2018年8月13日 (月)

歴史の深読みと考察(歴史上の二人の天才兄弟:後編)

~ 池さんの歴史ナルホド! 09 ~

今まで8回にわたって「歴史を学ぶおもしろさ」について語ってきました。今回はその9回目です。

今回も「歴史の深読みと考察」と題して、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなどや自分なりの分析・考察を加えてみると歴史学習はよりおもしろくなるということについて述べます。

今回は「歴史上の二人の天才兄弟」の「後編」として深読みと考察を述べてみたいと思います。

1 前回は「源義経は軍事の天才である」ことを述べた

(1)源義経は「軍事の天才」、源頼朝は「政治・経営の天才」だということ

(2)源義経は平氏追討の「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で、主に奇襲作戦で源氏に勝利をもたらし、軍事の天才ぶりを示した。

(3)「軍事の天才」と言える義経だが、政治や経営の才能においては兄頼朝より遙かに劣る

①策士の後白河上皇にとっては非常に扱いやすく、いいように利用された

②頼朝と対立して頼朝追討の院宣を得たが、ほとんどの武士が義経についてこなかった

2 今回は「源頼朝は政治・経営の天才である」ことを述べる

源頼朝の歴史上の功績と言えば、「鎌倉幕府」というそれまでにない新しい政権・政府を打ち立て、江戸幕府の滅亡までおよそ700年弱続いた武士政権の創設者となったということだと思います。
          
源頼朝が武士政権の創設者になり得たのはなぜか。それは彼の源氏の棟梁としての血筋と才能(政治・経営の天才)のおかげだと私は思います。平安時代末には天皇や貴族の血筋であることは今では考えられない程の意味を持っていたので、頼朝が清和源氏の棟梁としての血筋であったことは多くの人々特に武士にとって極めて大きな意味を持ち尊敬を集めたものと思います。しかしそれだけで頼朝が鎌倉幕府を開き育てることができたわけではありません。やはり頼朝にそれを生かすだけの政治・経営の才能があったからだと思います。

頼朝が「政治・経営の天才」と言えるのは、私は頼朝の行った次の2つ(1)(2)のことがあると思います。

(1)一つは、有力武士たち、特に関東武士を徹底して重視したこと

頼朝は、それまで長い間日本の社会をリードしてきた天皇・貴族ではなく、貴族にはさげすまれていてまだ高い地位を得ていないがやっと実力が認められつつあった武士に着目して、武士に依拠し、武士を組織することに成功し、武士を保護し武士のための政治を行い武士の成長を助けました。これこそ時代を見る目と才能があったということです。

現代の私たちが政治・経営を行う時に(例えば政治家や経営者としてなど)、どんな人々に依拠し、組織し、保護し成長を助ければいいか、判断することは極めて重要ではあるが極めて難しいことだと思います。頼朝がその時の権威である朝廷や天皇・貴族にすり寄らず、未だどうなるか分からない未知数の新興武士勢力に徹底して依拠したことは実はすごいことです。今の私たちは、頼朝の後に鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代と武士の時代が続く歴史を知っているので、このとき頼朝が武士に依拠したことは当然のように考えがちですが、武士がこれから成長するかどうか分からない時点で武士に徹底的に依拠したことは実はすごいことです。まさに頼朝には先見の明があったというべきでしょう。

このことをもっと具体的・分析的に述べていくと
①関東有力武士との間に「御家人制度」を確立したこと

1180年、石橋山の戦いで平氏に対して旗揚げした頼朝はあっけなく敗北して房総に逃れました。そしてその後、房総各地でその地域の地方領主である武士たちの圧倒的な支持を得て、大軍を従えて鎌倉に入って平氏と戦う反撃態勢を整えました。

この時房総の武士を中心に関東の武士たちが頼朝についたのは平氏のライバルの源氏の棟梁としての頼朝の血筋故に頼朝には利用価値があると思ったからなのでしょうが、頼朝はそれで終わらせずに、この機会に、自分に従うそれらの武士たちを家臣にしっかりと組み入れることに成功したのです。つまり、自分を主人としてそれらの武士たちを個別に自分のけにん家人(家来)にすることに成功したのです。

(頼朝が将軍についてからは将軍の「家人」として「御家人」と呼ばれ、将軍と主従関係を結んだこの制度を「御家人制度」と呼んでいます。) つまり、「御家人制度」とは当時の武士間の封建的主従関係の慣わしを取り入れた頼朝独自の確固とした主従関係制度の創設なのです。こうして関東有力武士たちを明確に自己の家来として組織化したことが、頼朝の力の源・基盤となったのです。

②鎌倉を出ずに自己の勢力・政権の基盤固めに専念したこと

よく言われるように、鎌倉は三方を山に囲まれ一方は海で天然の要害の地であるとともに、源氏にとってゆかりの地であったことが、頼朝がここを根拠地に選定した理由といわれています。しかし私は鎌倉を出発点としただけでなく、鎌倉から出ないでここ鎌倉を自己の勢力であり新政権の根拠地として育てたことが重要だと思います。

1) 頼朝は、木曽義仲との戦いや西国の平氏打倒の戦いには、自らは鎌倉に残って、弟の範頼・義経らに兵を与えて戦いに当たらせています。こうした姿勢が総大将としては大切なのです。

2) その間に、頼朝は鎌倉で「侍所」「政所(公文所)」「問注所」などの役所の創設と担当者の任命と軌道に乗せることなど新政府(鎌倉幕府)のしくみづくりを着々と行っています。

