兵だったと言われています。義元本体約5000対信長率いる織田軍約2000だったので勝負になったのです。

④今川義元には油断があったのでは

今川義元はなぜ田楽狭間という攻撃されやすい場所にいたのでしょう?砦を占拠したなら今川本体も砦に入るかそれでなくても田楽狭間よりもっと防御しやすい場所にいるべきではなかったでしょうか?しかも戦いの最中に戦場でのんびり休憩して昼食をとっていたとはなぜでしょう?

私はそこに義元の油断を感じます。義元側から言えば、最初から兵力に大きな差があって敵を見くびっていた上に、織田方の丸根・鷲津などの砦が簡単に落とせたことでさらに油断が生じたのでしょう。

また、今川軍は約2万5千もいたのにそれを分散し、義元本隊は5千だったのも油断かまたは戦術のミスでしょう。さらに織田方が丸根・鷲津などの砦の守兵にわずか500程の兵士しか割いていないのももしかしたら、砦は捨て駒として簡単に負けて今川軍の油断を誘う手段だとしたら恐ろしいことです。

⑤雨も幸いした

信長軍が田楽狭間を急襲する時に折しも雨が激しくなり、雨音で信長軍の接近に義元軍が気付くのが遅れたそうです。こうした運も信長軍に幸いしたのでしょう。

⑥信長には地の利があった
                                                      
信長は幼少の頃より戦争ごっこが好きであって、近習と地元を駆け回っていたと伝えられています。そのため信長は戦場となった桶狭間の地域は知り尽くしていたので有利であったと考えられます。
 

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