2018年5月20日 (日)

料理教室

~さかもっちゃんの知ったかぶりぶり 182~

私、最近、料理教室にハマってます。

もともと研究者のハシクレだった私にとって、料理は科学実験のようなもの。手を動かすのはそれほど苦になりません。科学実験成功の秘訣は、仮説設定とそれを証明するための段取りと下ごしらえ。これは料理と実験に共通する考え方です。

料理の最終イメージをしっかりと思い描き、そのイメージを実現するために段取りと下ごしらえする。レシピにしたがって材料を揃え、適切に下ごしらえさえすれば、あとは手順通り調理するだけ。ほぼ成功は保証されます。

もちろん、どんなに万全に準備しても、時として料理を失敗することもあります。そんな時は、科学実験と同様、失敗の考察が大事。

科学実験ではiPS 細胞のように失敗から大きな新しい発見につながることがありますが、料理の失敗も同様です。肉じゃがはビーフシチューの失敗から生まれたとか。

さて、そんな料理教室で、私が特に好きな料理を2つほど紹介させて下さい。

まずはメインディッシュから。

1. 天ぷら粉を水で溶き、少しもったりするくらいにしておきましょう。

2. タマネギはなるべく薄切りに、ニンジンは細切りにカットし、天ぷらの衣と混ぜます。

3. アブラゼミ成虫を丸ごと1匹、天ぷらの衣と混ぜます。そして丸ごと揚げます。

4. タイワンツチイナゴを丸ごと1匹、天ぷらの衣と混ぜます。そして丸ごと揚げます。

5. カイコ、コオロギ、ミールワームにタマネギとニンジンを天ぷらの衣と混ぜて、かき揚げを作ります。

6. 次にタレを作ります。ハチの子を発酵させて作った蜂の子醤油とみりん、砂糖、料理酒を混ぜて弱火にかけ、2分ほど温めます。

7. 丼に御飯、天ぷらを乗せてタレをかけたら、「昆虫天丼」の完成です。

次はデザート。

1. ツムギアリとタガメを下茹でし、アリはザルで水気を切ります。

2. タガメを解体して、柔らかい肉を集めます。

3. ボウルに寒天とアリ、解体したタガメの肉を混ぜましょう。

4. リンゴ、キウイフルーツは一口サイズに切って、寒天とツムギアリの中に混ぜます。

5. クロスズメバチをミルサーで粉末状にし、粒あんと混ぜます。セミ幼虫は、溶かした砂糖と絡めてキャラメリゼ状態にしておきましょう。

6. 白玉を茹でて、そろそろ盛り付けの準備です。アイスが溶け出す心配があるので、盛り付ける時間を見計らいましょう。

7. アリ寒天、あんこ、アイス、ホイップクリームの順にのせます。

8. その上に、セミ幼虫を1匹、イナゴ3匹、バナナとサクランボをのせます。

9. 最後にアイス付近に黒蜜をかけたら、「虫あんみつ」の出来上がりです。

「虫天丼」に「虫あんみつ」。そう、私が最近ハマっているのは昆虫料理教室。はい、ムシの料理です。蒸し料理ではありませんよ。

冒頭で、料理は科学実験のようなものと述べましたが、色鮮やかな昆虫たちを解体し調理するのはまさに科学実験そのものなのなんです。ワクワクしながら楽しむ昆虫料理作り。

ところで、昆虫料理が科学実験と大きく違うところは、昆虫料理では大きな失敗をすることが無いこと。そもそも誰も「これこそが正統派の昆虫料理!」って言うイメージを持っていませんからね。これも昆虫料理の素晴らしいところ。

創意工夫あふれる昆虫料理、アナタもいかがでしょ?

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2018年5月14日 (月)

歴史の深読み(桶狭間の戦い)

~ 池さんの歴史ナルホド! 06 ~

今まで5回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきました。今回はその6回目です。

今回は、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなど、を考えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて、「桶狭間の戦い」を例に、述べてみたい。

1 歴史上の「桶狭間の戦い」とは?

