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2018年5月

2018年5月30日 (水)

安かろう、良かろう、を考える  

~ soji の今日もワクワク 239  ~

JR東北本線「栗橋」駅は埼玉県久喜市にあります。縁があり、初めて降り立ちました。埼玉県の北のはずれ。利根川をはさんで向こうは茨城県です。

降りてびっくり。商店街も無く、駅前に飲食店が数店。あとはタクシー乗り場だけ、田舎の風情満載です。昼食時、何を食べようかと言っても選択肢はほとんどない。仕方なく日本そば屋に入りました。「十割そば850円」を頼むことに。

私は立ち食いそばが好きで、週に2~3度は食べています。天ぷらを乗せても400円程度。最近駅前でよく見るようになった「富士そば」のもりはなんと330円です。だから850円はいかにも高い。しかし一口食べて思い出しました。打ち立ての香り。しこしことした歯触り、そしてのど越し。しょっちゅう食べているのに、本来のそばの味を忘れていることを。

ただ私は立ち食いそばを悪く言うつもりはありません。店によっては24時間、いつでも手ごろな価格で美味しく食べさせてくれます。「安かろう、悪かろう」ではない、まさに「安かろう、良かろう」の定番です。

そばだけではありません。私たちの周りには安くて良いものがあふれています。例えばコーヒー。マクドナルドのSサイズのホットは何と100円。それで店内で結構粘れます。

回転寿司は休日になると、どこの店も家族連れで一杯。最近はラーメンやうどん、うな丼やケーキも提供されています。それも専門の店よりも安い価格で。

スーパーマーケットや衣料商品、100円ショップなどの流通業。宅配などのサービス業も、まさに良心的。本当にありがたいことです。

しかし安いものはなぜなのか。そばにしろ、コーヒーや寿司にしろ、ちゃんと人手を介したものは、それなりの価格がすることを再確認するべきでしょう。

一方、ネットでこんなコラムがありました。入社一年目の女子社員。仕事で頑張ったと言うので廻らない寿司屋に連れて行ってご馳走した上司。ところが、彼女、浮かない顔をしています。せっかくのにぎりも手を出さず、せいぜい刺身数切れに箸を付ける程度。店を出て、何が気に入らなかったのか聞いてみると、なんと驚くべき答えが。

「だってあの板前さん、寿司を素手て握っているから」

だそうです。不潔で食べる気にならなかったとか。確かに廻る寿司屋ではシャリは機械が型にご飯を押し込んで吐き出すだけ。仮に人が握ったとしても使い捨てのビニール手袋をはめている。

寿司は素手で握るから美味しいのだと知らぬまま、大人になってしまった彼女はなんと可哀想なことか。ネット上での話ですから、どこまで真実か分かりませんが、廻る寿司屋で喜んでいる子供たちを見ていると、きっと本当のことだと思います。

またこんな話もあります。

横浜から田舎暮らしを始めたくて岡山に引っ越した方。年に10度ほど仕事で東京に出てくるのですが、とにかく野菜が不味いのだそうです。驚いたのは、この野菜を食べていると口内炎が出来てくる。そして岡山に帰るとすぐに治ってしまうのだとか。私たちの食べている物は、本当に安全なのか。心配になって来ます。

栗橋で十割そばを食べてから、私はたまには「良いから高い」ものを経験しようと努めています。と言っても大したことではありませんが。

例えばコーヒー。専門店で500円近いお金を払い、一杯ずつサイホンで淹れてくれるコロンビア。当然ブラックで。100円では味わえない酸味とコクがそこにはあります。

例えば寿司。店にもよりますが、ランチのにぎりなら1,000円程度で食べられます。米と米の間に微妙なすき間があるシャリは、まさに職人技。有名店に行かなくても、回転寿司との違いは充分分かります。

野菜は生産現場まで行かないと難しいかもしれません。久しぶりに採れたての甘いトマトなんか食べてみたいですね。

先人の血がにじむ努力の結果、私たち現代人は安くて良いものを手に入れられるようになりました。だから時にはこうして「良いから高い」を振り返らないといけないと思います。

ひょっとすると、素手で握った寿司の食べられない女性のように、本来の良さを識別する能力を無くしているかもしれません。それが安心安全に関するものだとしたら、実に怖いことですね。

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2018年5月24日 (木)