3) 京都や畿内に近づかず、当時の鄙の地、「鎌倉」を東国武士に依拠する自らの基盤であり新しい政権づくりの場として育てたことが評価できます。

③鎌倉幕府は御家人支配に必要最小限の仕組みで始めた

頼朝は、鎌倉幕府は、朝廷のように律令に基づいて要不要を問わず網羅的に膨大な官庁を設けるのではなく、御家人支配になくてはならないものを必要最小限設置することから始めた。中央官庁が「侍所」「政所(初めは公文所)」「問注所」しかないのは驚きです。しかもそれにはちゃんと理由がある。まず幕府を支える御家人を統率する役所が必要であるので「侍所」を設け、幕府の政務や幕府財政事務を司るには「政所」、「一所懸命」の武士の最大の関心事である所領の争いなどを裁判する役所が是非とも必要で「問注所」を設けた。いづれも御家人支配にはまずなくてはならないものです。

それにそれらの役所の担当官吏として、主な御家人ばかりでなく、京都の朝廷の下級官吏で実務能力のある大江広元や三善康信などの下級貴族を京都から招いて担当させるなど、実務能力を重視し、仕事が滞らないように配慮したのも流石です。

④朝廷や天皇・貴族にすり寄らず、利用されなかったこと

朝廷や天皇・貴族は古くからの権威であり当時は絶大の魅力を持っているので、ともするとそれらに近づきすり寄りたくなるところですが、頼朝は、自分の依拠するのは有力武士特に関東武士と決めていて、決して朝廷や天皇・貴族にすり寄らなかったので、利用されることもありませんでした。さらに配下の御家人にまで、自分の許可なく朝廷の官職を受けないように命じて徹底しています。だから義経が自分の許可なく朝廷の官職を受けたことを許すことはできなかったのです。

特に頼朝が「大天狗」と呼んだ後白河上皇は稀代の策士であり、義仲や義経などが次々にいいように利用されましたが、頼朝は後白河上皇にはできるだけ近づかずに利用されないようにしました。

頼朝は単なる権威付けのための無用の官職は受けませんでした。頼朝が受けた「征夷大将軍」は本来は朝廷に従わない蝦夷などの征伐に向かう朝廷軍の司令官としての役割を持っていましたが、頼朝はこれは軍人・武人としての性格を強く持つ「武士」たちを指揮するのにふさわしい官職と考えたようで、これは自ら求めて任官されたようです。(こうして源頼朝以後江戸時代まで、「征夷大将軍(将軍)」は武士の棟梁を指す地位となります)しかも、頼朝が「征夷大将軍」に任じられたのは後白河上皇の死後です)

⑤この御家人重視の政治と経営がいかに功を奏したかは次の2つのことから明らかでしょう

1)後白河上皇が義経に出した「頼朝追討の院宣」に従う武士がほとんどいなかったこと。これは頼朝の御家人重視の政治・経営が効果を挙げ、御家人たちにとって、平家を破った功労者で軍事の天才の義経に付き従うことより、鎌倉新政権の領袖たる頼朝の方が遙かに信頼が厚かったことを物語るでしょう。

2)1221年の「承久の乱」の時に、御家人たちに対し尼将軍北条時子が行った演説で、頼朝様のご恩を強調すると御家人どもが涙を流し幕府への忠誠を誓ったとの話によれば、頼朝の「御家人重視の政治と経営」がいかに効果があったかは明らかでしょう。

(2)二つは、幕府勢力の拡大と将来の布石を打ったこと
頼朝の政治・経営の天才ぶりを物語る二つ目は、自己の現在の勢力・権力の基盤固めをしながら、同時に勢力・権力の拡充と将来の布石を打ったことです。

①次々と対抗勢力を打倒・壊滅した

頼朝はまず木曽義仲の勢力を打倒・壊滅すると、続いて平氏勢力を一の谷・屋島と打倒しながら壇ノ浦での壊滅まで戦いを続け、続いて軍事の天才として台頭した義経の勢力はほとんど問題なく壊滅に追い込みました(直接手を下したのは奥州藤原氏ですが)。ここで終わらないのが頼朝のすごいところで、さらに、義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏まで攻めて壊滅させています。こうして当時の頼朝勢力に武力で対抗できる勢力が全くなくなるまで徹底的に戦い、後顧の憂いをなくしたのです。

②御家人を次々と拡充した

頼朝は最初の関東の武士を御家人にしただけでなく、戦いに勝利するとともに次々に御家人を拡充し、美濃以東の東国・東北一帯と西国の一部に勢力を拡大しています。こうして頼朝の勢力・権力と鎌倉幕府は関東だけのものではなくなったのです。

③守護・地頭を設置した

頼朝は、義経追討の院宣を得た時に、義経が隠れて全国のどこに潜んでいるのか分からない状況を利用して、全国に「守護・地頭」を置く権限を獲得して、御家人を「守護・地頭」任命しました。これは「守護・地頭」に任命された御家人にとって利益であって幕府への忠誠心が増すとともに、「守護・地頭」を利用して幕府の将来の勢力拡大の布石となるものでした。こういうことを機に乗じて抜け目なく行うのが頼朝が「政治・経営の天才」という証拠です。

こうした「政治・経営の天才」源頼朝によって、新興の武士の政権・政府である「鎌倉幕府」が設立され育成され、新しい時代が切り開かれていったのです。

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2018年8月10日 (金)

「サマータイム」の導入?