有名な「桶狭間の戦い」は次のように歴史的事実が捉えられています。

「桶狭間の戦い」とは、1560(永禄3)年5月、尾張をようやく統一したばかりの新興の戦国大名織田信長25歳とすでに駿河・遠江・三河の三国を領する戦国の大大名今川義元との間におこった戦いであることは、皆さんご存じのことと思います。

この時尾張に攻め込んだ今川軍は約2万5千の兵、これを迎えた織田軍は約5千と言われています。約5分の1の兵力差です。しかも今川氏は、関東の北条氏や、甲斐の武田氏との間に同盟を締結しており、後顧の憂いのない状況を作り上げていました。その戦力差は圧倒的です。この時の今川氏の尾張侵攻の狙いは、上洛説と勢力拡大説と両説があります。

今川軍約2万5千は尾張に侵攻すると織田方の各地の砦を次々に襲撃し、前衛の丸根砦,鷲津砦は5月19日までに陥落してしまいました。この時織田方の軍議では、家臣の間には籠城すべしとの意見が強かったのですが、18日夜半、信長は少数で清洲城を出て出撃しました。

しかし信長はどの砦の支援にも向かわず、熱田神宮で戦勝祈願し、家臣が集結するのを待ちました。約2千の兵が集結した頃、今川義元が桶狭間村の田楽狭間で休憩をとっているとの情報を得た信長は、直ちに2千の全軍で田楽狭間に向かい、今川義元の本陣約5千を急襲しました。

折しも雨が激しくて今川軍は織田軍の急襲に気づくのが遅れたと言います。これが「桶狭間の戦い」です。この戦いで織田軍はついに今川義元の首を上げました。義元が討ち死にしたことで今川軍は総崩れとなり、敗走しました。そして、信長はこの勝利によって勢力を急速に増大させたのです。

2 この戦いから様々なことが深読みできる

(1)織田信長はなぜ籠城策をとらなかったのか?

尾張に侵攻した今川軍は約2万5千であり、対する織田軍は約5千に過ぎません。こうした圧倒的戦力差の戦いでは劣勢の軍にとって野戦は不利であり、籠城策をとるのが通常です。事実織田家臣団も軍議では籠城策を主張したそうです。しかし信長はこうした状況にもかかわらず、籠城策をとらず出撃しました。

<では、信長はなぜ籠城策をとらなかったのでしょうか?>

私は信長はこの時既に「天下布武」を夢見ていたのではないかと考えます。一般には信長が「天下布武」を考えたのは、後に美濃の斎藤氏を倒して岐阜城に入城して「天下布武」の印判を使った時からだと言われていますが、私はもっと前、尾張を統一したあたりから末は「天下布武」を夢見ていたのではないかと推測します。

だから信長は、今川軍の尾張侵攻に対し、降参もせず、籠城もしなかったのではないでしょうか。籠城策は負けるのを遅らし、できるだけ負けないことを狙う策ですが、籠城策では勝ち目は薄い。このとき信長は、将来の「天下布武」のためにこの戦いの勝ちを狙って、あえて野戦を選択したのではないか、と私は推測します。

(2)織田信長はこの戦いで何をめざしたのか?

今川義元の尾張侵攻に際して、普通の人なら5倍の戦力を持つ今川軍を何とかやり過ごすことを考えるでしょうが、信長はそうではなく、初めから5倍の今川軍を倒し勝利をおさめることをめざしたのではないかと私は考えます。

信長は(もしかしたら信長だけは)勝利をめざしたからこそ、籠城策をとらなかったのであり、今川軍に勝つためのチャンスは野戦にあると考えて清洲城を出ることを選んだのでしょう。

そして5倍の戦力の今川軍に勝つためは、多勢の今川全軍との戦いに勝つことははなから諦め、大将の今川義元さえ倒せば敵が混乱し味方の勝利になることを見越し、今川義元の首を上げることだけに全力を傾注したのではないかと私は推測します。

(3)織田軍はなぜ今川軍に勝てたのか?