弓月国(ゆずきのくに)という地域

~ おさむの鳥の目218

先日、京都市埋蔵文化財研究所の人の「埋蔵文化財から見える廣隆寺の姿」という講演を聴く機会がありました。造営当初の廣隆寺境内は今よりはるかに広大で、このあたりを発掘調査すると、古墳時代後期から飛鳥時代前期の竪穴住居が多く見つかるということでした。

廣隆寺は「蜂岡寺」とも呼ばれており、私の家の北東400メートルのところに「蜂岡中学」という学校がありますので、親近感を持ってしまいます。「竪穴住居があったのか」と思うと同時に、発掘現場跡が現在の生活道路ですから、昔と今を重ねて認識することが出来、昔の時代を詳細に知ることができる発掘調査とは面白いものだと改めて思いました。

そして、現在の姿で言って、廣隆寺の200メートル東にある大酒神社、これについては前にも触れましたが、その祭神の一人に、「秦始皇帝」に並んで「弓月君(ゆんずのきみ)」の名が出てきます。日本書紀には、秦氏渡来について弓月君が百済より127県の人々を率いてやってきたと記載があるそうです。

グーグルで検索すると、「弓月君」という名前は、シルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えた「弓月国」と関連しているのではないだろうかという記載があり、「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったとあります。

さらに、「この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹の貿易を独占していたのである。秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。」とも書かれています。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)については、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。伝説上の人物であり、実在は不明であるとあり、明確に歴史に名を残している人物ではありません。

このように、弓月君は明確な歴史上の人物とは言い切れないのですが、伝えられるように、中国の西外側にあった弓月国という地域に住んでいた人々を束ねて、朝鮮半島経由で日本に来た渡来人の首領であったと考えられます。

その後、秦氏は日本の社会に大きい貢献をしたことは広く知られたところです。その力の源泉は、治水工事などの突出した技術力や生活用品の生産技術など秦氏が備えている知的能力です。そして、これらの知的財産は、西方の先進民族から伝わったものと考えられます。

ところで、弓月国の地域では、この地域は「月」の地であり、西のローマは「星」の地、東の地(日本)は「太陽」の地だと考えられていたと言います。ほかの話ですが、天啓を受けて東の地(日本)へ行こうという考えを持った人がいたという話を聞いたことがあります。

この二つの話を結びつけたのは私であり、何の根拠もありません。しかし、上記秦氏の「弓月国から来た」という話は事実であるようであり、これとは別に、中国には「開封」という都市があって、昔からユダヤ人が住み続けているという実例があります。(「開封のユダヤ人」で検索できます。)

また、ユダヤの失われた十部族が住むと言われている地域が、シルクロードに沿っていくつもあるという事実も知られていますので、上記弓月君のように「西方から東の国(日本)へやって来た」例は、ほかにもあるという考えは、簡単には否定できないと思っています。

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2018年5月20日 (日)

料理教室

~さかもっちゃんの知ったかぶりぶり 182~

私、最近、料理教室にハマってます。

もともと研究者のハシクレだった私にとって、料理は科学実験のようなもの。手を動かすのはそれほど苦になりません。科学実験成功の秘訣は、仮説設定とそれを証明するための段取りと下ごしらえ。これは料理と実験に共通する考え方です。

料理の最終イメージをしっかりと思い描き、そのイメージを実現するために段取りと下ごしらえする。レシピにしたがって材料を揃え、適切に下ごしらえさえすれば、あとは手順通り調理するだけ。ほぼ成功は保証されます。