~ わさくの悪知恵 215 

2020年(平成32年)の東京オリンピック・パラリンピックの開催に際して政府・与党が夏の時間を「2時間繰り上げる」
“サマータイム”の導入に向けて本格検討に入っているという。

まず私が個人的に昔から違和感を持っているのが「サマータイム」という呼称。これは「和製語」で、英語圏の方々にsummer timeと言っても、ただ単に「夏」を意味すると思うのでなかなか通じないはずだ。

一般的に英語(米語)で言うならDaylight Saving Time(DST)となるべくで、直訳だと「日光節約時間」になる。

両方でギャップがあるように思えるのでシンプルに「夏時間の導入」と謳えば良いと思うのだが・・・

現在約70ケ国で導入されているらしく、米国では多くの州で4月の第1日曜日から10月の最終日曜日までの半年間時計を1時間早めるこの時間制度。文字通り太陽光の有効活用が目的。

緯度が高く(特にヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ)、夏の日照時間が極端に長くなる国で有効なシステムと言えるようだ。

現在我が国で導入のコアな理由としては午前7時スタートのオリンピックの花形競技マラソンがもっとも涼しい通常時間の午前5時にスタートとなり、日が高くなる前にレースを終えることができるからだとされているらしい。

ただサマータイムの発想とは、1784年にアメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられるベンジャミン・フランクリンが「太陽の光をいっぱい取り込み利用しよう」とするアイデアからで、決して「暑さ凌ぎ」ではないのだ。

現在のところ与党では最も暑い6~8月を基盤に数か月だけ2時間繰り上げる検討に入り、平成31年に試験導入した上で32年の本番(オリンピックイヤー)に本格導入する案が有力だという。いづれにしても31年、32年の限定導入となる公算が大きいと。

元々日本でもこの制度は昭和23年、電力不足の深刻化などで連合国総司令部(GHQ)の指示で導入されたが、定着しないまま4年後に廃止された。

またロシアでも長年採用されていたが、2011年に廃止になっている。理由としては国民の健康不安(特に心筋梗塞への)が挙げられるという。

今回の導入のメリットとして考えられるのは、まずは時間の有効活用=特により涼しい時間帯から一日の始動、エネルギーの節約、アフターファイブからの消費拡大、家電、電波時計も売れ行きが期待され、その他夏時間対応ビジネスの台頭などの経済効果が期待されるという。

逆に予測できるデメリットとしては:

家庭内の時計を単に進めるという単純なモノばかりでなく、大きな工場や会社では時間設定などで生じるコストの部分で不安を感じる、夏の風物詩である花火大会などの催しも開始時間・終了時間が遅くなってしまう等々・・・

また勤勉な日本人、就業時間がきても外がまだまだ明るいので自然に残業時間が増えるとも・・・?

NHKのとある最新調査によると「東京五輪・パラ サマータイム導入」に賛成が51%、反対12%、どちらともいえないが29%と発表している。

さあ、果たして実際に「サマータイム」導入されるだろうか? もしそうだとしたらどのように? 

余談だが、私の大好きなジャズのスタンダードナンバーにジョージ・ガーシュインが作った「Summertime」がある。特に、好きなバージョンが27歳の若さで亡くなってしまった孤高の女性ロックシンガー ジャニス・ジョップリン(Janis Joplin)であるのでご覧あれ。(本文との関連性は極めて低い)
https://www.youtube.com/watch?v=wjRyHY2m7sw

<参考資料: Web版産経ニュース、Summer Time Perfect Navi, Wikipedia>

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2018年8月 6日 (月)

柔らかい発想をする

今年の夏は豪雨や猛暑など異常気象が続いています。従来とはまったく違う様相を示しています。「今までは大丈夫だった」という考えは通用しません。

 

一方、世の中に目を向けると、IT化やAI化、あるいはロボット化、EV化などが急激に進み、時代や状況が目まぐるしく変化しています。

 

以上のように、自然界においても、ビジネスの世界においても激しく変化しています。こうした中、誰にも変化に応じた柔らかい発想が求められています。

 

従来通りの型にはまった発想をポイっと捨て、時代や状況に合った柔らかい発想をする必要があります。

 

では、柔らかい発想をするにはどうすればよいでしょうか。

 

まず常識や固定観念、既成概念をポイっと捨てます。「これはこうだ」という決めつけた考え方はやめます。

 

その上で、目先にとらわれずあるべき姿を目指し柔軟に発想を広げます。あれこれ工夫をします。

 

たとえば商品が売れないなら、目先的に値下げをするのではなく、「お客さんに喜ばれる」ことを目指しあれこれ工夫をします。すると売れるようになります。

 

大事なことは、「売れない→値下げをする」といった固定したやり方をやめ、「売れない→お客さんに喜ばれる」というようにあるべき姿を目指すことです。

 

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2018年7月30日 (月)

本来の姿、本来の味(2)

soji の今日もワクワク 241 

7月の3連休、ランチ時に都内を歩いた時のことです。

今年は6月末に梅雨が明けてしまい、その日も炎天下。少し歩くだけで汗びっしょりの暑さです。家人と入った洋食屋。そこで飲んだ味噌汁の美味しかったこと。「本当に体がこのしょっぱさを欲しがっていたんだね」と家人。私も同じ思いでした。

そうです。私はここで「体」という、もう一人の自分を発見したのです。目や口、手足など、自分が意識して動かすのとは別の体。例えば心臓や肝臓などの臓器。胃や腸の消化器。血管やリンパ管。疲れたからといって自分の意志では休ませられない。生きるために大切なものなのに、意外なほど無頓着。先日の洋食屋で、その「体」の声を聞いたような気がしたのでした。