織田軍は今川義元の首を上げることで今川軍を混乱に陥れ敗走させることに成功しましたが、なぜそれができたのでしょう。私は以下のように幾つもの勝因があると考えます。

①信長は初めから今川軍に勝つことを狙っていた

 だから勝てたのです。これが一番大切な勝因だと思います。
   
②信長(大将)の勝利の戦略がしっかりしていた

たとえ勝つことを狙っていても戦略がしっかりしていなければ勝てません。信長は劣勢の自軍にとって勝利の条件は敵の大将を倒すことしかないと見切っていたことが大事な勝因です。そのために自軍の砦が攻撃されついには占領されてもそれらを支援することよりも義元を倒すことを優先しました。

③信長は勝利の条件である義元の首を上げることに全力を傾注した

信長は「桶狭間の戦い」の事後の恩賞を決める際に、大将首を上げた武将よりも、義元が桶狭間村の田楽狭間にいることを知らせた武将を一番手柄としています。ここにも義元の首を上げるためには義元のありかを知ることがなによりも大切であり、義元本体の襲撃こそ信長の狙いであったことが示されています。

また信長は、劣勢の自軍の砦の支援には兵を送らず、集結した2千の兵全軍を義元本体の攻撃に使いました。義元本隊がどこにいるかの情報を得て迷わずすぐに全軍で急襲したことがおおきな勝因でしょう。田楽狭間の義元本体は約5千の兵だったと言われています。義元本体約5000対信長率いる織田軍約2000だったので勝負になったのです。

④今川義元には油断があったのでは

今川義元はなぜ田楽狭間という攻撃されやすい場所にいたのでしょう?砦を占拠したなら今川本体も砦に入るかそれでなくても田楽狭間よりもっと防御しやすい場所にいるべきではなかったでしょうか?しかも戦いの最中に戦場でのんびり休憩して昼食をとっていたとはなぜでしょう?

私はそこに義元の油断を感じます。義元側から言えば、最初から兵力に大きな差があって敵を見くびっていた上に、織田方の丸根・鷲津などの砦が簡単に落とせたことでさらに油断が生じたのでしょう。

また、今川軍は約2万5千もいたのにそれを分散し、義元本隊は5千だったのも油断かまたは戦術のミスでしょう。さらに織田方が丸根・鷲津などの砦の守兵にわずか500程の兵士しか割いていないのももしかしたら、砦は捨て駒として簡単に負けて今川軍の油断を誘う手段だとしたら恐ろしいことです。

⑤雨も幸いした

信長軍が田楽狭間を急襲する時に折しも雨が激しくなり、雨音で信長軍の接近に義元軍が気付くのが遅れたそうです。こうした運も信長軍に幸いしたのでしょう。

⑥信長には地の利があった
                                                      
信長は幼少の頃より戦争ごっこが好きであって、近習と地元を駆け回っていたと伝えられています。そのため信長は戦場となった桶狭間の地域は知り尽くしていたので有利であったと考えられます。
 

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2018年5月10日 (木)

2018年5月2日

~ わさくの悪知恵 212 

朝、珍しく普段よりも早く目覚めて自宅を出勤のため出発。

ここ数年「5月2日」は私にとって鬼門の日だ。

某テレビ局が頑なに「大型連休」と呼称するのに違和感を持つゴールデンウィーク谷間の「平日」。3日からの連休後半の前日だ。

何故鬼門かというと、毎年何故か「休んでいる面々のため働かされる」からだ。不思議と毎年そんな案件がわが身に降り掛かって来る。さて今年は如何に?

出社してみると現在10人体制の我が部署ですでに3人が有給取得済み。

私自身はこの連休の谷間にやっておかなければいけないミッションが一つあった。

とある「有価証券」の海外への送付だ。

その昔はその証券の裏にサインをして書留扱いで送付していたものだが、現在は電子化のデータの送付でOKになったので便利な時代を感ずる。幸い発行する業者から前日に受け取って早々と相手方に送付済みなので一安心なのだが・・・・

午前中は大事も発生せず昼休みに。

ここで2人が午後半休のため退社。

気分転換ではないが、仕事場近くの「1,000円カット」のサロンにヘアカットに。すぐ近くで税込み¥1,080で約10分で仕上げてくれるし、何といっても仕上がりが大のお気に入り。ただ仕事柄(巷の美容室が顧客)、あまり1,000円カットに通っている事は大きな声で言えない。

帰りにコンビニで昼食を買い、仕事場で頬張っている最中に電話が・・・・

前日に有価証券を送った相手からだ。あわてて食べ終え、その対応へ。

少し微妙な案件だったが、何とかこちら側で出せる答えを先方に提出。あとは先方側での対処を依頼。

そうこうしているうちにさらに2人が打ち合わせのため外出〜直帰。残ったのは私を含め3人。

こんな状況の中、例年数件の「ピンチヒッター案件」が発生するのだが、恐ろしいほど静かに時間が過ぎていく。

結局今年は何も発生せずに終業。少し拍子抜けだ。

毎年ゴールデンウィークを迎えるにあたり、昔ある大手商社に勤められていた知人が言ったコメントを思い出す。

それは「経済先進国ほど国民の祝日は少ないが、自由に有給休暇が取りやすく、経済発展国、後進国ほどその逆だ。そういう意味では、残念ながら我が国は後者に当たるのかも」というもの。

この辺が最近指摘されている日本の「労働生産性の低さ」にも関連するのかなあと考えながら退社準備を。

さあ今日は地元の立ち飲み屋で一杯やって帰ろうか?