もちろん、どんなに万全に準備しても、時として料理を失敗することもあります。そんな時は、科学実験と同様、失敗の考察が大事。

科学実験ではiPS 細胞のように失敗から大きな新しい発見につながることがありますが、料理の失敗も同様です。肉じゃがはビーフシチューの失敗から生まれたとか。

さて、そんな料理教室で、私が特に好きな料理を2つほど紹介させて下さい。

まずはメインディッシュから。

1. 天ぷら粉を水で溶き、少しもったりするくらいにしておきましょう。

2. タマネギはなるべく薄切りに、ニンジンは細切りにカットし、天ぷらの衣と混ぜます。

3. アブラゼミ成虫を丸ごと1匹、天ぷらの衣と混ぜます。そして丸ごと揚げます。

4. タイワンツチイナゴを丸ごと1匹、天ぷらの衣と混ぜます。そして丸ごと揚げます。

5. カイコ、コオロギ、ミールワームにタマネギとニンジンを天ぷらの衣と混ぜて、かき揚げを作ります。

6. 次にタレを作ります。ハチの子を発酵させて作った蜂の子醤油とみりん、砂糖、料理酒を混ぜて弱火にかけ、2分ほど温めます。

7. 丼に御飯、天ぷらを乗せてタレをかけたら、「昆虫天丼」の完成です。

次はデザート。

1. ツムギアリとタガメを下茹でし、アリはザルで水気を切ります。

2. タガメを解体して、柔らかい肉を集めます。

3. ボウルに寒天とアリ、解体したタガメの肉を混ぜましょう。

4. リンゴ、キウイフルーツは一口サイズに切って、寒天とツムギアリの中に混ぜます。

5. クロスズメバチをミルサーで粉末状にし、粒あんと混ぜます。セミ幼虫は、溶かした砂糖と絡めてキャラメリゼ状態にしておきましょう。

6. 白玉を茹でて、そろそろ盛り付けの準備です。アイスが溶け出す心配があるので、盛り付ける時間を見計らいましょう。

7. アリ寒天、あんこ、アイス、ホイップクリームの順にのせます。

8. その上に、セミ幼虫を1匹、イナゴ3匹、バナナとサクランボをのせます。

9. 最後にアイス付近に黒蜜をかけたら、「虫あんみつ」の出来上がりです。

「虫天丼」に「虫あんみつ」。そう、私が最近ハマっているのは昆虫料理教室。はい、ムシの料理です。蒸し料理ではありませんよ。

冒頭で、料理は科学実験のようなものと述べましたが、色鮮やかな昆虫たちを解体し調理するのはまさに科学実験そのものなのなんです。ワクワクしながら楽しむ昆虫料理作り。

ところで、昆虫料理が科学実験と大きく違うところは、昆虫料理では大きな失敗をすることが無いこと。そもそも誰も「これこそが正統派の昆虫料理!」って言うイメージを持っていませんからね。これも昆虫料理の素晴らしいところ。

創意工夫あふれる昆虫料理、アナタもいかがでしょ?

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2018年5月14日 (月)

歴史の深読み(桶狭間の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 06 ~

今まで5回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその6回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、「桶狭間の戦い」を例に、述べてみたい。

1 歴史上の「桶狭間の戦い」とは?

有名な「桶狭間の戦い」は次のように歴史的事実が捉えられています。

「桶狭間の戦い」とは、1560(永禄3)年5月、尾張をようやく統一したばかりの新興の戦国大名織田信長25歳とすでに駿河・遠江・三河の三国を領する戦国の大大名今川義元との間におこった戦いであることは、皆さんご存じのことと思います。

この時尾張に攻め込んだ今川軍は約2万5千の兵、これを迎えた織田軍は約5千と言われています。約5分の1の兵力差です。しかも今川氏は、関東の北条氏や、甲斐の武田氏との間に同盟を締結しており、後顧の憂いのない状況を作り上げていました。その戦力差は圧倒的です。この時の今川氏の尾張侵攻の狙いは、上洛説と勢力拡大説と両説があります。

今川軍約2万5千は尾張に侵攻すると織田方の各地の砦を次々に襲撃し、前衛の丸根砦,鷲津砦は5月19日までに陥落してしまいました。この時織田方の軍議では、家臣の間には籠城すべしとの意見が強かったのですが、18日夜半、信長は少数で清洲城を出て出撃しました。

しかし信長はどの砦の支援にも向かわず、熱田神宮で戦勝祈願し、家臣が集結するのを待ちました。約2千の兵が集結した頃、今川義元が桶狭間村の田楽狭間で休憩をとっているとの情報を得た信長は、直ちに2千の全軍で田楽狭間に向かい、今川義元の本陣約5千を急襲しました。

折しも雨が激しくて今川軍は織田軍の急襲に気づくのが遅れたと言います。これが「桶狭間の戦い」です。この戦いで織田軍はついに今川義元の首を上げました。義元が討ち死にしたことで今川軍は総崩れとなり、敗走しました。そして、信長はこの勝利によって勢力を急速に増大させたのです。

2 この戦いから様々なことが深読みできる

(1)織田信長はなぜ籠城策をとらなかったのか?