前回は、人間の本来の姿を見るためには「裸にするよりも、その人の思考、嗜好に基づいた服や装飾品に判断材料を求めた方が確かな気がします」と書きました。それはあくまでも他人を判断するための考え方です。今回は自分の本来の姿に重点を置き、意識下で動くものとは別の体が大きく影響しているのでは。こんな仮説を立ててみました。

日本の平均寿命は、香港に次いで世界2位だそうです。男性は80.98歳。そして女性はなんと87.14歳。しかし支援や介護の要らない健康寿命は、男性で9年、女性で12年も短いんだとか。これが高齢社会となってしまった、現代日本の現実でしょう。寝たきり、要介護。人に迷惑をかけなければ生きられない。これが自分本来の姿とはなりたくないものです。

貝原益軒の「養生訓」には、長生きの秘訣が書かれています。その主たる内容が食べ物。医食同源の言葉があるように、食に注意することで、医者いらずの元気な体が作られるとか。その中で、体調が悪いと言ってすぐに薬や鍼灸に頼るな。旬の時に、旬の食べ物をよく味わって食べよ、とありました。

最近は私も、醤油やドレッシングをかけないで、食べ物本来の味を味わうように心がけています。といってもすぐに物足りなくなり醤油をつけますが、極力少なくしようと考えています。刺身の盛り合わせ。 魚の種類によって味わいが大きく違うものですね。これまで、全部醤油の味にしてしまったような気がします。それが刺身の美味しさだとも。

アジのたたきは醤油を付けないと、混ぜ込まれた刻みネギの辛味が途端に主張をし始めます。そして刺身のつま。これは何もつけないで食べると、ほんのりと大根の甘味が感じられます。 でも大体が無味無臭。シャキシャキとした歯触り感ばかり立ってきます。 そして気づいたのです。これは、別の刺身を味わう時に、口の中に残った魚の油を取り去るためにあるのではなかろうかと。 だからほとんど味がしないのだ。 私はわざわざ醤油に付けて食べていました。なにか、今さらながら気が付いた感じです。

現代人は、醤油やドレッシングをかけることで、塩分をはじめとした栄養分を過剰に摂りすぎるのではないでしょうか。それを私たちは無条件に美味しいと考えている。しかし消化器系の内臓たちは大忙し。何とか余分の栄養素は体外に排出しているけれど、さすがに疲弊してくる。そのうち排出しきれなくなり、毒素も含めて体内に蓄積されてしまう。すると調子が悪くなり、やがて何とか不全という病気になります。血管がつまったりしたら、すぐに死につながってしまう。一方で日本の医学は発達しているから、薬や手術で延命策が講じられます。そのあげくに、要支援、要介護。結果、生きているだけの不健康な老人が量産されるわけです。

日頃から病院のような食事をしろとは言いませんが、栄養素の過剰摂取は危険だと自覚するべきでしょう。食べ物本来の味は、 往々にして薄味。しかしその中に深い味わいがこめられています。 それを楽しめれば、将来不幸にも入院生活を送ることになったとしても、辛さを減らせるのではないでしょうか。「体」の声に出来るだけ耳を傾け、「体」が喜ぶ食べ物を摂取する。これが大事なことです。

自分を生かしてくれているのは、他ならぬ無意識下にある「体」です。決して敵対してはいけません。暴飲暴食などもってのほか。安易に薬やサプリに依存するのも避けたいですね。お迎えが来るその日まで、元気に動く「体」と共に過ごしていきたい。それを自分本来の姿としたいものです。

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2018年7月25日 (水)

ネアンデルタール人の遺伝子

~ おさむの鳥の目 220

「人類の起源でいつも気になるのは、ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人など旧人類の運命です。心情的には現生人類ホモサピエンスと混血したと信じたいのです。しかしこれまでの解説は混血否定論ばかりでした。可哀想です。」

以上は学生時代の友人が以前に書いた文章です。彼は、「人類の誕生」などの問題の研究に詳しく、客観的な知識も豊富な人なのですが、人情家でもありますので、特別の思い入れがあったのだと思います。

私も、ネイティブアメリカンに伝わる口承を書籍にした「一万年の旅路」という本を読むなど、古い時代の人類について、情報を集めていましたので、彼の考えには強い関心を持っていました。そして、「一万年の旅路」の中に出てくる昔話、人類がアフリカを出てユーラシア大陸を東へ進む話の中に出てくる旧人類との混血の可能性を示す話を紹介したこともありました。

しかし、それらは十分に説得力のあるものではなく、実際にはどうなのか判断することの出来るものではありませんでした。

ところが、今年の5月に放映されたNHKスペシャル「人類誕生」2、「ネアンデルタール人謎の絶滅人類」の中に、「5万5000年前にヨーロッパに住んでいた、ネアンデルタール人とアフリカに住んでいた現生人(ホモ・サピエンス)が中東のエルサレム付近で出会った。共存期間は1万年余りとみられる。」という文章を見つけました。

これは興味深い情報だと思って見ていきますと、われわれの疑問を明らかにする貴重なものでした。古い時代の人類についての研究は、思いのほか進んでいて、現代人が持っているネアンデルタール人由来の遺伝子は、2.3パーセントから2.4パーセントといわれています。確かに伝わっていたのです。

そして、この値はアフリカを除く全人類に関するもので、人類がアフリカを出て、早い段階でネアンタール人と接触し、その後に全世界に進出した事実と合致します。最古の人類がアフリカを北上し、アフリカを出てから全世界に拡がったとが知られていますが、アフリカ大陸に住み続けている人は、当然のことながら、ネアンデルタール人由来の遺伝子を持っていないのです。