おつかれさま、自分!

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2018年5月 4日 (金)

発想多彩クラブとともに平成時代を歩んできた

平成時代が1989年1月8日にスタートした。
その年に発想多彩クラブはアイデア開発クラブとしてスタートし、
次のように変遷している。

①アイデア開発クラブ(89.7~90.3)
②発想多彩クラブ   (92.9~98.3)
③創進クラブ     (98.4~00.3)
④発想多彩クラブ  (00.4~03.3) ここまで会費あり

⑤遊子会       (03.4~現在) これ以降会費なし

以上のように、平成元年にスタートし平成15年(03年)までクラブの活動をして、それ以降は今日まで会の活動をしている。
こうして平成時代とともに歩んできた。

「平成とはどんな時代か」を朝日新聞社が調査したところ、
トップは「動揺した時代」で、次に「沈滞した時代」が続いた。

わたし(さとう秀徳)にとって平成時代は「いきいきした時代」。
発想多彩クラブとメンバーの存在が大きく影響している。
これからもいきいきと活動していきたい。

今、わたしが目指すのは柔らかい発想。
固定観念にとらわれない柔軟性。
変化の激しい今日、これが求められている。

柔らかい発想をして、いきいきとやっていきたい。
詳しくはこちら

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2018年4月30日 (月)

挨拶の功罪

~ soji の今日もワクワク 238  ~

4月。私の勤める会社も新しい期を迎えました。事業本部長の方針発表。内容に、サプライズがありました。なんとわざわざ時間を割いて「きちんと挨拶をしろ」と話したのです。

これが入社式のスピーチや、新任監督職向けの講話ならまだ分かります。しかし今回は役員を含めた一般管理職に対してです。私は入社して30年以上になりますが、こんな話を聞かされたのは正直初めてでした。

以前、ネットで目にした話。以下、「マンション内で挨拶禁止。あなたはどう思う?」より。

マンションに住む主婦から理事会への提案。子供には知らない人に挨拶をするなと教えているので、マンション内でも挨拶禁止のルールを設けてほしいとのこと。なんとこの提案、理事会で通ってしまったのだと。

確かに昨今、子供を襲ったのは身近にいる大人だったというニュースはしばしば耳にします。学校としても親としても、かなりナーバスになっているのはよく分かります。

私のマンション近くの交差点に立つ“緑のおじさん”のこと。(二人のおじさんを思う ~sojiの今日もワクワク210より~)

今では別のおじさんが勤めています。この人たちは対子供以外は何もしません。毎朝通勤で交差点を渡る私を認識しているだろうに、こちらを見ても知らんぷり。当然挨拶なんかまったくしません。知らぬ人とは接点を持つなと学校から教え込まれているのでしょうか。いつも無愛想に立っています。

子供たちも大人を敵視しているかのようです。これまた以前書いたネタ。(小さな一言で ~sojiの今日もワクワク219より~)。

見知らぬ大人への挨拶はもってのほか。だからこそマンション内でもそのルールを徹底して欲しい。理屈はわかりますがモヤモヤは消えません。

そんな中、先日、仕事の関係でとある大学に行った時嬉しい経験をしました。そこは東京都下、駅から徒歩15分の閑静な住宅街にあるこじんまりとしたキャンパス。すれ違う学生たちは、一様にこちらに挨拶してくるのです。随分と礼儀正しいな。

学生支援センターの方と話で理由が分かりました。周辺の住人がクレーマー化しているとのだそうです。見ると、キャンパスと隣接する住宅との境に高い塀が無い。大学の方が歴史が古いのに、後から家を建ててクレームを言うのもいかがなものかとは思います。が、大学としてはトラブルを避けるため学生に徹底指導しているのでしょう。