尾張に侵攻した今川軍は約2万5千であり、対する織田軍は約5千に過ぎません。こうした圧倒的戦力差の戦いでは劣勢の軍にとって野戦は不利であり、籠城策をとるのが通常です。事実織田家臣団も軍議では籠城策を主張したそうです。しかし信長はこうした状況にもかかわらず、籠城策をとらず出撃しました。

<では、信長はなぜ籠城策をとらなかったのでしょうか?>

私は信長はこの時既に「天下布武」を夢見ていたのではないかと考えます。一般には信長が「天下布武」を考えたのは、後に美濃の斎藤氏を倒して岐阜城に入城して「天下布武」の印判を使った時からだと言われていますが、私はもっと前、尾張を統一したあたりから末は「天下布武」を夢見ていたのではないかと推測します。

だから信長は、今川軍の尾張侵攻に対し、降参もせず、籠城もしなかったのではないでしょうか。籠城策は負けるのを遅らし、できるだけ負けないことを狙う策ですが、籠城策では勝ち目は薄い。このとき信長は、将来の「天下布武」のためにこの戦いの勝ちを狙って、あえて野戦を選択したのではないか、と私は推測します。

(2)織田信長はこの戦いで何をめざしたのか?

今川義元の尾張侵攻に際して、普通の人なら5倍の戦力を持つ今川軍を何とかやり過ごすことを考えるでしょうが、信長はそうではなく、初めから5倍の今川軍を倒し勝利をおさめることをめざしたのではないかと私は考えます。

信長は(もしかしたら信長だけは)勝利をめざしたからこそ、籠城策をとらなかったのであり、今川軍に勝つためのチャンスは野戦にあると考えて清洲城を出ることを選んだのでしょう。

そして5倍の戦力の今川軍に勝つためは、多勢の今川全軍との戦いに勝つことははなから諦め、大将の今川義元さえ倒せば敵が混乱し味方の勝利になることを見越し、今川義元の首を上げることだけに全力を傾注したのではないかと私は推測します。

(3)織田軍はなぜ今川軍に勝てたのか?

織田軍は今川義元の首を上げることで今川軍を混乱に陥れ敗走させることに成功しましたが、なぜそれができたのでしょう。私は以下のように幾つもの勝因があると考えます。

①信長は初めから今川軍に勝つことを狙っていた

 だから勝てたのです。これが一番大切な勝因だと思います。
   
②信長(大将)の勝利の戦略がしっかりしていた

たとえ勝つことを狙っていても戦略がしっかりしていなければ勝てません。信長は劣勢の自軍にとって勝利の条件は敵の大将を倒すことしかないと見切っていたことが大事な勝因です。そのために自軍の砦が攻撃されついには占領されてもそれらを支援することよりも義元を倒すことを優先しました。

③信長は勝利の条件である義元の首を上げることに全力を傾注した

信長は「桶狭間の戦い」の事後の恩賞を決める際に、大将首を上げた武将よりも、義元が桶狭間村の田楽狭間にいることを知らせた武将を一番手柄としています。ここにも義元の首を上げるためには義元のありかを知ることがなによりも大切であり、義元本体の襲撃こそ信長の狙いであったことが示されています。

また信長は、劣勢の自軍の砦の支援には兵を送らず、集結した2千の兵全軍を義元本体の攻撃に使いました。義元本隊がどこにいるかの情報を得て迷わずすぐに全軍で急襲したことがおおきな勝因でしょう。田楽狭間の義元本体は約5千の兵だったと言われています。義元本体約5000対信長率いる織田軍約2000だったので勝負になったのです。

④今川義元には油断があったのでは

今川義元はなぜ田楽狭間という攻撃されやすい場所にいたのでしょう?砦を占拠したなら今川本体も砦に入るかそれでなくても田楽狭間よりもっと防御しやすい場所にいるべきではなかったでしょうか?しかも戦いの最中に戦場でのんびり休憩して昼食をとっていたとはなぜでしょう?