現代人とネアンデルタール人との接触は、番組では、ネアンデルタール人の少女が山の中で仲間とはぐれて1人になっているのを現代人のグループが見つけて保護し、仲間に入れたのが始まりと想定していて、全く偶然のこととされています。

そしてその後、その少女が成人し、子供を産んだと考えているのですが、自然なことと思われます。そういう機会はごくごく稀なことでしょうが、あっても不思議ではありません。

このように、ネアンデルタール人と現代人は同じ時期に、ごく近い地域に生存していたのですが、一方は絶滅し、他方は存続して、今日の大繁栄を謳歌しているのです。両者を分ける要因は何であったのか。

語られているのは、両者のグループの大きさです。ホモサピエンスは宗教も含めて、繋がりのある人々の集団が大きいのに対し、ネアンデルタール人の場合は、多くても数十人と小さく、新しい知識や工夫が伝わり難かった。

これが進歩発展の速度を遅くする要因となって、ホモサピエンスに及ばなかったというのです。研究の結果、ネアンデルタール人の最後の居住跡というものが残っているのですが、大きいものではありません。

「絶滅最後の一人というのは誠に寂しいものだっただろう」という言葉もあるのですが、私が考えるには、「私がわれわれ同胞の最後の一人」という認識はなかっただろうから、そうは思わなかっただろうと考えています。

それにしても、「アンデルタール人由来の遺伝子は、2.3パーセントから2.4パーセントと率は低いが、われわれ現世人類に間違いなく伝わっている」と言えることがわかりました。上記友人は、もう亡くなっていて、これを伝えることは出来ないのですが、とりあえずここまで分かりましたということは出来ると思っています。

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2018年7月19日 (木)

真夏の夜、土の中から這い出す生き物を喰らう

~ さかもっちゃんの知ったかぶりぶり 184 ~

ちょうど今頃、暑い真夏の夜、土の中からモゾモゾ這い出してくる謎の生き物がいます。まるでB級ホラー映画に登場するゾンビのようですが、その正体はセミの幼虫。

土の中で数年を過ごしたセミの幼虫は、夏の夜に土中から出て来て羽化し、成虫となります。とっても長~い幼虫の期間に比べ、なんとも短い成虫の期間。たった数週間で恋して結婚して子孫を残さなければなりません。

セミの成虫は交尾して卵を産んだら役割完了。そう、繁殖だけがオトナの仕事。なんて忙しく儚い成虫の命でしょう。恋せよ、成虫。

さて、暑い夏の夜、「やっとオトナになって恋が出来るぞ!」と張り切って土の中から出てきた幼虫をオトナになる前に喰らっちゃう人々がいます。いわゆる「セミ喰い」。

古来から、少なからぬ有名人がセミ喰いでした。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「セミは味わい きわめて甘美なり」とセミ幼虫の美味しさを讃える言葉を残しています。アリストテレスは生物学者でもありましたから、彼の言葉には強い説得力がありますね。

また、ファーブル昆虫記で有名なファーブルもセミ幼虫を食べてます。オリーブオイル、塩、玉ねぎなどでソテーして食べたセミ幼虫を、「エビのような味」と記しています。さすがグルメの国 フランスで生まれ育ったファーブルです。

実は、何を隠そう、不肖私もセミ喰いの1人。アリストテレスやファーブルのように、後世に名を残す訳ではありませんが、真夏の夜、土の中から這い出す生き物を喰らってます。

私のセミ喰い方法は、チョコレートでコーティングしたセミチョコ。土の中から出たばかりのセミ幼虫を、再び、黒いチョコレートの中へ封じ込めます。チョコに包まれたセミの味わいはとってもビター&スイート、そして確かな歯ごたえ。

夏の夜、アリストテレスやファーブルも愛したセミ喰いを、あなたもいかがでしょう。

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2018年7月13日 (金)

歴史の深読みと考察(歴史上の二人の天才兄弟)

~ 池さんの歴史ナルホド! 08 ~

今まで7回にわたって「歴史を学ぶおもしろさ」について語ってきました。今回はその8回目です。今回も「歴史の深読みと考察」と題して、歴史的事実について、自分なりに深読みし、なぜそれが起こったのであろうかとか、歴史上の人物のその時の思いなどや自分なりの分析・考察を加えてみると歴史はよりおもしろくなるということについて述べます。今回は「歴史上の二人の天才兄弟」を例に、深読みと考察を述べてみたいと思います。

1 歴史上の二人の天才兄弟とは?

こう言われて、あなたは誰と誰を思い浮かべますか?考えようによってはいろんな兄弟を思い浮かべることができるかもしれませんが、私としては「源頼朝と源義経の二人の兄弟」を取り上げたいと思います。

それでは、この二人それぞれどんな天才だと言うのでしょう。私は「源義経」は「軍事の天才」、「源頼朝」は「政治・経営の天才」だと思うのです。以下その深読みと考察について説明していきたいと思います。

2 源義経は軍事の天才

(1)平氏追討の戦いでの義経の軍事の才能

源義経は兄頼朝の命で、兄範頼とともに平家を追討し、摂津一の谷の戦い・讃岐屋島の戦いで勝利し、長門壇ノ浦で平家を滅亡させたことで知られています。これらの戦いの源氏方の主な勝因として、源義経の軍事的な才能が上げられます。特に摂津一の谷戦いと讃岐屋島の戦いは義経の奇襲作戦の勝利と言われています。