とは言え、挨拶をされてイヤな気はしません。日ごろ無愛想っぽい男子学生からも「こんにちは」と明るく言われ、実に気持ちいいのです。

悪いこと出来ぬ挨拶されるから (soji)

やましいことがあれば、まともに挨拶が出来なくなります。ましては相手の目を見ることなどもってのほか。コンプライアンスの徹底が叫ばれている昨今。不正防止のひとつとして挨拶の励行があるのでしょう。

しかし、挨拶は踏絵ではありません。相手を気持ちよくさせる。思いやり、おもてなしの精神が込められています。犯罪防止のため幼い子供には仕方ないかもしれませんが、挨拶に込められた良き精神だけはきちんと教えてあげて欲しいものです。

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2018年4月24日 (火)

京都太秦の大酒神社と播州赤穂の大避神社

~ おさむの鳥の目217

ランデン(京福電鉄嵐山線)の太秦(うずまさ)という駅のすぐ近くに広隆寺というお寺があります。聖徳太子が「この仏像を祀る者はいないか」と言われたのに応じて、秦河勝が広隆寺を建立し、この仏像を寺の本尊にしたと言われています。そして、この仏像というのが、国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像です。

この広隆寺の東200メートルのところに「大酒神社」という小さい神社があります。秦氏の氏神と考えられており、祭神は秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)ほか2柱です。

私は広隆寺の近くの太秦小学校に通っていたのですが、この「大酒神社」の存在は知りませんでした。その程度に、この神社の知名度は高くなかったのです。ところが、ある時、偶然通りかかって、この神社の存在を知り、その境内にあった立て札に「太秦」という地名の由来が書いてあったことから、それ以来この神社に特別の関心を持つよういなりました。

現在は「大酒神社」という標記になっていますが、元は「大辟神社」であった。秦酒公が中国の戦乱を避けて日本に来られたという歴史から、避けるという意味を持つ「辟」が使われたということも面白いと思いました。

そして、表題にあるもう一つの「大避神社」ですが、この神社の存在を知ったのは、全く予想外のことでした。赤穂浪士の「討ち入り」話で有名な播州赤穂にこのような名前の神社が実在すると知って本当に驚きました。その上、後に、わざわざ自分が現地へ行って、その神社を眼にすることになるとは思いもかけないことでした。

秦河勝は有名な人です。殊に京都の太秦近辺に住んでいる者にとっては、相当に身近な存在です。聖徳太子と関係深いということからも知名度は高いと思っています。ところが、晩年の河勝について知っている人はほとんどいません。

秦河勝は、晩年は京都に居なかったのです。政争を避けて船で瀬戸内海を西へ進み、上記播州赤穂の近くに移り住んでいたのです。しかし、秦氏のことも「大避神社」の名前もほとんど知られていません。秦氏について、比較的興味をもっている私でさえも、全く聞いたこともなかったので、「大避神社」という名前の神社があると知っても、わざわざ見に行こうというという気にはなりませんでした。

もし、「大避神社」の存在を知ったとしても わざわざ足をはこんで見に行かなかったとすれば、赤穂の「大避神社」の詳細を知ることはなかったと思います。ところが、思いがけない偶然がありました。以前に同じ会社に勤めていて、親しくしていた先輩が、赤穂なら懐かしいから、一度、一緒に行きませんかと言われたのです。

勤めていた会社というのは、東洋紡という繊維メーカーで、以前は赤穂に工場があったのです。大阪本社の全国規模の会社で、私は、入社2年目に1年間、勉強のために赤穂工場に勤務していました。その先輩も同じ時期ではないのですが、赤穂工場に勤務しておられたことがあり、懐かしいので一緒に見に行きましょうとなったのです。

そのような偶然が重なり、ある時、二人で赤穂へ行きました。JRの赤穂駅からタクシーで大避神社へ行ったのですが、思いのほか大きい神社であったのに驚きました。

神社は海に近い小さい山の麓にあり、立派な楼門を備えた堂々とした神社でした。秦氏との関係を示すものがあるのではないかと思って、見て行くと絵馬堂があって、数多くの絵馬が掛けてあり、その中に雅楽演奏家の東儀秀樹氏の名前の絵馬もありました。