私はそこに義元の油断を感じます。義元側から言えば、最初から兵力に大きな差があって敵を見くびっていた上に、織田方の丸根・鷲津などの砦が簡単に落とせたことでさらに油断が生じたのでしょう。

また、今川軍は約2万5千もいたのにそれを分散し、義元本隊は5千だったのも油断かまたは戦術のミスでしょう。さらに織田方が丸根・鷲津などの砦の守兵にわずか500程の兵士しか割いていないのももしかしたら、砦は捨て駒として簡単に負けて今川軍の油断を誘う手段だとしたら恐ろしいことです。

⑤雨も幸いした

信長軍が田楽狭間を急襲する時に折しも雨が激しくなり、雨音で信長軍の接近に義元軍が気付くのが遅れたそうです。こうした運も信長軍に幸いしたのでしょう。

⑥信長には地の利があった
                                                      
信長は幼少の頃より戦争ごっこが好きであって、近習と地元を駆け回っていたと伝えられています。そのため信長は戦場となった桶狭間の地域は知り尽くしていたので有利であったと考えられます。
 

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2018年5月10日 (木)

2018年5月2日

~ わさくの悪知恵 212 

朝、珍しく普段よりも早く目覚めて自宅を出勤のため出発。

ここ数年「5月2日」は私にとって鬼門の日だ。

某テレビ局が頑なに「大型連休」と呼称するのに違和感を持つゴールデンウィーク谷間の「平日」。3日からの連休後半の前日だ。

何故鬼門かというと、毎年何故か「休んでいる面々のため働かされる」からだ。不思議と毎年そんな案件がわが身に降り掛かって来る。さて今年は如何に?

出社してみると現在10人体制の我が部署ですでに3人が有給取得済み。

私自身はこの連休の谷間にやっておかなければいけないミッションが一つあった。

とある「有価証券」の海外への送付だ。

その昔はその証券の裏にサインをして書留扱いで送付していたものだが、現在は電子化のデータの送付でOKになったので便利な時代を感ずる。幸い発行する業者から前日に受け取って早々と相手方に送付済みなので一安心なのだが・・・・

午前中は大事も発生せず昼休みに。

ここで2人が午後半休のため退社。

気分転換ではないが、仕事場近くの「1,000円カット」のサロンにヘアカットに。すぐ近くで税込み¥1,080で約10分で仕上げてくれるし、何といっても仕上がりが大のお気に入り。ただ仕事柄(巷の美容室が顧客)、あまり1,000円カットに通っている事は大きな声で言えない。

帰りにコンビニで昼食を買い、仕事場で頬張っている最中に電話が・・・・

前日に有価証券を送った相手からだ。あわてて食べ終え、その対応へ。

少し微妙な案件だったが、何とかこちら側で出せる答えを先方に提出。あとは先方側での対処を依頼。

そうこうしているうちにさらに2人が打ち合わせのため外出〜直帰。残ったのは私を含め3人。

こんな状況の中、例年数件の「ピンチヒッター案件」が発生するのだが、恐ろしいほど静かに時間が過ぎていく。

結局今年は何も発生せずに終業。少し拍子抜けだ。

毎年ゴールデンウィークを迎えるにあたり、昔ある大手商社に勤められていた知人が言ったコメントを思い出す。

それは「経済先進国ほど国民の祝日は少ないが、自由に有給休暇が取りやすく、経済発展国、後進国ほどその逆だ。そういう意味では、残念ながら我が国は後者に当たるのかも」というもの。

この辺が最近指摘されている日本の「労働生産性の低さ」にも関連するのかなあと考えながら退社準備を。

さあ今日は地元の立ち飲み屋で一杯やって帰ろうか?

おつかれさま、自分!

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2018年5月 4日 (金)

発想多彩クラブとともに平成時代を歩んできた

平成時代が1989年1月8日にスタートした。
その年に発想多彩クラブはアイデア開発クラブとしてスタートし、
次のように変遷している。

①アイデア開発クラブ(89.7~90.3)
②発想多彩クラブ   (92.9~98.3)
③創進クラブ     (98.4~00.3)
④発想多彩クラブ  (00.4~03.3) ここまで会費あり

⑤遊子会       (03.4~現在) これ以降会費なし

以上のように、平成元年にスタートし平成15年(03年)までクラブの活動をして、それ以降は今日まで会の活動をしている。
こうして平成時代とともに歩んできた。

「平成とはどんな時代か」を朝日新聞社が調査したところ、
トップは「動揺した時代」で、次に「沈滞した時代」が続いた。

わたし(さとう秀徳)にとって平成時代は「いきいきした時代」。
発想多彩クラブとメンバーの存在が大きく影響している。
これからもいきいきと活動していきたい。

今、わたしが目指すのは柔らかい発想。
固定観念にとらわれない柔軟性。
変化の激しい今日、これが求められている。

柔らかい発想をして、いきいきとやっていきたい。
詳しくはこちら

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