一つ目は1184年2月の一の谷の戦い。西国で勢力を回復した平氏は摂津福原に集合し、近くの一の谷に陣を構えました。一の谷は、前は瀬戸内海、後ろは険しい鵯越(ひよどりごえ)という絶好の地形でした。これと対峙した源氏の軍は、源範頼を大将とする大軍が浜を通る狭い道を進軍しました。平氏は全軍がそこから来ると信じていたと思います。ところが突然鵯越を下ってくる義経軍の奇襲に遭い、驚いた平氏は総崩れになって敗走することになりました。ここに義経の真骨頂の「奇襲攻撃」があるのです。奇襲攻撃は文字通り「奇襲」であって、敵が予想もしない「奇策」であるからこそ成功するのです。鵯越の坂は急坂であって、到底馬で進撃するとは敵も味方も一般に思わない状況であったから成功したのです。しかし義経からみたら鵯越の坂は降りられない坂ではないし、日頃関東の台地と低地の起伏の多い土地を駆け回っている当時の板東の馬を使えば大部隊で駆け下りられないことはないと構想したのでしょう。こうして義経の奇襲は大成功しました。

二つ目は1185年2月の讃岐屋島の戦い。平氏一門は、1年前に一ノ谷の戦いで敗れはしたが、なお瀬戸内一帯の制海権を温存し、屋島に本営を置いていました。屋島も瀬戸内海に面しており、平氏は海戦に備えていました。2月18日は暴風雨になりとても戦いどころではないと平氏は考えていたのだと思います。義経はこれこそが襲撃の機会だと考えたようです。今なら無理をしてでも四国に渡れば敵は油断しているに違いない。そこで遭難の危険を心配する部下が反対するにもかかわらず、強行して暴風雨の中をわずかの兵で四国の阿波に渡ることに成功します。義経軍は上陸後すぐさま屋島の裏に回り、奇襲攻撃をかけます。平氏は大軍が奇襲してきたと勘違いして敗走し、海上を一路長門に向かうのです。これもまさかこんな時に攻撃してこないだろう。しかも少数で攻撃しては来ないだろうと相手が思ったから成功したのです。これを契機として、熊野・河野などの有力水軍の参加を得た源氏軍は、平氏方と瀬戸内の制海権を争い、きたるべき壇ノ浦の海上決戦に備えることとなりました。

三つ目は1185年3月の長門壇ノ浦の戦い。この戦いは奇襲作戦とは言えないかもしれません。当時の瀬戸内海に於ける平氏の拠点は讃岐の屋島と長門の彦島の二つでした。そのうち屋島で敗北した平氏は彦島に全軍を集結。義経軍は瀬戸内海の東から下関の彦島に迫ります。彦島の背後の九州は源範頼軍が制圧し、陸に陣取っています。これで前後を追い詰められた平氏は関門海峡の壇ノ浦に出て義経軍を待ちます。平氏軍船500艘、義経軍船840艘だったといいます。3月24日正午開戦、初めは海戦に慣れ、東進する潮流にのった平氏方が有利だったが途中から逆潮となり、午後4時ごろ平氏軍の敗北・滅亡が決定、と解するのが通説です。

この壇ノ浦の戦いの源氏の勝因としていくつか挙げられていますが、平氏軍船500艘、義経軍船840艘と戦力差があるようですが、義経軍は寄せ集めでばらばらの小舟ばかりで決して有利ではなかったようです。それ以外の勝因として以下のことが挙げられます。

①本来は平氏軍は水軍を持ち海戦に慣れていて、板東武者中心の源氏軍は陸での戦いしか経験がないので、平氏有利と言われていたが、源氏も屋島の戦いの後、水軍を味方につけていたから戦力差はかなり縮まっていたようです。

②最も大きな勝因と言われるのが「潮流説」で、これが通説です。すなわち関門海峡は潮の流れが激しい地域でしかも一定時間ごとに流れが逆流する。壇ノ浦の戦い当日は最初西の平氏側から激しい流れがあったので平氏が優勢に軍を進めたが、潮流が逆転することを知っていた義経軍は深入りせずそれをそれをしのぎ、潮流が逆転してから猛攻撃をしかけたというものです。

③海戦では当時は船をこぐ水夫は「非戦闘員」として切りつけたり矢を射てはならないという暗黙のしきたりがあったが、義経はむしろ積極的に水夫を矢で射させて相手の船の操縦を奪った。これはある意味「奇襲」と言えるかもしれませんし、これが最も効果があったとも言われています。
(先日のNHK「風雲!大歴史実験」で実験をしてみて、②は疑わしいが③が最もあり得るという結果でした。)

以上のことから、源義経は「軍事、特に戦術(しかも奇襲作戦)の天才」と言えるでしょう。

(2)軍事の天才の義経だが、政治や経営の才能は劣る

「軍事の天才」と言える義経ですが、政治や経営においては兄頼朝より遙かに劣ると思われます。その根拠として

①策士の後白河上皇に言いように利用されている

後白河上皇は自らの願い・希望を誰かを利用して実現させようと策を巡らす策士です。まず平氏の横暴が目に余りさらに自らも平氏により幽閉されてしまうという目に遭わされてると、この平氏の力をそぐのが後白河上皇の願いになります。そのため最初に有力だった木曽の源義仲に平氏を京都から追放させました。その後、京都に入った源義仲の横暴が目につくと今度は源頼朝(義経)に義仲を討たせ、さらには頼朝(義経)に平氏を討たせました。