東儀家は、秦河勝が聖徳太子から雅楽を世に伝えるように指示されて楽家として創設した4家(薗、林、東儀、岡)の中の1家で、以前に私が講演会の中で元宮内庁楽部首席楽長・東儀俊美さんから直接聞いた話です。ですから、この神社と秦河勝の関係が深いことは間違いありません。

東儀俊美氏の話を聞いたのは、松尾大社参集殿で開催された、太秦を含む京都西部の事跡に関する講演会でのことです。たまたまですが、そういう会に出席して得た情報ですから、秦氏に関係する事実については正確であろうと考えてよいと思います。

それから、大避神社には注目すべきものがもう一つあります。それは、神社の前の海に浮かぶ生島(いくしま)という小さい島です。この島に秦河勝が祀られていて、祭礼の時以外は、人がこの島に足を踏み入れないことになっているということです。ということは、秦河勝がこの地の人達に深く尊敬されていることを示しています。 
                 
河勝が亡くなってから千年以上の時がたっています。それほどの永い期間、河勝は播州地方で尊敬され続けているのです。京都の西方、太秦のあたりに河勝の墓のようなものが残っているのではないかと、もし考えるとすれば、見当違いも甚だしいと言わざるを得ないと思っています。

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2018年4月22日 (日)

地元飲みの楽しみ

~さかもっちゃんの知ったかぶりぶり 181~

最近、地元飲みの機会が多くなってきました。今のところ、だいたい月イチから月2回のペース。ここで言う地元飲みとは、自宅から徒歩圏内での飲み会のこと。

この街に暮らし始めて以来、平日は自宅と仕事場の電車往復に明け暮れ、休日は近所で愛犬の散歩くらいしか知らないまま20ウン年。この間、たまに地元のファミレスなどで家族と食事をすることはあっても、地元の仲間たちと盃を傾けることは全くありませんでした。地元の飲み仲間すらいませんでした。

そこで、地域デビュー計画の一環として、最初に始めたのは地元での飲み仲間探し。これはこれでもう一つのエッセイを書けてしまうくらいの壮大な物語でしたが、ぜひ別の機会に。今回は、地元飲みのメリットとデメリットについて少し考えてみました。

まずはメリットから。

メリット1: 自宅から徒歩圏内のため終電を気にせずに飲め、それこそ這ってでも帰れること(実際にそんなことはありませんが…)

メリット2: 散歩のような気軽さでフラッと飲めること

メリット3: これまではほとんど接点のなかった地元に住む学生さんやフリーランスの方々、さらには市議会議員さんとも知り合い、一緒に飲めること

メリット4: そんな方々からのクチコミ情報で地元の隠れた名店を知り、意外なお店で飲めること

メリット5: 仕事や職業に関する話題は少なく、仕事関連のグチも無いことから美味しいお酒が飲めること

次はデメリット。

デメリット1: 終電を気にせずに飲める安心感から、ついつい深酒になってしまうこと

デメリット2: 散歩のような気軽さでフラッと飲めることから、散歩のように酒が生活の一部になってしまう恐れがあること

デメリット3: 初対面の方と飲む機会が多いため、共通の話題を見つけるまで時間がかかり沈黙が続く時があること

デメリット4: 地元の隠れた名店は地元の常連さんたちが圧倒的に多く独特の雰囲気に満ちており、アウェイな気分になってしまうこと

デメリット5: 私の仕事や趣味に全く関係ない地元関連の話題や音楽・芸術関連の話題が多いことから、会話についていくのが精一杯なこと

以上のように、メリットとデメリットは表裏一体で日なたと日かげの関係。でも、プラスとマイナス全てを考え合わせると、地元飲みでは多様な方々と多彩な会話が出来る点において、メリットの方がはるかに大きい様な気がします。

これだから、地元飲みはやめられません。

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2018年4月14日 (土)

歴史的事実の背景を考える(源氏物語の誕生)

~ 池さんの歴史ナルホド! 05 ~ 
                                   
今まで4回にわたって歴史を学ぶおもしろさについて語ってきた。今回はその5回目である。今回は、歴史的事実はなぜそれが起こったのか、当時の歴史的背景を考えてみるとおもしろいということである。

例えば、『源氏物語』について考えてみる

「いづれの御時にか女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給うありけり」で始まる『源氏物語』は、平安時代の中頃、紫式部によって書かれた54帖にもわたる長編小説の大作であることはよく知られている。

この小説は日本ばかりでなく世界的にも評価が高い。考えてみれば不思議である。今から千年近くも前になぜこれほどの作品が生み出されたのだろうか? 今回はその歴史的な背景を考えてみる。

1 当時は教養の高い宮中女官がたくさん出た

源氏物語の作者は紫式部という女性だと言われている。なぜ彼女は『源氏物語』が書けるほどの高い教養を持ち得たのだろうか?