そういう策士が後白河上皇なのです。その後後白河上皇は義経に兄頼朝に図らず官位を与えるなど、頼朝・義経の対立を利用し、軍事の天才義経に頼朝を討たせようと頼朝追討の院宣を出します。後白河上皇は頼朝は扱いにくいが、義経は扱いやすいと考えたのでしょう。しかし義経にほとんどの武士が付いてこないことを知ると、頼朝の圧迫で簡単に義経を裏切り、逆に義経追討の院宣を出します。これは義経に政治の才能がなく、策士後白河上皇にいいように利用されていることを意味しませんか。

②頼朝追討の院宣にほとんどの武士が義経についてこない

兄頼朝と対立した義経は、自分には当時最も重要だった軍事の才能があるので多くの武士が自分についてくるはずだと思ったのでしょう、後白河上皇に頼朝追討の院宣を貰って頼朝を討とうとしました。しかし多くの武士は義経についてきません。これは義経にとって大きな誤算だったと思います。

ではなぜ多くの武士は、軍事の天才義経ではなく、軍事は大した才能がない頼朝を選んだのでしょう。

1)多くの武士にとって、頼朝は、朝廷・貴族や平氏に対抗し自分たちの所領を安堵し、自分たちに利益を与えてくれる大将だが、義経はそういったことがなかったのでしょう。義経には経営の観念がなかったのでしょう。

2)確かに義経の軍事の才能はすごいが、大将としてはどうかと思われていたのでしょう。義経の戦術は奇策なのでその策は一見無謀に見えるものだから義経に従った武将の内にはその策に反対するものが多かったのですが、そうした者たちに丁寧に説明し納得させることはせず強引に押し切ったようです。また配下の中には梶原景時のように大将である義経が先陣を切ることに反対した武将もいましたが、それも受け入れませんでした。そのため梶原景時は義経に恨みを抱いたようです。当時の戦いから言えば大将が敗れたら軍全体の敗北につながるので、大将は危なくないところにいて命令を出すのが当たり前と考えられていたのです。

義経に頼朝ほどではなくてももう少し政治と経営の才能があれば、後白河上皇に振り回されることもなく、頼朝ともそれなりに旨くやって鎌倉幕府の高官ぐらいにはなれたかもしれないなと思うのです。
                                         
今回は「軍事の天才」源義経について考察してきました。次回は「政治・経営の天才」源頼朝について考察したいと思います。

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2018年7月10日 (火)

週のうち4日間神奈川県でお仕事

~ わさくの悪知恵 214 

6月の最終週は4日間も神奈川県で仕事をすることになった。

まず最初の3日間は横浜で大きな展示会のお仕事。出展者としての参加だ。

私は個人的に展示会を覗き歩くのが好きだ。何かワクワク感があるからだ。

逆に展示会を視察して「新しいものなかったねえ!」とコメントする方々が結構多いのには異議を唱えたい。たぶんこの方々は行かれる展示会ほぼすべてに同じコメントをしておられるのではないかとさえ思う。

かく言う私もその昔はその風潮だった。

しかしながらその昔付き合いのあった業者さんの担当者に彼の「展示会の観方」というものを教わってから大きく変わった。

それは「どんな展示会にもその展示会から受け取れる〝流れ″があるはず。その〝流れ″を自分なりに探そうとする事が大事だよ。」だった。

これは正直〝衝撃″に近いものがあり、それまでの我が展示会の観方を大いに反省させられ、それ以降常にその〝流れ″を必死にキャッチしようとする自分がいる。

こちら首都圏では大きな展示会の会場としては東京有明の「ビッグサイト」、横浜の「パシフィコ・ヨコハマ」、千葉の「幕張メッセ」が主になるが、今年もこの3つすべてにすでに行っている。

今回は出展社する側。会場は「パシフィコ・ヨコハマ」だ。

みなとみらい線ができてアクセスが便利になったとはいえ、私は千葉県民。余裕を持って臨もうとするとドアトゥドアを一時間半はみなければいけない。特に朝の通勤時間帯はすごい混雑する路線。かなり余裕を持って毎日通った。

さらに出展者として臨むと一日中出展小間にアテンドが基本になるが、イコール一日中立っているか、歩いているかのどちらかになるため足腰に来る負担は半端でない。3日間が終わりすぐにいつも通っている「整体院」に駆け込んだ。

さて、今回の展示会は我が業界が4年に一度開催する大きなイベント。時代の流れからかなり海外からのお客が見込まれ、実際にその通りとなったが、我々の出展テーマをある一つに絞った。

それは、時代の流れ=流行で【インスタ映え】だった。

連日その「インスタ映え」に行列ができ盛況だったので我々としては「流れ」を提供できたかと思っている。

その横浜での展示会の疲れが完全に癒える間もなく2日後には同じく神奈川県の秦野市へ出向く。

此処は親会社にあたる工場があるところで、半年に一度は必ず行くことになっている。さらに荷作業がメインとなる。

丹沢の麓がそれほど遠くないところだ。

我が家からのアクセスはドアトゥドアで余裕を持って「3時間」。ドアトゥドアで新幹線を使えば名古屋まで十分に行ける
時間枠だ。

新宿から小田急線の急行に乗って大体80分かかるので半端ではない。

幸いにもほぼ同じチームメンバーで毎回「荷作業」をこなすので精度がかなり上がって来ているからか作業時間がどんどん短縮されていっているのは有り難い。

最近はほぼ午前中でメイン作業が終了し、昼食をはさんで午後は再確認を行い割と早目に引き上げることができるまでになった。

ちょうど当日が関東でも「梅雨明け」宣言された日で〝暑さ″を感じる日であった。

週のうち4日も神奈川で仕事だったので、さすがに「アウェイ感」感満載でその週を終える。

体力的にも少し辛かったけれど、今現在もこういった仕事ができることに感謝しようと思っている。

残り少なくなりつつある我が仕事人生。まだまだプラス志向で臨まなければ、そして臨められると感じさせてくれた一週間だった。

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2018年7月 4日 (水)