彼女は平安時代の藤原氏による摂関政治全盛期の時代に、摂政藤原道長に高い教養を見込まれ、道長の娘、中宮彰子にいわば家庭教師のようなものとして仕えた女官である。

当時の貴族の婚姻は男性が女性の家を訪問する「妻問婚」であり、貴族の出世や勢力拡大に娘の嫁ぎ先が大きな関わりをもった。

出世を願う貴族にとって、その手段として娘の教養が重視され、そのためすぐれた才能を持つ家庭教師としての女官(女房・侍女)が必要とされた。

そこで、紫式部の父も娘をそのような高い教養を持つように育てたのである。同時期に紫式部のライバルとされる清少納言は皇后定子に仕え、『枕草子』という高い教養を必要とする随筆を著した。

2 当時は「平仮名」が生まれ、宮中女官は「平仮名」を使って表現できた

当時の文学には、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』以外に、藤原道綱の母の『蜻蛉日記』や和泉式部の『和泉式部日記』や菅原孝標の娘の『更級日記』など女性の手によるものが多い。

これはなぜだろうか?それは、当時の宮廷女官が高い教養を持っていた他に、平安時代初期に生まれた「平仮名」との関わりが深い。

「平仮名」は漢字の草書から生まれた日本独特の文字である。筆記が容易な平易な文字であるばかりでなく、一音ずつに対応するので、難しい漢文ではなく普段彼らが使っている日本語の文で表現する時にも大変便利であった。

しかしながら「平仮名」は、当時の正式の文字である「漢字=真名」に対し、一段低い「仮の文字=仮名」と考えられていたために、男性より一段低く考えられた女性だけが用いるものとされたということが深く関わっている。

そのため、情景描写や当時の人々が自分の思ったことや感じたことなどを豊かに表現することは、「平仮名」を使用する女性の得意とするところとなったのであり、当然『源氏物語』にも「平仮名」が多用されている。

つまり紫式部が「平仮名」が使えたことが、『源氏物語』の優れた情景描写や感情や思いの豊かな表現を可能にしたのである。
 
3 当時は、宮中は華やかな生活と男女の交流の場であった

『源氏物語』には、貴族たちの宮中での華やかな生活と男女の交流が盛んに描かれている。

当時の平安貴族の生活は経済的にも恵まれ、文化も成熟して国風化し、華やかな宮中生活が営まれた。

また、当時は娘の嫁ぎ先が男性貴族の出世と深く関わりがあったために、宮中での男女の交流は盛んであった。

そのような中で暮らしていた紫式部や『源氏物語』の読者である貴族たちにとって、華やかな宮中生活と男女の交流は大きな関心事であり、『源氏物語』の執筆に強く影響を与えたのであろう。

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2018年4月10日 (火)

プレミアムフライデーは何処へ

~ わさくの悪知恵 211 

最近では巷でも話題にならない「プレミアムフライデー」、通称「プレ金」。

ちょうど先月3月の該当の日に仕事の打ち合わせを業者の方をしていて「そういえば今日プレ金ですねえ」と話を振ったら、「ええ何ですか、それ?」と返されたので少し驚いた。一応その方部長職にあるのだが・・・

さて、この「プレ金」いつから施行されたか覚えておられるだろうか?

昨年、平成29年の2月からで記念すべき第1回が2月24日。

第2回目が同3月31日で、この日が我が誕生日の前日で、ちょうど海外からの長い付き合いの友人たちが来日中で、都内で誕生日夕食会を家族とともに開催してくれたので記憶にある。当日都内は冷たい雨が降っていた。

元々プレミアムフライデーは政府と経済界が提唱した「個人消費喚起キャンペーン」。毎月末の金曜日は午後3時に仕事を終え、普段よりも「プレミアム」な生活を推奨する個人消費を喚起するという主旨のもの。<Wikipediaより抜粋>

少し調べてみたが、施行から1年過ぎてある調査では、1回でも「プレ金早帰り」できた人は全体の8.3%で、さらに100人以下の企業の場合は4.5%となると示している。

この数値をどう捉えたら良いやら?