中欧に行ってきました

中欧(チェコ、オーストリア、ハンガリー)を旅行してきました。

風景や建物がとても素晴らしかったですが、

それ以上に心に焼き付いているのは、様々な出合いや出会い。

これがあるから旅行はやめられません。

旅行記を書きました。よかったら読んでください。

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2018年7月 1日 (日)

本来の姿、本来の味

~ soji の今日もワクワク 240  ~

東京ドームのすぐそばに建つ文京シビックセンター。25階には、無料の展望台があります。

眼下を見下ろすと、都内の街並みが。でもこの高さまで上ると、人の姿はほとんど識別出来ません。動いているのは車と電車ばかり。展望台に上るたび、私はこんな妄想を抱きます。

地球に宇宙人到来。彼らは都市部の上空から地表を探索し、蠢く知的生命体を発見した。それらは甲虫のような生物で、線上に等間隔に並び、地上を滑るように這い回っていた・・・

そうです。おそらく宇宙人は、生命体として認識するのは、まず車ではなかろうかと。しかしその正体は、車を運転する人間。だがその人間たちも、色とりどりの服を着ています。生命体本来の姿は、服を脱がせて裸にしなければ分かりません。

また別の話。

定食屋で冷やっこを食べた時のこと。昔入った高級料理屋を思い出しました。そこでは、豆腐に醤油をかけるなと言うのです。本来の豆の味がしないからと。

そう言えば、私たちは様々な食べ物に調味料を付けて食べています。刺身には醤油、とんかつにはソース、サラダにはドレッシング・・・別に何の疑問も持たず、日常的に行っていることです。しかしあらためて考えました。ひょっとすると調味料をかけることで、本来の味を消してしまっているのではなかろうかと。

つゆを付けて食べる蕎麦もその一つでしょう。特に打立て。そばツウはまずつゆを付けずに食べるとか。先日、私もやってみました。確かに蕎麦の風味が豊かで、淡白な中に深い味わいがあります。しかし何口がすすると物足りなくなり、つゆを少しだけ付けました。そうです。つゆって、あくまでも物足りなさを補うためにあるわけで、べちゃべちゃと付けてはいけなかったのですね。

古代、人間は肉や野菜を食べる際、調味料などは使わなかったことでしょう。推測ですが、本来の味で十分満足していたはずです。一方現代人は、もはや調味料無しで食べることはまず出来ません。どちらがいいとか悪いのとかの比較論ではありません。が、せめて最初の一口だけでも、調味料を付けないで食べてみると、本来の味に対する新しい発見があるように思います。

元に戻します。車の中から出て来た人間の話。

服などの装飾品を取り去り、裸にすれば本来の姿が分かると書きました。が、一部のケースを除き、それが正しいとは言えないでしょう。なぜなら、本来の姿とは、その人間の思考に大きく影響されるからです。服や装飾品、場合によっては乗る車までもが、その人間本来の姿を現している、と言っていいのではないでしょうか。

もちろん、肉体美を追及している人はいますし、この肉体こそが自分本来の姿と言うでしょう。が、大半の人は、服や装飾品に自分の姿を託しています。敢えて乱暴な言い方をすれば、その人間の本来の姿を見るためには、裸にするよりも、その人の思考、嗜好に基づいた服や装飾品に判断材料を求めた方が確かな気がします。

当然、無頓着な人もいます。また、一見ずぼらそうで意外なところにその人のこだわりや価値観が見え隠れする人も。そんな中にもまた、人間本来の姿が現れ出るのです。

さらに、現状だけでは本来の姿は見えて来ません。事件を犯した容疑者に対し、まさかそんな人には見えなかったとの話をよく聞きます。その人の過去はもちろん、将来何をしたいのか、前後まで探らないと見えて来ないでしょう

自分の本来の姿を一番知らないのは、その人本人かも知れません。自分の配偶者や親、身近な友人の講評が、意外と的を射たりする。あの人は、明るい、優しい、人に親切。一方、暗い、冷たい、自己中心などなど。高評価はいいけれど、仮に低い評価が出た際、それを治そうと前向きになるのか、どうせいいやと開き直ってしまうのか。これも本来の姿の一部と言っていいと思います。

今はそうでなくても、一生懸命美しくなろうと努力している人。今は美しいが、何もしていない人。おそらく将来は大きく差がつくことでしょう。

本来の味は、いかに調味料をマイナスして味わうか。一方、本来の姿は、いかにプラスされた服や装飾品から探求していくのか。

今年は早くも梅雨が明けてしまいました。わずかな雨の中で、濡れていたアジサイ。七変化と称される花の色は、吸い上げた養分による酸性度によって変わるのだとか。ではアジサイの本来の色は何だろう。ふつうそんなことは考えませんね。花びらが七色に変わるのが、本来のアジサイなのですから。

変化の激しい現代だからこそ、目標に向かって変わって行こうとする姿が本来の姿なのではないか。そんなことを色とりどりのアジサイたちに教えられた六月でした。

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