関連して私が仕事絡みで遭遇した海外の企業の特殊な金曜日は--------

大英帝国北アイルランドの多くの企業では毎週金曜日は1:00PM終業。その分朝が早かったかどうかは記憶にない。

アメリカで長年取引のある製造業工場は、月曜から木曜までが7:00AMから4:30PMまでが通常就業時間。金曜日が7:00AMから10:30AMで終業というシフトを敷いていた。ただしこれはあくまで工場稼動のシフトで営業その他の管理部門には適応されていなかった。

さて我が現在の仕事に置き換え「プレ金」を見てみると・・・

一応「販売に係る」職種なので、月末最終金曜日は月のなかでも最も重要な日にあたり提唱されている「プレ金」は別世界のお話と捉えざるを得ない。

同じ捉え方をされる企業、企業人は結構多いのではないかと想像する。

そんな具合でプレ金に早く仕事を上がることもないからか、「プレ金スペシャル」を掲げ消費を煽っている小売店に遭遇した記憶もない。

どうもこのプレ金、『2千円札』と同じ道を辿るような気がしてならない。

少し違うレベルの話になってしまうが、よく立ち寄る自宅近くの立ち飲み屋さんが「金曜スペシャル」なるメニューを掲げ、「ウィスキーハイボール」が毎金曜日は何と1杯¥150で飲ませてくれる。

先月の悪飲み仲間大集合の飲み会で、ほぼ我々だけでそのお店の金曜スペシャルのウィスキーハイボールのキャパをすべて飲みきってしまったことがあった。

こういった「消費喚起」企画は大歓迎だ。

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2018年3月27日 (火)

感動力を養う  

~ soji の今日もワクワク 237  ~

2017年10月の衆議院選挙。私の住む和光市がある埼玉四区ではスターが生まれました。

豊田真由子元代議士です。 「このハゲー!」で物議を醸すも無所属で再出馬し、華々しく散って行きました。彼女を見て一句。

四区ではハゲの候補者いなかった

結局どこにも発表せずお蔵入りにしましたが、これをきっかけに本格的に川柳を始めました。

発想多彩ひろばの主催者、さとうさんが活躍する毎日新聞、万能川柳に私も投稿することに。

ハガキ一通に3句書き、週に4回を目標に投稿し続けました。

しかし3カ月続けても何の音さたも無し。一方、さとうさんの柳名「ひねのり」は紙面にしばしば登場するではないですか。

思った以上のハードルの高さに、ついさとうさんにメールで弱音を吐いてしまいました。すると、こんなお返事が。

・・・(前文略)・・・

目標が辛いものだと、確かに続きません。
川柳も、載ることが目標では辛くなります。

川柳においては「うがち」が命です。
うがちとは「見過しがちな事実に気づく」ことです。

なので、気づく(そして句ができる)ことに川柳の喜びがあります。
ここを目標にできればいいですね。

「水平線こんな小さなグラスにも」(山上秋恵)

という名句(万能川柳・秀逸句)がありますが、素晴らしい気づきですね。

「毎日が初体験」でも書いたように、私は厳しい目標を立てたがる癖があります。楽しむために始めた川柳についても、知らず知らずのうちに自分を責めていたようです。

「見過しがちな事実に気づく」「気づくことに喜びがある」これらの言葉で随分楽になりました。

そして3月12日月曜日の朝、さとうさんからのお祝いメールが。あらためて紙面を確認すると・・・ ありました!

和便器じゃたせぬ身体になりました (和光 soji)

ちょっとレトロな喫茶店のトイレにはいったところ、あるのは和便器だけ。しゃがむのがこんなに苦痛になってしまったことに気づいて詠んだ一句です。「たせぬ」は足せぬ。排泄だけでなく、満足感にもひっかけてみたのが評価されたのかもしれません。

東京地方はサクラが開花。あちこちで花見が行われています。しかし道端に目を転じれば、名もない雑草でさえ小さな花を咲かせています。

気づきは感動する力。どんな些細な発見にも動く心を持ちたいものです。

川柳は私にとって、感動力を養ういい訓練になってきました。決して力まず、楽しさを忘れず続けて行きたいと思っています。

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